2018年12月4日火曜日

【信仰書あれこれ】自伝的説教論


加藤常昭著『自伝的説教論』(2003年、キリスト新聞社)をとりあげます。

本書発行時点で著者は74歳。その人生のほぼ半分、38歳までの歩みを記したものです。

◇◆◇

自分の趣味と牧師の務めとの関係
  • 今でも自分が最も愛しているのは、やはり演劇であると思っている。ただそれだけに芝居を観に行くことを自分に禁じている。往き始めたらとことん観ないと気が済まない性癖が、日常の生活を破壊しかねないと危ぶんでいるからである。(84~85頁)
  • 歌うことと説教することとは同じだと思う。歌もまた人の心に訴え、動かし、説得する。それは単なる技巧ではなく、内面から生まれる力である。(88頁)
  • 詩は本来、そのまま朗唱された。その言葉の響き、抑揚が生かされた曲こそが優れており、それをそのように歌う。言葉、そのリズム、それに自然に結びつく音楽、それを自分の歌として体得すること、その修練は、言葉を語り生かす説教のために、どれだけ役立ったことであろうか。説教の言葉も生きた言葉として語られ、聞かれるべきものなのである。(92頁)

説教についての学び
  • (神学校)最終学年で……説教実習をした。……私は、ローマの信徒への手紙第1章17節について説教させられた。……実際に語った時の原稿が残っている。批評の言葉が加えられている。そのひとつは、ルターとニグレンの引用が重要なところで用いられていることである。なぜ大切なところで、権威あると思われる神学者の引用に逃れて、説教者自身の言葉でメッセージを語ろうとしないのか、という批判である。これは、痛烈な批判である。忘れることができない言葉となった。(156頁)
  • 私は……全文を書いてからメモを作るという説教学の教えを守らなかった。そうすると一度書いた文章を再現することに心を奪われるように思った。そこで、メモを書くだけで、あとは自由に語るようにした。メモには、説教を語る順序、そこで語るべきことの要点、引用する文章、言及する人名、地名を書き留めておく。それ以上の詳細な表現も、いろいろ考えはするが、記録しない。……これは新しい経験であった。言葉に乱れが生じ、くどくなったりする。しかし、言葉が生きてきたことは確かであった。聴き手の反応が分かり始めた。(169頁)

キリスト教とお盆
  • 私の母は、植村正久から洗礼を受けてはいたが、その母に育てられた家には仏壇があった。毎朝、小さな器に米飯を盛って備え、灯明を灯して鉦をチンと鳴らしていた。……子どもたちは、母の行為をからかい、偶像礼拝を捨てきらないと批判した。……私も納得できず、あるとき、母にその真意を問うた。母は、こんなことを言った。……仏壇に位牌がある故人は、仏教信仰を持って死に、仏式で葬られた。死んだ後にも自分が、その信仰に従って供養されることを願いつつ死んだのではないか。それを裏切るわけにはいかない。独身時代に洗礼を受けた時、自分が結婚した後の家庭で、どれだけ自分の信仰を重んじてもらえるか、絶えず問うたそうである。……自分がキリスト者としてそう願うのであれば、他の信仰に生きた人々もまた、同じように重んじてあげたい。お前たちの代になって、仏壇が消えても仕方がないが、暫くは、こうしてあげたいのだと言ったのである。(182~183頁)

伝道を始めた頃から現在まで持ち続けている問い
  • 金沢で伝道を始めてすぐに……私の心の中に生まれた問いがある。今でも残り続けている問いである。それは、ごく素朴な問いであるとともに、教会のありようを問う基本的な問いである。(中略)教会堂に身を運び、日曜日の午前10時から昼までの時間を私たちと共に過ごし得るということ、これは自明のことではない。この場所と時間を確保するために、皆それぞれに戦っている。しかし、それができない人々には神の言葉は届かず、神の恵みは及ばないということであろうか。その上に、石川県下に教会堂もない町村はたくさんある。曜日を問わず、毎日のように集会を開いてもよいのではないか。神の救いは、日曜日午前の教会堂というところに限定されるのであろうか。伝道者である牧師は、主日礼拝に説教していればそれでよいのであろうか。すべての者に聖日厳守を求めるべきであろうか。私が抱き続けている問いは、これである。(191~194頁)

大好きな演劇鑑賞を、本来の務めをおろそかにしないために禁じているという厳しさ。最後の「問い」には、著者の伝道者魂を感じさせます。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】 

【信仰書あれこれ】思い出の植村正久

斎藤勇著『思い出の人々』(1965年、新教出版社)をとりあげます。

著者は英文学研究の第一人者であり、植村正久に薫陶を受けたキリスト信徒です。植村正久は、内村鑑三と同時代に生き、日本のプロテスタント・キリスト教の礎を築いた巨人です。

本書には、内村鑑三、新渡戸稲造高倉徳太郎羽仁もと子など、錚々たる人物との著者の交流が記されていますが、以下では、植村正久に関する部分のみをご紹介します。

◇◆◇

羽仁もと子の植村正久への感謝
  • 植村に対する羽仁夫人の尊敬や追慕の心は、(彼女の)『著作集』第14巻「半生を語る」の中に記されている。「先生は……数年に渡って、毎週一度私たちの家で熱心な集まりをしてくださった。……私たちはそのおかげで、本当に唯み名を崇めるために自分たちはあるのである、唯み国を来たらせるために働くのである、ということが初めて真実、自分のいのちになったのである」。自由学園創立の動機もここにあったであろう。(50~51頁)

植村正久の働きの広さ
  • 植村正久は、富士見町教会の牧師として、東京神学社(東京神学大学の前進)の校長として、また『福音新報』の主筆として、優に三人分の劇務を全うした。しかもそのいずれもが、精力絶倫な偉人でなければ到底なし得ない大きな事業であった。彼はキリストの福音のために事を計れば必ず聡明、実行においては常に不屈不撓、日本におけるキリスト教会の基礎を据えた英傑であった。しかもそれと同時に、細心な注意と真心から出た同情とをもって、一々の魂を数知れぬほど夥しく教え育てた大牧師であった。(203頁)

植村正久と説教
  • 説教がただ文学としての価値を目安として読まれるべきものではないこと、もちろんであります。しかし、偉大な説教には文学としても不朽の価値を有するものが少なくありません。したがって文学的価値が高いということは、その説教者が文化人としても優れた功績をあげた人である、ということになります。そして植村先生は、明治から大正にかけて、我が国における最大文化人の一人であります。(228頁)
  • ある日曜の朝、この富士見町教会で私も伺った説教の初めに、「今朝は他のことを話すつもりで来たのであるが、先ほど礼拝に出て来た人の顔を見て、まったく別の違った話をする気になった」という意味のお断りがあったこともあります。そういう時は、一匹の迷える羊を思う牧者としての熟誠が自ずからほとばしり出た説教となったのであります。(231頁)
  • 1899年の『福音新報』には、説教者の心得とすべき一文が載っております。それは、リチャード・バックスターという英国清教主義牧師のことを書いた短い文章です。「彼の講壇に上るや、前進の能力と同情とを悉く注ぎだし、自らも燃ゆるばかりの熱心になりて、而して後に聴衆をも燃ゆるばかりの熱心とならしめんことを願えるという。彼自ら己が説教の状態とその目的を真率に語って曰く、……I preached as never sure to preach again, And as a dying man to dying men.……もう二度と説教する機会があるまいと思って、死にかけた人が死にかけた人たちに対してするように説教した、……先生もこの覚悟を持って命がけの説教をした方であったと思います。(231~233頁)
  • バックスターに関する文章の続きはこうです――「今日の教会において、甚だ嘆かわしく思わるるは、講壇の調子の衰えたることなり。美わしき説教や面白き説教はこれあらん。されど真に人の心に迫った悔改を促し、そのうなだれたる霊を励まし、憂い悲しめる者に限りなき慰藉を与うる力あるものは稀なり。その原因は要するに説教者自ら熱する所なく、特に主張せんとする思想を懐かず、深く罪悪と戦いてこれを悔改する経験乏しく、基督の恩寵に生活するの味わいを知らざる者多きにありと言わざるべからず。(233頁)

植村正久については十巻近い著作集や全集も出ていますが、手ごろなもののとしては、『日本の説教2 植村正久』(2003年、日本キリスト教団出版局)や斎藤勇編『植村正久文集』(岩波文庫)があります。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】 

2018年11月30日金曜日

【信仰書あれこれ】生活のスパイス


聖フランシスコ・サレジオのすすめ――生活のスパイス365日』(改訂版2006年、ドン・ボスコ社)をとりあげます。

胸ポケットに入りそうな薄い小冊子(値段も手ごろ)です。一つひとつの短い言葉にスパイスが利いていて有益です。ちなみに矢印の後の言葉は森川の個人的な感想です。いくぶん「遊んでいる」部分がありますので、まじめ一筋の方は、矢印の後は読まないことをお勧めします。

◇◆◇

  • 永遠のためにならないものは、むなしいものばかりです。
    → 初球から160キロ超の直球です、空しいものばかりため込んでいる私には。
  • つらいことや悲しいことがあったとき、聖人たちはもっと不快なことを喜んで耐え忍んでいたことを思い出し、勇気を奮い起こしましょう。
    → これを実践するためには、苦悩の渦中で、それにはまり込むのではなく、一呼吸おいて自分を客観視する訓練やユーモア感覚が求められる気がします。
  • 徳の実践とは、あれこれ考えるよりも、主に信頼して自由に歩むように努めることです。
    → 冬の朝、布団から出ようかどうか悩んでいる時に思い浮かべるべき言葉です。
  • 他人を、神との関係において見ない人は、清く平等に根気強く愛することはむずかしいでしょう。
    → 恐らくどんなことも、「神との関係において見る」がキーワードなのでしょう。
  • 最も虫の好かない人に対して、何度も、柔和と愛徳を実践しましょう。
    → わかっているけど、できそうにないと感じる。ということは、本当はわかっていない、ということか。「何度も」が付くことでハードルが一気に上がります。
  • 自分の不完全さを知って不安になってはいけません。こうして私たちは自愛心や自分を過度に評価する危険から救われるので、むしろ喜ばねばならないくらいです。
    → 我が毎日を「喜び」に変えてくれる言葉です。
  • 自分の判断を捨てることほど、むずかしいことはありません。謙虚で完全になるために、これ以上必要なものはありません。
    → 実行するのが困難か否かということではなく、必要か否かということがキモだということですね。もちろん「神様の目から見て、今のあなたに必要」という限定的視点が入るのでしょう。
  • 霊的乾燥の中で行われた神に対する一つの愛の業は、楽にできたときの数多くの業より値打ちがあります。
    → 私がキャッチャーの時に何度も盗塁ができて喜ばないで、ソフトバンクの甲斐がキャッチャーの時に一つでも盗塁を成功させなさい、ということ……かな?
  • すべての必要事と仕事において、神を信頼しなさい。そうすれば常に成功するに違いありません。
    → この場合の「成功」は「神の目から見て」ということですね。定義上、神が失敗することはありえませんから。
  • あなたの生活を見た人が、同じように信心深くなろうと励みたくなるように、あなたの信心を愛すべきものにしてください。
    → こんなコラムばかり書いてないで、外に出て行って困っている人を助けなさい、という声が聞こえてきました。
  • なんの善も行わず、一日過ごしてしまうことは、大いなる悪です。
    → 激辛スパイシーです。単なる悪ではなく「大いなる悪」だという点がポイントか。
  • 実現不可能な偉大な事業を果たそうと情熱を燃やすよりも、私たちに与えられた小さな機会に忠実であることを神は望んでおられます。
    → 「大切なことは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめてしたかです」(マザー・テレサ)に似てます。まず求められるのは、与えられている「機会」を見逃さないことです。
  • 最も優れて、獲得すべきことは単純さです。
    → 自分ではずっと前に獲得しているように思いますが、恐らく私の考えている「単純さ」の中身と上記のそれは大きく異なるのでしょう。

数ページ眺めただけで、これだけのスパイスてんこ盛りです。これが120ページも続くのですから、お買い得です。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】C・S・ルイスと昼食を共にできたら


A・E・マクグラス著『C・S・ルイスの読み方――物語で真実を伝える』(2018年、教文館)をとりあげます。原書(2014年)のタイトルは”If I Had Lunch With C.S.Lewis”。

本書は、ルイスと昼食を共にすることができたならルイスは何を語ったであろうか、と著者が想像して書いたものです。悲しみに直面する人に、無神論者を友人に持つキリスト者に、キリスト信仰を最も適切に説明する仕方について悩んでいる人に、自分の信仰に疑いを抱いている人に……我々が人生にまつわる問題と格闘し、よりよい社会人になるためにルイスがどのように助けてくれるかを明らかにしようとしています。

◇◆◇

直観から導かれるもの
  • 人間には深い感情や直観があり、それは時空的存在を超えるところにある豊かなもの、我々の存在を豊かにするものがあることを直感していることをルイスは知っていた。人間の内には、深く、また強烈な憧れの感情があり、それは現世的な事物や現世の体験によっては満たされないものであるとルイスは言う。ルイスはこの感覚を「喜び」と呼んだ。そして、「喜び」の感覚は、それの究極的な源泉であるもの、目標であるもの、つまり神を直観しているのだと言う。神は、単純愚直な無神論や、だらけた不可知論などから我々を呼び覚ますために「喜びの矢」を我々の心に打ちこみ、我々の故郷に通ずる道を発見するのを助けようとしている。(27頁)

キリスト教という枠組みの首尾一貫性
  • 世界は曖昧模糊としており、焦点がないように見えるかもしれない。そのために我々は世界に秩序を見ることができない。だからこそ、我々は焦点を見定めるためにレンズを必要とする。ルイスにとってキリスト教はレンズを提供し、我々が存在全体をより明瞭に見るようにしてくれる。あるいは、譬を変えれば、我々はただの騒音ではなく、メロディーを聞くようになる。(35頁)
  • ルイスはこの「大きな見取り図」が、我々自身の人生のような個々の小さなことの意味も解明してくれると言う。……我々は大きな図像の中に置かれ、そこに一定の場所を与えられる。その図像は、我々なしには完結しない。我々に見慣れた世界が、より永続的で堅固なるものであることを理解する。存在全体の大きな全体像を把握することは、我々自身の世界を――及び我々自身を――よりよく理解することになる。(35頁)

物語を生きる人間
  • 私たちは誰でも物語のうちに生きている。物語は私たちの人生に形を与える「メタナラティブ*」である。……私たちの中のある者は社会の進歩という西洋特有の物語を想定して、その中で生きている。文明は(技術的に、社会的に、道徳的に)常に改善されていると考えている。他の人々はラジオやテレビが一日中流しているトークショーが売り物にする物語、個人の進歩という物語の中に生きている。つまり、最も大事なのは個人であり、よりよい情報、より多くの情報がよりよい自分を有機的に作り出すのだとされる。……そこで、ルイスは再び訊く。「君はどの物語のうちに生きているのだろうか。君は君の物語を賢明に選んだだろうか。君が君自身に語る物語に疑問を持ち、現実に合っていないのではないかと考えたことはないだろうか」。(64頁)
    *注:ナラティブは歴史物語とほぼ同じ意味で用いられる。日本書紀も平家物語もクロニクル形式で書かれているが、ナラティブである。ナルニア国物語もナラティブである。それらのナラティブは特定の目的や狙いを伝えるために語られる。メタナラティブの目的は、諸々のナラティブの意図や狙いが何なのか、それらの物語の中に生きる人々が作る社会がどのようなものになるかについて解明することである。(238頁)
  • 私たちはそれぞれ自分自身のユニークな物語を持っている。しかし、私たち自身の物語は「壮大な歴史物語」、私たちの物語に新たな意味と重要性を与える「大いなる物語」に結びつけられなければならない。……私たち自身の物語はより大きな何ものかによって枠が与えられており、それによって私たちは価値と目的を与えられる。ある意味では、信仰とはこのより大きな物語を心に受け入れ、私たち自身の物語をその一部とすることである。(78頁)
  • 信仰には、古い自分に死に、復活して新しい生命に生きるということを伴っている。……ルイスはこの主題をナルニア国歴史物語として翻案する。我々は物事についての自分自身の判断基準(準拠枠Frames of Reference)を持つことをやめる。私たちは自分自身の物語が罠になり得ること、その罠にかかって、自分は自分で作った牢獄の囚人になり得ることを知るようになる。私たちは、純粋に利己的な思いや行動のうちに閉じ込められる可能性がある。(80頁)

本書には、ルイスの著作(『ナルニア国物語』『キリスト教の精髄』など多数)を読むための手引き的な役割も与えられています。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】

【信仰書あれこれ】人生の四季

ポール・トゥルニエ著『人生の四季――発展と成熟』(三浦安子訳、1970年、ヨルダン社)をとりあげます。

医師である著者は、精神療法の技術とキリスト教的人間理解に基づいて、人間を全人格的に把握することによって初めて真の医療がなし得る、と考えます。

本書では、人間の生涯は絶え間ない発展の途上にあり、人生には誰もが必ず経なければならない様々な時期があって、時期ごとに神の計画が定められていることを唱えます。

以下では、子供から大人へ成長するために重要な役割を担う四つの要素(愛・苦悩・同化・順応<適応>)を説明した部分を引用します。

◇◆◇

<愛>
  • 両親の愛がたとえどれほど大きくても、それだけで子供の欲求を完全に満たすことは不可能……です。聖書はこのことをよく知っていて、人間というものはこの地上で絶えず焦燥に駆られ、無口で、頑固で、幻滅を味わいながら、失われた楽園への懐郷の念を苦くかみしめていなければならないのだと、私たちに告げています。この問題に対する解答が、神の愛なのです。(中略)近代人の特徴であり、現代文学に非常によく取り上げられているこの世の悲劇的な孤独に対する唯一の有効かつ偉大な解答は、個人を対象として注がれる神の愛です。(58~59頁)

<苦悩>
  • 苦悩そのものは決して価値のあるものではありません。……私たちが苦悩をどのように体験するかという、苦悩の受け止め方を問題にしているわけです。……私たち医師の任務は、可能な限り、身体的な苦痛や精神的苦悩に打ちひしがれている人間の味方となることにありますが、それと同時に、その苦悩や苦痛を意義ある体験たらしめるように助力することにあるのです。(60~61頁)

<同化>
  • たった一つ、無限に同化しうる対象があります。……私の同僚のアサジョリ博士の講演を聴いたことがあります。その講演で彼は、使徒パウロが、「私は生きる。しかしもはや私が生きているのではなくて、キリストが私の内にあって生きたもうのだ」<ガラテヤ書2・20>と言い表したようなイエス・キリストとの同化こそ大切なのだ、という主張を行ったのです。しかし……若い人が自分の選択を確定する前は、相対立するいろいろな立場の哲学を一通り学び知っておくことが出来れば、非常に有益だと思います。……私たちは自己放棄に至るためにはまず、のびのびと自己を展開させておかなければならないのです。はじめに自己主張するすべを最もよくわきまえていた人こそ、長じては最もよく自己を否定しうるようになるでしょう。(63~64頁)

<順応(適応)>
  • ある両親は子供を気遣うあまり、あらゆる緊張を自分の子供の周りから取り除いてやり、その子を人生の危機から保護しすぎています。こういう両親はその子をいつまでも子供の段階にとどめ、その子の発達を妨げ、その子が後になって、大人になってからも人生に適応していくことが全然できないようにしてしまっているのです。これとは反対に……早すぎる時期にあまりにも困難な適応を子供に強制しすぎる親もあります。こういう親たちは子供を老化させてしまい、このように本当に子供ではありえなかった子供は、その後、成人すべき年齢に達しても完全に一人前の大人にはなれないのです。(65頁)
  • 神が、「人が一人でいるのはよくない」と言われて、人に彼と性を異にする一人の女性を配偶者として与えられた時、神はこれによって人間に次のような課題を与えられたのでした。すなわち、人間は互いに適応するという一つの困難な課題に自分をさらさなければいけない、そして、その際、自分が降伏してしまうか、また相手を屈服させてしまうかのどちらかによって葛藤を回避することなしに、自己克服によって葛藤を真に解決しなければいけない、つまり、神は人間に本当の意味で成熟することを要求され、そのように人間に仕向けられたのです。(66頁)

本書は最近、日本キリスト教団出版局から復刊されました。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】 

2018年11月19日月曜日

【信仰書あれこれ】説教・伝道・戦後をめぐって

平野克己編『聞き書き・加藤常昭――説教・伝道・戦後をめぐって』(2018年、教文館)をとりあげます。

2017年の夏の二日間に、四人の日本人キリスト教教職者が聞き手となり、米寿を迎えた加藤常昭氏と説教や伝道などについて自由に話し合った内容をまとめたものです。

以下で引用するのはすべて加藤氏の発言です。

◇◆◇

牧師の使命が「職業化」することの問題
  • ……「あっ、牧師の務めは怠けることもできる」と気付きました。ルーティーンワークになって、忙しくしていて「いつもの通りに準備して、いつもの通りに説教していればいい」という誘惑に駆られます。……「自分にとって牧師が職業化している」、職業としての牧師職が成り立ち始めていると感じた時に、とても怖くなりました。その時に、一生に一度ですけど、「牧師は辞めた方がいい。こんな不誠実なことはない。牧師という商売をやったらダメだ。現状では、商売になりつつあるじゃないか、お前」という気持ちになりました。……「牧師を辞めなくてはいけない。そうしないと神様に対して不誠実だ」と問いました。(56~57頁)
  • ……牧師は皆忙しい。結婚式、葬儀、堅信礼教育……。そうすると、説教を手早くまとめるようになって、日曜日に説教という言葉を語ることに上手になっていきます。(中略)牧師が職業化し、説教も一種の職業的営みの中で固定化していきます。固定化すると何が起こるかというと、いのちがなくなるんですよ。(124頁)

説教に求められること
  • 説教者を問う』の中でも、アメリカの歌手のトンプソンによる、オランダでの歌手育成のセミナーの例を挙げています。その時にアルトの歌手が行き詰ったような歌い方をした時に、「あなたは聴き手なんか無視しなさい。自分自身のために歌いなさい」って言っています。その歌手をくるっと後ろ向きにさせ、歌わせています。私は非常に感動しました。自分自身を生かすことができない歌が、聴き手を生かすことがあるでしょうか。……説教は自分自身を新しい悔い改めに誘い、キリストによって義人として装われるというプロセスをいつも起こす説教であるはずです。(147頁)
  • 私が実践神学を教わった平賀徳造先生がよく言われたのは「説教というのは御前講義である」ということです。……平賀先生は、私たちは、神の御前、キリストの御前で語っているのだと言っておられました。(148~149頁)
  • 日本は幸いにして、説教によって自分の礼拝出席を左右するという考え方はありません。それでも、逆に言うと、それで牧師が怠けていることがあると私は見ています。それで、信徒はその牧師がどんな説教をしようが、めったに何も言わないでしょう。それが一つの日本での困った状態を作っている……。(168頁)

自由祈祷の大切さ
  • 私は自由祈祷を非常に重んじています。式文祈祷でないほうがいいと思っているんですよ。聖餐の祝いの時でも自由祈祷です。……プロテスタントの基本は自由祈祷だと思います。だから礼拝の祈りはもう当然のことで、自由な祈りができなくてはいけません。……自由に言葉を発した時に、いつもフレッシュな祈りになっているということが大切です。日頃の祈りの生活が問われることだと思っています。日頃どんなに生きた交わりを主イエスと交しているか。……今の日本でいきいきと信仰に生きている時に、牧師がどんなに力のある自由祈祷ができるかということです。長老も信徒も含めて、教会が生きているしるしになると私は思っています。(169~170頁)

LGBTについて
  • なぜそういうことが現代において表面に出て来るかというと、今、人間は自分中心のものの考え方しかしないでしょう。聖書の言葉よりも、自分の思い、願い、欲望が先なんです。そういうことではなくて、神のみ言葉の前では自分のどんな思いも、抑制するとか捨てるとかいう決断があるはずだと思います。そういう意味では、対応しながら、そういうふうに導くことができないかなという思いがあるんです。だから基本的にはあまり賛成できない。……それは、キリスト者の倫理としても単純に許されることではありません。ただ、律法主義的に裁くことでもないのです。なぜかというと、万人の中にある一つの傾向が、神の戒めに背くというのは、例えばそういう形で出て来ると思うからです。そのことについて同情は持たなくてはいけません。だからと言って、賛成するということでもないと思います。(248~249頁)

加藤常昭氏はキリスト新聞社発行の『自伝的説教論』と『自伝的伝道論』においても、自身のキリスト信徒・牧師・神学者としての歩みを詳細に振り返っていて、参考になる面が多々あります。

JELA理事
森川博己

【信仰書あれこれ】日ごとの恵みを与えてくれる本

ジョージ・ダンカン著『日ごとの恵み――ケズイックの霊想』(増田誉雄訳、1981年、いのちのことば社、原著は1975年)をとりあげます。

副題にある「ケズイック」というのは、ケズイック・コンベンションのことであり、イギリスを発祥とする、ホーリネスが始めた超教派のキリスト教の聖会です。日本でも毎年行われていて、ジョージ・ダンカン氏は1963年から80年にかけて、講師として5回来日されています。

以下では、二つの黙想を引用します。

◇◆◇

生きることは建てること(9~10頁)
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7・24)
  • (前半略)主イエスは、人の生には決定的な要素というものがあることを示している。機会は全ての人に平等に与えられている。ここに出て来る二種類の人たちも、主のことばを聞く機会を平等に与えられている。しかし、それぞれ異なった選択をしており、それが決定的なものになっている。このことはまた、教会に集う人々についても言える。同じ教会に出席し、同じ説教を聞き、同じ聖書を持っていながら、各人各様の選択をする。そして、それが人生に決定的なものをもたらすのである。……聖書は全体を通して、すべての選択の中で、主イエス・キリストに対する選択の態度ほど重要なものはないと強調している。これは、今の世における生だけでなく、来るべき世における生をも決定する。それゆえ、自分の、主に対する態度がどうなっているかを、時間をかけて省みなければならない。私たちは、主のことばを聞いて信仰を働かせ、みことばに服従してそれを行う者となっているだろうか。

確信(13~14頁)
「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(Ⅱテモテ1・12)
  • もし私が営業に携わるとするなら、二つのことで非常に明確に確信を持つことにしたい。まず、自分が販売しようとする商品の価値について確信を持たなければならない。次に、その商品に対する需要があることを確信しなければならない。……優秀なセールスマンにとって本質的に重要なことは、商品価値とか、サービス内容の価値、またそれに対する需要のあることについての強い確信を持つことである。キリスト者の生活についても同様である。「確信していること」が出発点となる。周知のように、初代教会のキリスト者たちは、自分たちの提供しているものの絶大な価値に強い確信を持っていた。……したがって、私たちがまず、より豊かな、満ち足りたキリスト経験に入ることが、何をおいてもしなければならない緊急事である。それは、より豊かないのちにあずかるためばかりでなく、キリスト経験の尊い価値を確信し、他の人々にそれを伝授するためである。もろもろの罪の赦しということを別にしても、日々の実際生活で他の人々に分かち与えるに価する何かを、私たちは持っているであろうか。初代教会において、それはまさにキリスト経験そのものであった。この経験は完全に心を満足させるものであり、驚異的な価値のあるものであったので、初代のキリスト者たちは、キリストご自身を高く掲げて宣べ伝えたのである。

この本は、以前に紹介したO・ハレスビーの『みことばの糧』と並んで、毎日のデボーションに特別に有益なものだと思います。

JELA理事
森川博己

2018年11月17日土曜日

【信仰書あれこれ】東北のマザーのいのちのことば

佐藤初女著『いのちのことば 心の道しるべ137言』(2011年、東邦出版)をとりあげます。

著者はカトリック信者で、1983年に「弘前イスキヤ」、92年に「森のイスキヤ」を開設。迷い、疲れ、救いを求めて訪れる人に食事を供し、寄り添うことで多くの人々の再生のきっかけになりました。

本書に掲載された137の言葉の中から、いくつかをご紹介します。括弧の数字は本書内の通番です。

◇◆◇

苦しいのは、自分が刷新されているから(33)
  • かつて大きな苦しみの中にあった時、神父様にお話ししたら、「苦しみなくては刷新ははかれません。その苦しみを乗り越えた時に、恵みはやってくるのですよ」と励ましてくださったことがありました。以来、苦しい時は「私は今、刷新されているんだ」と思うと、ずいぶん楽になるような気がします。

 悲しさだけに囚われないで(46)
  • たとえば肉親を失うということは、それは悲しいことです。でも、その悲しさだけに囚われないで、その人が生前にどのように望んで、どのように生活した人であるのか、そのように自分も生きるというのが慰めにもなり、力にもなります。

  相手ではなく、自分と向き合う(49)
  •  悩んでいる人や心に傷を負って苦しんでいる人は、本当のところでは苦しみを真っ向に受けとめないで、逃げているように思うのです。もし相手に腹が立つなら、まずは腹を立てている自分を認めること。心が苦しんでいるなら、悲しいというという自分をそのまま受け入れることです。自分を見つめることもせず、相手に原因を探しても、何の解決にもならない。そして感じることを抑えてしまうと、必ず無理が出てきます。

 限界を超えた行動こそ、魂に響く(65)
  •  「奉仕」や「犠牲」というのは、自分を苦しめることではありません。誰にでもできることを超えて、相手のために行動するということです。

 大きなことはできなくても、小さなことならできる(75)
  • たとえば自然災害が起きた時。大きく考えたら、私たちにできることは何もないわけです。それでも、まず自分に何ができるかを考えたいと私は思うんです。それは小さなことに思えても、できることからやる。

 「友のために命を捨てるほど尊い愛はない」(104)
  •  とても疲れていた時にお客さんが来て、今日は具合が悪くてと言っても聞こえていない様子でした。仕方がないのでずっと話を聞いて、晩ごはんも食べてもらって、次の日は会の準備で青森まで行かないといけなくて。そんな状態で弘前から汽車に乗っていた時のこと、「友のために命を捨てることほど尊い愛はない」という聖句の文字が、電車の窓から入ってきたんです。周りの人には見えていないようでした。とても不思議なことでした。――後日、この話をしたら神父さまは、「不思議というのは神の働きなんだよ」とおっしゃいました。
佐藤初女さんの別の本『いのちをむすぶ』(2016年、集英社)も紹介しておきます。初女さんの珠玉の言葉とともに、岸圭子さんが撮ったきれいな写真が多数、見事な配置で掲載されています。プレゼントするなら、こちらのほうが喜ばれるかもしれません。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】私の好きな牧師

渡辺善太著『宗教座談』(1939年、新生堂)をとりあげます。

本書は、1934年以降に『三田福音』、『福音』、『福音新報』という当時のキリスト教雑誌に埋め草的コラムとして書かれた二十のエッセイをまとめたものです。

以下では、最初に掲載された「私の好きな牧師」を紹介します。表現意図や使用語彙を可能な限り尊重しつつ、原文の旧漢字・歴史的仮名遣を現代表記・表現に改めて引用します。

◇◆◇

牧師に対する最大の要求
  • 私の考えでは、牧師に対する最大の要求は、教会の集会のうち主位にある、日曜礼拝において、本当に私の霊魂を恩寵の感激に連れ込んでくれる説教を聴かしてほしいことである。このことは私の知己の中で種々の専門を持っている人が、ほとんど例外なしに言うことである。日曜の朝こちらが敬虔なる思いを用意して、礼拝に出席して、そこで、直接には恩寵に連絡のない講演的説教を聴かされたり、説明的、講義的の事柄を聴かされたりすると、実際うんざりしてしまう。(1~2頁)

 牧師が語るべきこと
  •  結局牧師は……我々の信仰の本質の問題について語ればよいということになる。そうすれば、それを聴いた人はそれによって一週間分の霊的活力を与えられて、これをそれぞれの自分の専門の領域に応用していくから、専門でないことをしゃべってうんざりされるよりも、はるかに効果的だということになる。(2頁)

 牧師自身の祈りの生活の重要性
  •  真に聴衆を恩寵の感激に入らしむるということは、普通のことではできない。少なくとも牧師自身がその密室で真に与えられ、そして恵まれた経験から発するものでなくてはならぬ。……自分は本当に平凡だという謙虚な自己認識を持った牧師にして、初めてその密室の霊交にたえることができる……。牧師にしてこの種の説教ができれば、真の意味において神の国の建設に貢献できると思う。すなわち自分の説教の聴衆全体が、自分の説教から霊的活力を得て、それぞれの専門に応用するとすれば、牧師自身が社会的事業に駆け回っているよりも、より多くの社会的貢献をなしえるということになるだろうと思う。(3頁)

 心に響く説教を生み出すもの
  •  私は説教を聴くと、まずその説教の内容とか組み立てとかいうより、その説教者から溢れ出る霊力の如何ということにすぐに注意させられる。よく人の説教を聴いて、内容もよく、組み立ても立派であっても、ちょっとも(心に)響かない、(心に)触れないということがある。……こういう場合に痛切に感じることは、その説教者の密室生活の欠如ということである。今日までは「講壇より街頭へ」と叫ばれてきたが、今日はこれを逆にして、「街頭より密室へ」と叫ばなければならない時代であるように思う。(4頁)

 霊的深さと思索の深さ
  •  深い思索をいけないということではない。真に人が恩寵に浸る生活を送っていれば、その人の全能力、ことに頭脳は深く深く「考える」ようになって来るものと思う。そうならないのは、何かその密室生活に間違った点があるのではないかと思われる。(4~5頁)
  •  私は私の牧師に専門的な哲学の知識を持ってもらいたいとは、さらさら思わない。しかし深く考え、徹底して哲学してもらいたいと思う。いったい、霊交の体験の一つの結果は、人生に対する態度が真面目になるとともに、人生の事実に対して、真に深い洞察を持つようになるということである。哲学するということは、この意味において霊的体験の当然の結果である。説教の中で、人生の事実に対してあまりにもこれを単純に片付け、独断的に断定する浅薄さには、私はたまらない嫌悪感を感ずる。(5頁)

 信徒が自らを霊的に養える手立てを牧師は与えなければならない
  •  信者が養われるということは、教会の集会や、説教だけでは十分ではない。自分自身で養わるべき方法と材料を教会の指導者が与えてやらねばならない。……聖書……から霊的の力を得て、自分の活動の源泉にするというには、かなりの修養がいる。この意味において教会で、真の意味における聖書研究会がもたれ、そこで真の聖書の味わい方の手ほどきが与えられるならば、信者にたとえ集会の当日、用事のために出席できないことがあったとしても、自身の聖書の味読によって、その信仰生活を持続していくことができる。(6~7頁)

本書の単行本はネットでも入手困難のようですが、『渡辺善太全集 第5巻』(1966年、キリスト新聞社)に所収されています。

また、以前に本欄で、渡辺善太氏の説教集『わかって、わからないキリスト教』をとりあげています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】

2018年11月12日月曜日

【信仰書あれこれ】古いものと新しいもの

森有正著『古いものと新しいもの 森有正講演集』(1975年、日本基督教団出版局)をとりあげます。

この欄では以前、森有正+加藤常昭+古屋安雄の鼎談『現代のアレオパゴス』を紹介しました。今回のものは、著者が全国5か所で行った講演集です。

以下では、1970年10月25日に青山学院で行われた講演「経験について」の一部をご紹介します。

◇◆◇

真実の「経験」がないことによる問題
  • 「経験」というのは、ある一つの現実に直面いたしまして、その現実によって私どもがある変容を受ける、ある変化を受ける、ある作用を受ける、それに私どもは反応いたしまして、ある新しい行為に転ずる、そういう一番深い私どもの現実との触れ合い、それを私は「経験」という名で呼ぶのですけれど、敗戦は決していわゆる本当の意味で敗戦としては経験されなかった。……大部分の国民にとってこの敗戦が本当の敗戦としての「経験」になっていなかったということ、このことについて今日いろいろな冷厳な事実が出て来て、私どもを非常にとまどわせ、多くの処置を誤らせた、ということがあると思います。このことは決して忘れてはならないと思います。(16~17頁)

 「私」とは、真実の「経験」の総体のこと
  •  その経験ということに、ある時目覚めた時に、その経験の全体が自分なのだ、それが一人の人間というものの意味なのだ、つまり、私が経験を持っていることを本当の意味で感じる、あるいは経験を持っていることを経験すると言うのはおかしいけれども、私どもの現実が実は私の経験そのものである。そして私自体である。私の言う現実は経験によって見られた事実で、主観的な現実では全然ありません。ここにマイクがある。それだけではこのマイクは私とは何の関係もないもので、ここで私がマイクを使用することによって私の経験のうちに入っているわけです。(28頁)

言葉を正しく用いるには、それが示す実体を自分で「経験」することが不可欠
  •  私どもは正直という言葉も、愛という言葉も、エゴイズムという言葉も、小学生のころから全部知っているわけです。しかし、それが何を意味するかということは、私どもの前にその実体が現れた時に分かるわけです。私どもは……平和という言葉を使うし、正義という言葉も使うし、いろいろな言葉を使うけれども、それを付ける実体を私どもは持っていますか。問題はそれですよ。……私どもは小学校の時から教わった数千、数万の言葉を定着させることのできる経験の実体というものを、私どもが持っているかどうかという問題です。それに結びつけられたものを持っていないで言葉だけをもてあそびますと、どんなことでも言えるし、どんなことでもできるわけです。その時出て来るものは限りない混乱です。(47~48頁)

 言葉の意味内容を「知る」ということ
  •  私どもは本当にいい行為を見た場合に、これが善だということが分かるわけですよ。その時に昔から何億人かの人々が使っている善という言葉を、それに付ける。その時、私自身の経験として、私自身の行為において、善というものを知ったことになるわけです。善ということの定義は何だろうか、といってカントや何かを読んでも、善ということは絶対に分からない。一つの善に、私どもの生涯において、これが善だと私どもが呼んだものに出会った時に、初めてそれが私どもに対して生きた信仰になる、生きた経験になる、また人に向かってそれが説明できるようになる。(49頁)

上記の部分は、「信仰」を考える上でも意味があります。つまり、読んだり聞いたりしただけの教義や教理を一方的に振りかざすだけでは何の力もなく、その実体に触れた言葉だけが(信仰する)自分にとっても、(証しをする)他人に対しても説得力がある、ということでしょう。生きるキリストとの出会いによって、信仰の実体は与えられるはずです。

著者が説く「経験」を理解するために有益で入手しやすい本として、『思索と経験をめぐって』(森有正著、1976年、講談社学術文庫)があります。ここには、本講演「経験について」の全文と、「経験」の真の意味を理解する助けとなる「霧の朝」「変貌」「木々は光を浴びて」等の論稿が収められています。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】 

2018年11月8日木曜日

【信仰書あれこれ】デボーションのための好著


O・ハレスビー著『みことばの糧――日々新たに』(鍋谷尭爾訳、2000年、日本キリスト教団出版局、原著1932年)をとりあげます。

著者は本書の出版意図を次のように説明します。
「ここにもう一冊の『みことばの糧』(デボーションの本)を送り出すことは、……私の家庭礼拝の経験から言えば、この種の本は時々、取り替える必要があるからです。何年も毎日、同じ本を使ったならば、しばらく休ませると良いでしょう。そうすればもう一度使い始めた時、新鮮さをおぼえるに違いありません」。(3頁)

異なる二日間に同じ聖書箇所から語られる内容を、以下にご紹介します。

◇◆◇

1月9日(19~20頁)
  • <聖句> この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。(ヨハネ7・17)
  • <説明> 今日ほど、ノルウェーで、多くのクリスチャンがいた時代はありませんでした。それと同時に、これほどの不信仰者のいる時代もありませんでした。わずか数十年前までには、聖書が神のことばであることを疑う人は少数でした。ところが、今日では、知的な人であろうと無学な人であろうと聖書が神のことばであることを疑う人は多いのです。……以前には疑問を持つ人が少なかったのを、特別に称賛する必要はありません。それはキリストについての神のことばを個人的に体験することなしに、社会全体がそうであったからです。……しかし、聖書は神のことばであるという一般的な気運に賛同しているからといって、魂が救われるわけではありません。とくに、聖書の権威が疑われるようになると、この立場はもろいのです。これが今日起こっているのです。
     疑いには二種類あります。一方の立場は、良心によって自分の生活が責められる時、自分のあいまいさを弁護します。一方の立場は、自分が疑っていることを悲しみ、あいまいさを断ち切って、静かな動くことのない確信に到達したいと願っている人々です。……これに対してイエスは言われます。「この方の御心を行おうとする者は、誰でも私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」。イエスは神の御心を行おうとする者は、必ず個人的な確信を得ると約束しておられます。問題は、あなたが、今すぐ神の御心を行おうとしているかどうかにかかっています。
 1月12日(22~23頁)
  •  <聖句> 同 上(ヨハネ7・17)
  •  <説明> 多くの、信仰を持たない人たちは、頭が良すぎて信じることなどできない、と考えています。しかし、それは間違っています。信仰は頭の問題ではなく、体験の問題だからです。信じないのは、まだ体験していないからです。イエスはこのような体験を、「この方の御心を行う」と表現しておられます。神の御心を行う人は、確信を得ます。(中略)たとえば、「隣人にしてもらいたいことを、隣人のために行いなさい」という戒めがあります。イエスは、この戒めを行いなさいと命じられます。議論したり、話し合ったり、……するのではなく、ともかく実行するのです。その時、今まで考えなかった新しい経験をするでしょう。まず第一に知ることは、隣人にしてほしいと思うことを、(自分は今まで)隣人にしていないということです。第二に知ることは、それを実践することは不可能であるということです。第三に知ることは、自分のうちにそれを実行する意志がないということです。それはあまりにも労苦を伴う損な行為だからです。こうして、イエスが「あなたは罪人だ」と言われる意味を理解し始めます。何が真理であり、正しいかを知っても、それを実践することをしないからです。
     そこで、神に祈ることから始めようではありませんか。……祈るとは、率直に、信頼を持って神に語りかけることです。自分が疑問を持っていることを、率直に神に語り始めましょう。また、毎日の体験していることや、今、神の御心を行いたいと願っていることも話しましょう。そうすると、短い時間のうちに、疑問に思っていたことが神の御前で明らかになっていることが判ります。また、イエスが、神の前であなたが罪人であると教えられた意味が判り、キリストの十字架が、いかに尊く、信頼すべきものであるかが判ってくるのです。
本書はノルウェー語原著から和訳されたものです。以前に同名の書籍が岸恵以氏の訳で聖文舎から出ていましたが、それはノルウェー語原著を英訳したものをさらに和訳したものでした。

 訳者あとがきにノルウェーの宗教的課題と著者の背景が簡潔に記されています。
「ノルウェーは今日まで国教会制度であるため、絶えず精神的刷新と霊的覚醒運動を必要とした。信徒説教者ハンス・ニルセン・ハウゲ<1771~1824年>はそのような意味で、今日まで大きな影響を及ぼしており、ハレスビーもまた、その流れに立つ神学者である」。(367頁)
 JELA理事
森川博己

 ◆◇◆

【関連リンク】

【信仰書あれこれ】確かな生き方のために


岩島忠彦著『いのちへの招き――確かな生き方のために』(1995年、海竜社)をとりあげます。

以前に本欄で著者の説教集を2冊とりあげました。『説教集 みことばを生きる』と『説教集 福音の記憶』です。本書も著者が教会で話した内容を書籍化したものですが、その特徴を著者は次のように記しています。
「私はここでお話しすることが、誰にとっても通じることであり、大切なことであると考えています。(中略)ここで私は、自分の頭と心と体で経験し、納得したこと以外のことについてお話しするつもりはありません」。(4~5頁)
以下では、「信仰がわが身に実現するために」と題された部分をご紹介します。

◇◆◇

神を信仰する人間がとるべき基本姿勢を著者は、イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊操』の「原理と基礎」という部分から説明します(丸数字は著者が便宜的に付加)。
  • ①人は主なる神を賛美し、敬い、これに仕え、それによって自分の霊魂を救うために造られたのである。②そして地上にあるその他の事物(もの)は、人のために、また人が造られた目的を全うするための助けとして、造られたのである。③したがってこの目的を全うする上に、助けとなる限りその事物を用い、妨げになる限りこれを棄てねばならない。④そのため、人は、すべての事物に対して、それが自由意志にゆだねられ、禁じられていない限り、偏らない心を持つようにすることが必要で、すなわち、我々は、病気よりも健康を、貧困よりも富貴を、侮辱よりも栄誉を、短命よりも長寿を望むというようなことをせず、⑤その他万事において、ただ我々が創造された目的に一層よく導くものだけを望み、選ぶようにすることが大切である。(本書259~260頁) 

著者は上記の原理を、信仰する人間すべての「共通の鉄則」だとし、「神・人間・地上にあるその他のもの」という三者の関係を軸に論を展開します。①については、こんな感じに。
  • 「人」というのは自分以外にないわけです。みんなそれぞれ自分が「人」なのです。「私は」と考えてみないといけません。……自分は何のために造られたかということですが、まず自分自身で勝手に決めるようにはなっていないということです。(260~261頁)
  • 私という人間は神からの定義によって存在しているのです。世界の秩序も、自分の存在も、自分の心の構造も、あらゆることは自分の設計によるのではありません。ですから、それに則って自分を使わないと、自分を生かすことができません。(261頁)
  • 造られたということは、なにも昔に造られたというわけではなく、今もそうだと言われているわけです。神が自分を支えているのです。だからいつも造られ続けているのです。そのとき、自分が何を目的に、ここに存在するのかというと、この世のものを目的にすることはできなくなっているのです。(261頁)
  • アウグスチヌスは「神は私たちの重力」という言い方をしています。自分がどんな状態であれ、「神は私の重力」であるから、「私はそこに憩うまでは決して安らぐことがない」と。……どこにあってもその力は働く、常にそこに向かうところのそれは、実はこの世のものではない、……と。ですから、それ(=神)を賛美し、敬い、それに仕える、という言い方をしています。(261頁)
  • 小さな自己満足とか、いろいろな些細な喜びとか、虚栄とか、生活の奢りとか、そういうもので自分を満たしきることはできない。……一生ずっと、自分のパートナーにできるものは神様しかいない。そこに自分の生きる焦点を合わせない限り、本物になれないように人間はなっているのです。(262頁)
  • そういうところに焦点を合わせた時、自分が生きていることに喜びを感じるようになります。生きていることに平和を感じることができるようになります。結局、本来の秩序というものに溶け込み、自由を感じることができるようになると思います。(262頁)
  • 「神を賛美し、敬い、これに仕える」。自分の存在が神に波長を合わせていくようになるならば、その存在自体が神への「賛美」になっていきます。なにも教会へ行って賛美歌を歌わなくてもいいわけです。(262頁)
  • あるいは、「敬う」とは、奢った人間であったらだめだ、ということです。俺は何かできるのだとか、自分がいなければ駄目だとか、そんなことではありません。必ず神を思っていることが敬うということです。人は、自分は空しいものだという、根本的に地べたに跪いている姿勢を持っているときに初めて、自分が何であるかがわかる、つまり神に向かっているということなのです。(262頁)
  • さらに「仕える」とは、そこに気づいて実際の生き方として、仕えるという言葉に代表される「行動」に移っていって初めて、本物だということなのでしょう。(263頁)
  • 人は「自分の救いを全うするために」生まれた。人は救われる必要があるのです。けれど救われるというのは、自分自身の無秩序、無軌道から、本来の姿に辿りつくこということ、それ自体が救いです。(263頁)

本書135~219頁(洗礼・堅信・ゆるしの秘跡)は、著者の近著『キリストへの道』(2017年、女子パウロ会)に転載されています。本書が入手困難になったためでしょう。私としては、最終章(221~269頁)こそ転載してほしかったところです。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】  

2018年11月2日金曜日

【信仰書あれこれ】神より神へ

以前に、ペトロ・ネメシェギ著『キリスト教とは何か』を本欄で紹介し、大変評判がよかった(と勝手に推察します。<笑>)ので、同じ著者の別の本をとりあげます。『神より神へ』(1968年、聖パウロ女子修道会、ユニヴァーサル文庫71)です。

書名についてこんなエピソードが記されています。著者は幼少の頃、夏休みに叔父の家によく行き、家の正門の前にそびえたつ巨大な菩提樹に心を魅かれました。そして、枝が天に向かって幾重にも伸びている一方で、太い根が何本も地に張っていることに気づきます。その大切な記憶とともに成人した後、オリゲネスの書物に「父なる神は根である」という言葉を発見します。「天にまします我らの父よ」として、以前は神というと上に向かうことばかり考えていたのに、神が万物の根でもあり、すべての出発点でもあると知らされるのです。そこで、根より大空へ、つまり「神より神へ」という表現で我々の存在を表わすことがふさわしいと書名に採用したようです。(本書1~3頁を森川が自由に要約)

◇◆◇

究極的な源泉
  • 神の言葉と秘跡の二つは、私たちがキリスト者として生活する上の根本的源泉であります。しかし、こう言っただけでは、私たちはまだ究極的源泉にまで遡ってはいません。神の言葉や秘跡が、私たちの生命の源泉となるのは、それらを通してキリスト自身が私たちに出会うからです。……私たちはみな、「キリストから出発し、キリストへ向かっています」。キリスト者は自分の生活のすべてがキリストから出ることを深く理解していなければなりません。しかし、……最も究極的な源泉は、父なる神であります。……父なる神は慈しみ深い愛の永遠の決定により、この世を作り、その中心にキリストを置き、私たちをキリストの兄弟とし、この世のいっさいのものを唯一のかしらであるキリストのもとにまとめられるのです。(3~4頁)

キリストが与える最大の賜物
  • キリストが私たちに与えられている最大の賜物は、聖霊ご自身であります。「聖霊の賜物を受ける」という表現が聖書の翻訳によく見られますが、それは原文を正しく訳したものではありません。「聖霊という賜物」と訳すべきです。聖霊こそ賜物なのです。恵みには神と区別された賜物ももちろんありますが、主要な賜物は聖霊ご自身です。聖霊は心の中に太陽のように現存し、聖霊を受けた人の心は徐々に照らされます。蝋に印が刻まれるのと同じように、聖霊は人間の心の奥底にご自身の本性を刻み込まれるのです。私たちの心を徐々にキリスト化していくこと、これこそ復活したキリストの最大の賜物である聖霊の働きです。聖霊の勧めに従って考え、感じ、行動し、それに反するすべての思いを遠ざけることは、私たちキリスト者に課せられた使命であります。(17頁)

本来的な信仰
  • 信仰は、人間が自分のすべてを、啓示する神にゆだねる、全面的な自己奉献であるときにのみ、信仰のあるべき姿をとります。……全面的な自己奉献を伴わない信仰は、長続きしません。そして少なくとも何らかの形で神との出会いを望まないならば、信仰は全然成り立ちません。そこから、一口に信仰と言ってもどれほどの段階があるかということが分かります。信仰は一定の教義を受け入れるか受け入れないかという頭の問題だけではありません。人は頭だけではなく心で信じます。信仰は人の心の中でますます深められていくべきものです。(28~29頁)

聖霊の光による信仰
  • 人間理性だけを働かせて信仰に至ることはできません。このことを聞いて驚く人がいるかもしれませんが、キリスト教の教えによりますと、神の啓示を信ずるためには、キリストを通して与えられる恵み、信仰の光と言われている聖霊の恵みがどうあっても必要です。……福音書の中でいろいろな表現をもってはっきり教えられています。ヨハネ福音書の六章に、「父によって引き寄せられる人でなければ、誰ひとり私のところに来ることはできない」(6・44)というキリストの言葉が書かれています。また、パウロはコリント前書で、「聖霊によらなければ、誰もキリストは主であると言うことができない」(12・3)と言っています。……信ずることが正しいことであり、神が私たちに期待しておられることだと、私たちは聖霊の光を受けて理解するのです。(35~36頁)

信仰は毎日のこと
  • キリストはご自分が信仰(される)に値することを、十字架上でご自分の命を犠牲にし、私たちに近づくために復活することによってお示しになられました。私たちはキリストにおいて示された神の誠実さに全き信頼を置いて、信仰の暗闇の中に飛び込んでいきます。それは一生に一度限りのことではなく毎日のことです。私たちは朝ごとに、「主よ、私は今日も信じます」と言わなければなりません。(39頁)

全10章の中の「源泉」と「信仰」の章から一部を引用しました。他は「真心からキリストに従って」「聖体」「キリストの十字架」「復活」「喜び」「聖霊」「愛」「永遠の生命」という章立てです。いずれも大変に読みごたえがあります。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】科学・哲学・信仰

村上陽一郎著『科学・哲学・信仰』(1977年、第三文明社、レグルス文庫73)をとりあげます。

著者は科学哲学の泰斗であり、カトリック信者です。自分の専門領域とキリスト教との関係について何冊か著しています(『近代科学と聖俗革命』『科学史からキリスト教をみる』など)。その中で本書は、もっとも一般向けではないかと思います。

◇◆◇

本書執筆の意図・立場
  • 信仰という問題について通用しているある種の誤解だけは解いておきたいという願いが、私の中に燃えていた……その一つは、文明史的に見た時のキリスト教と科学の双極化であった。キリスト教を、科学的真理の弾圧者として歴史の中に仕立て上げるという一つの文明史の啓蒙主義的図式は、私にとってはやはり誤解としか思えなかった。……もう一つの誤解は、……人間の営為としての知的活動と信仰との双極化の問題であった。(180~181頁)
  • 私は、何はともあれ、ローマ・カトリック教会の一員である。しかし、その私の私的な信仰の立場は、本書ではできる限り前提として立てることはしなかった。本書は決して一つの信仰の立場を優れたものと断定するものでもなければ、そこへ他人を勧誘するものでもない。私が本書で意図したのは、個人がいかなる信仰を持つにせよ持たないにせよ、その信仰より以前に考えておくべき点を明らかにすることであった。(181~182頁)

ガリレオが太陽中心説に与した宗教的背景
  • ガリレイ事件の印象があまりに強いために近代合理主義と自然科学は、その登場からキリスト教に対する否定の契機を持って始まったという誤解が生まれたと言ってよい。だが第一に、近代科学の礎石を築いた人々が、キリスト教信仰に否定的感情を抱いていた、という例は、ほとんど絶無と言ってよい。例えば当のガリレイ自身がそうである。ガリレイは、カトリック教界の内部に完全に喰い込んでいて、例の異端審問事件の蔭の教皇ウルバヌス八世は、彼のかつての学問上の弟子バルベリーニその人であったほどだが、こうしたガリレイのカトリック教界内での「成功」の一部には、ガリレイ特有の処世術があったことは確かである。(61~62頁)
  • ガリレイは、結局は彼自身を断罪の危険にまで追い込むことになった主著の一つ『天文対話』……を書く動機の一つとして、プロテスタントの世界では一般的になりつつあったコペルニクス体系が、カトリック教界内部でも決して否定されてはいないことを証明しようとしたこと、言いかえれば、宗教改革運動の開始から約百年、ようやくカトリック、プロテスタント両者の教義的な再編成と収拾活動期にあって、当初コペルニクス(彼自身が完全にカトリック教会の一員であった)説がカトリック側から推賞・歓迎されたのに反し、ルターを始めとする多くのプロテスタントがこれを激しく非難・攻撃していた状況が逆転し、アリストテレス的自然学の枠組みに依拠し続けようとするカトリック神学の中でコペルニクス批判が一つの勢力として印象づけられ始めていく一方で、プロテスタント側が、コペルニクス説を旧体制批判に政治的に利用しようとする時代を迎えて、カトリック内部のガリレイが、カトリックを擁護しようとするという目的が、その動機に込められていたと言われる。(62~63頁)

神・自然・人間の関係
  • ヨーロッパ近代の自然科学技術を支える思想の中に、キリスト教の構造が相当部分含まれている……。第一はこの自然が神の作品であり、人間が神の似像≪imago Dei≫として神の理性の模型であることは、人間が少なくともある程度自然の神秘を理解できないはずはない、という確信がそれであった。ケプラー、ガリレイらはもちろん、デカルトライプニッツらの純然たる近代合理主義思想においても自体はまったく変わらなかった。スピノザの「神はすなわち自然である」≪Deus sive natura≫という言葉は、それを語って余りある。(77頁)
  • 第二には、理解された自然という前段の過程の上に立って、人間の住処として与えられた自然をよりよく改良していこうとする支配・制御の感覚であった。そしてこの支配・制御の感覚の中には、第三のキリスト教的な(*森川挿入:開始と終点を持つ直線的な)時間構造も絡んでくる。この第二と第三の局面は、どちらも非常に鋭く「世俗化」を志向するものであって、通常は、ヨーロッパ近代精神がキリスト教の枠組から離脱したことを証明する顕著な現象として受け取られることが多い。しかし……それは必ずしも「離脱」ではなく、構造自体は変わることなく、表層部の交代変化があったとも考えられる現象なのであった。(77~78頁)

理解の助けとして、著者の別の新書『新しい科学論――「事実」は理論をたおせるか』(1979年、講談社ブルーバックス B-373)もお勧めします。初版発行から40年近く経った今でも絶版になっていません。発行時に読んで大変触発された本です。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

2018年10月23日火曜日

【信仰書あれこれ】簡潔ながら深いキリスト教入門書


ペトロ・ネメシェギキリスト教とは何か』(1977年、女子パウロ会)をとりあげます。


「生きる意味を求める人に! イエススの生涯と死と復活の教えるものは、『神は愛であり、愛を信じる者は永遠に滅びない』という一語に尽きる。簡潔ながら、深くキリスト教の真髄をとらえた書」(本書のカバーそで)です。本書ではイエスを「イエスス」と表記します。

◇◆◇

キリスト教は常に追求すべきもの
  • キリスト教徒たちは、キリスト教が何であるということを一応知ってはいます。しかしなお、キリスト教とはいったい何であるか、キリスト教の本質とは何であるか、自分にとってキリスト者であるということの意味は何かとは、つねに新たに問い続けなければならない問題なのです。……キリスト教は子どもでさえ理解することができるほど単純な本質のものでありながら、最もすばらしい学者が生涯をかけて追及しても、なお知り尽くすことができないほど無限の深みを持ったものだからです。(5~6頁)

普遍的なキリスト教理解
  • 本書はキリスト教に関する単に主観的な解釈を書いたものではなく、キリストに由来し、全世界に広がっている普遍的な教会……のキリスト教理解を述べようとしています。なぜなら、キリスト者たちの信仰は、およそ個人的な企てではなく、はじめにイエススを信じた弟子たち、彼らの跡を継ぐ信徒たち、世界中の普遍的な教会をなしている「神の民」の信仰に自分の心を合わせるということだからです。(7頁)

キリスト教に関する正しいアプローチ
  • キリスト教の真髄は、キリストと呼ばれているイエススその人のうちにあります。ですから、もしだれかが、キリスト教とは何であるかということを知りたければ、イエススがだれであるかということを探り、なぜ人々はこのイエススをキリストと呼んでいるのかということを調べ、このイエスス・キリストが何をなしたのか、その身の上に何が起こったのかということを調べてみる必要があります。(8頁)

神の恵みと人間の決断
  • 結局、信じることは神の恵みによることです。けれども、それは同時に人間自身の決断でもあります。イエススの言葉を聞いても、奇跡を見ても、聖霊の光を受けても、「信じます」と決断しなければ、信仰は生じません。ですから、信仰者とは、両手を開いて抱きしめようとしておられる神の腕の中にとびこんで、抱きついていく人と言えます。(73頁)

秘跡は心からそれを信じなければ無意味
  • 真心からの信仰なしに、形式的、あるいは偽善的に秘跡を受けても、それは人間を救うものでは決してありません。新約聖書全体が信仰こそ救いの源であるということを強調しています。人間は信じるときにのみ、自分だけに頼る高慢を捨て、人をゆるしている神の愛に、自分のすべてをゆだねるのです。そのときにこそ、人間の心が自分を神の子とする神の恵みを受け入れるように開かれるのです。(110~111頁)

神の恵みの働き方
  • 自分が洗礼を受けることを神が望んでおられると知らなかった人々にとっても、キリストと聖霊を通して働く神の恵みの神秘的な業のおかげで、改心と救いは可能です。すなわち、だれの心にも神がよしとされたときに働く聖霊のささやきに従って、万物の根底に限りない慈しみがあることを信じ、愛のために良心的に生きようと決心し、その決心を自分の生活の中に実現しているすべての人は、救いへの道を歩んでいると言うべきです。しかし、神はやはり、人々がイエスス・キリストにおける神の限りない愛の啓示を信じ……キリストの愛と喜びの証人として、他の人々を失望から解放し、希望と喜びと愛へ導くように努めるということを望んでいるのです。(113~114頁)

互いに赦し合うことの絶対的な大切さ
  • 次のことを決して忘れてはなりません。つまり、神からゆるしを受けることの条件は、互いにゆるし合うことだということです。イエススは繰り返し、「もし人の罪をゆるすなら、あなたたちの天の父も、あなたたちをゆるしてくださる。しかし、人をゆるさないなら、あなたたちの父も、あなたたちの罪をおゆるしにならない」(マタイ6:14、15)と強調しました。……毎日、「われらの罪をゆるしたまえ」と、神に祈っている人であってはじめて、心から自分を傷つけた人の罪をゆるすことができるのです。(124頁)

著者はカトリック司祭で上智大学神学部教授を長らく務めました。著作には、聖母文庫「キリスト教信仰案内講座」シリーズや、編集・解説を担当する創文社「キリスト教古典叢書」シリーズがあります。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】誰もが後世に残せる最大のもの



本作品は、明治27(1894)年に箱根で行われたキリスト教徒夏期学校において、内村鑑三が青年信徒向けに話した講話です。『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』と並んで、内村の最も有名な作品の一つでしょう。

本作品の「改版に付する序」で著者は次のように振り返ります。
「本講演は明治27年、すなわち日清戦争のあった年、すなわち今より31年前、私が33歳の壮年であった時に、海老名弾正君司会のもとに、箱根山上、芦ノ湖のほとりにおいてなしたものであります。(中略)この小著そのものが私の『後世への最大遺物』の一つとなったことを感謝します。……過去30年間生き残ったこの書は今よりなお30年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。(本書8~9頁)

講演内容のいくつかを以下に引用します。ちなみに引用文の後のページは、冒頭に記した教育出版の本のそれです。文章は内村鑑三全集からとられていて、妙なところにカタカナが登場したりしますが、そのまま引用します。

◇◆◇

清い欲
  • 私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかな天国に往き、私の予備校を卒業して天国なる大学校に入ってしまったならば、それでたくさんかと己の心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起こってくる。すなわち私に50年の命を与えてくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、この我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。……何も後世の人が私を褒めたってくれいというのではない。私の名誉を残したいというのではない。ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである。すなわち英語でいうMementoを残したいのである。(16~17頁)
  • 有名なる天文学者のハーシェルが20歳ばかりの時に彼の友人に語って「わが愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々の生まれた時よりも世の中を少しなりともよくして往こうではないか」と言うた。……我々が死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つ事業を成し遂げて、できるならば我々の生まれた時よりもこの日本を少しなりとも善くして逝きたいではありませんか。(18~19頁)

神の国のために金を儲け使う
  • 金を儲けることは己のために儲けるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神が我々の中に起こらんことを私は願う。そういう実業家が今日わが国に起こらんことは、神学生の起こらんことよりも私の望むところでござります。(中略)金は後世への最大遺物の一つでござりますけれども、遺しようが悪いとずいぶん害をなす。それゆえに金を溜める力を持った人ばかりではなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。(27~30頁)

誰もが遺せる最大の遺物
  • 事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、モノを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。……私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも残すことができる最大の遺物があると思う。(中略)人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚な生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。(62~63頁)
  • 高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、……すなわちこの世の中はこれは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。(63~64頁)

残り20ページが本講演のハイライトなので、ご自分でお読みになることをお勧めします。本作品は岩波文庫『後世への最大遺物・デンマルク国の話』として手軽に入手できます。

JELA事務局長
森川 博己

2018年10月22日月曜日

【信仰書あれこれ】生けるキリストとの出会いの大切さ


金田福一著『召され行く友に *家庭霊想集6』(1992年、一粒社)をとりあげます。

本書は、著者が末期がんの病床で書きためた短い霊想を集めたものと、死の2年前に行った講演を収録したもので、著者の家庭霊想シリーズの最後の作品です。

以下では、「ルターに学ぶキリストの福音」と題された講演(1990年11月18日 キリスト教浦和集会にて)の一部をご紹介します。

◇◆◇

著者は複雑な家庭環境で育ち貧乏生活を体験しました。福音を伝えたい思いに強くとらわれはするものの、小学校卒の学歴ゆえ神学校に入れませんでした。体も弱く仕事を転々とし、ようやく伝道者として用いられるのは46歳になってからです。2012年2月にガンで天に召されますが、死を間近にした苦しみだけの病床でも、口をついて出るのは「主よ! 感謝します! アーメン!」だったと言います。

ルターと聖書だけが慰めの少年時代
  • 自分の幸いだけしか求めない人間は、自分に打ち克つことはできない、自分の弱さを引きずりながらでも、他に仕えようとして生きるならば、自分の罪も赦され、自分の罪も克服されてゆくのだ、そういうことを私は身をもって教えられました。そういう悩み多い少年の日に、ルターだけが慰めでした。文学も好きでした。音楽も好きでした。けれども私の心の底に一番深く慰めを与えてくれたものは、聖書とルターでした。……ルターは信仰義認ということだけがとりあげられていますけれども、その大前提となっていることは、キリストが復活した、キリストが生きておられる、生けるキリスト、ということです。(144~145頁)

私のところに来てくださったイエス
  • なぜ私を守ってくださらないのですかと、神様を恨んだことがどれだけあるかわかりません。しかしイエス様に近寄っては物騒、つかまっては大変だと思いました。そういう私のところに、イエス様は来てくださいました。来てくださったということは、罪があるまま、何の値打ちのないまま、何度となく裏切る、ユダは立ち返らなかったが、私は泣いて立ち返りました。そういう人間をひと言もお叱りにならないで、イエス様は受け容れてくださいました。(146頁)
  • イエス様に出会って、イエス様が来てくださって、愛の中に、贖いと罪の赦しの中に入れられて、罪は終わりましたか。いいえ、人間の罪は死ぬまで残ると私は思っています。特に愛の欠落は罪の根源です。しなければならないことをなし得ない罪、またいつの間にか傲慢になります。自己義認、自己満足、そういう罪は死ぬまで残ると思います。イエス様の愛と支配の中で罪認識は深化するのではないか、深められるのではないか、それが罪の潔めではないか、それがルターの考えであったと思います。(147頁)
  • 生けるキリストとの出会い、それはもうルターの信仰と思想の根底にある重大な問題です。キリストが生きておられる、そのキリストと会わなくてどうしますか。今日の日本のキリスト者にとって根本的な問題は、やはり生けるキリストとの出会い、そのことが教会において、集会において起こっているのか、もしその出会いが無いならば、その信仰は何なのでしょう。……その信仰は自力に過ぎないのです。生けるキリストに会わなければ、自己を義としてやまない、自我と主観の円周から脱出することができないからです。生けるキリストに出会わなければ、自己自身から解放されない、自由になれない、私はそのことを私の体験からあえて申し上げます。(157~158頁)

イエスに出会った後の状態
  • イエス様に出会いますと、イエス様は自我の円周の中に暮らしていた私たちを、その殻を破って引っ張り出してくださいます。それが新しき我、霊的な我、義とされた我であると思います。そしてそのように迎えられ抱かれた新しく生まれ出たキリスト者は、まだ残れる自分の罪、肉的な、まだ悪習慣の残っている自分、あるいは周囲の悪影響で逆戻りしようとしてやまない、そういう罪への可能性の残っている自分という者を、客観的に見ることが始まります。それが罪と義の同義体験です。それを言い換えますならば、自己の客観化であると言うことができます。さらに言い換えますと、神様が自分をご覧になる目で厳しく、まだ残っている自分の肉性、肉的な自分というものを批判し弾劾することができ、教えることができるのです。(149頁)
  • 神様の目をもって、まだ残っている自分を鋭く見ることができる、鋭く悔い改めさせることができるその厳しさ、己に対する厳しさ、それが謙遜なのです。(152頁)

「霊想集」の中に収められた数行ごとの霊想は、いずれも心にビンビン響く内容です。著者が書かれたものはいずれも、信仰的に大切な事柄を歯に衣着せぬ形で提示してくれる点で貴重です。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

2018年10月17日水曜日

【信仰書あれこれ】すべてを新たにしてくれる生き方


ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに――スピリチュアルな生き方への招待』(日下部 拓訳、2009年、あめんどう)をとりあげます。

訳者あとがきが本書の意義を簡潔に示しています。
「どんな分野であれ、真のプロフェッショナルは、難しい専門用語を多用して聞き手を煙に巻いたりせず、シンプルな表現と分かりやすい例えで、その分野の内容を誰にもわかるように説明できるものです。その意味でナウエンは、霊性=スピリチュアリティに関する真のプロだと申せましょう。(米国で1981年に)初版が発行されてから、(この訳書が出る2009年で)すでに28年の歳月が経っていますが、ナウエンのメッセージは、発行された時の新鮮さを今なお持ち続けています。」(100頁)

2018年の今も古びない本書の内容は、以下のようなものです。

◇◆◇

執筆の動機
  • 霊的な生き方を解説した素晴らしい本は数多くありますが、短時間で読むことができ、かつ霊的な生き方とは何かを説明するだけでなく、「実際に自分がそんな生き方を始めてみたい」と思わせる冊子があっても悪くないと感じていました。そんな気持ちから、この本を書くことにしたのです。ここにまとめた思索の数々は、私自身だけではなく、すでに多くの人たちによって述べられていますが、この本で一つにまとめることで、「生活は目いっぱいにもかかわらず、心は満ち足りていない」と感じている方たちのお役に立てればと願い、また祈ります。(9頁)

対象読者
  • 本書はまず、スピリチュアルな生き方をもっと深めたいという強い衝動を認めながらも、実際にどうすればよいか、どの方向に進むべきかを見失って困っている人たちのために書きました。それはすでにキリストを知ってはいても、その知識を頭から心へと、しっかり定着させたいと強く望んでいる人たちのことです。(12頁)

内容と構成
  • 本書での考察を三部に分けました。第一部では、思い煩いというものが、いかに日々の生活に破壊的作用を及ぼすかを述べます。第二部では、私たちを金縛りにする思い煩いに対し、新しい生き方、すなわち、神の霊によってすべてが新しくされる生き方をイエスが提示し、このことにどう応じられたかを示したいと思います。最後の第三部では、私たちを縛りつける思い煩いの縄目を少しずつゆるめさせ、神の霊によって新たに作り変えていただくための具体的な修練を、いくつか述べることにします。(14~15頁)

思い煩いの本質とイエスの招き
  • 今日において思い煩うとは、忙しく過ごし、多くの心配を抱えながらもつまらなさを覚え、恨みを抱き、抑うつ感に圧しつぶされ、しかもひどく孤独であるということです。
    (中略)イエスは、私たちが本来いるべき場所へと連れ戻そうとしてくださいます。けれども、そのスピリチュアルな生活へと招く声は、自分の居場所のなさ、思い煩う姿を正直に告白し、そのことで日常生活がバラバラであることを認めることができて初めて、聴き取ることができます。その時こそ、真にいるべき場所への私たちの願望が深まります。(34~36頁)

神の国と神の義を求める
  • 思い煩うばかりの私たちへのイエスの応答は、……「生活の重心を変えなさい、注意を向ける中心を移動しなさい、そして優先順位を変えなさい」ということです。……この、心の持ち方を変えることこそが、すべてのことを変えるのです。たとえ、すべて見た目には変わらないようであってもです。これこそが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」<マタイ6・33>という言葉の意味することです。……私たちの心を神の国に置くとは、私たちの内にあり、間におられる神の霊に導かれる生活を、私たちの日々の考え、口に出す言葉、すべての行いの中心に据えることです。(41~43頁)

イエス的「真理」
  • イエスは聖霊を送ってくださり、そのことを通して、神と共にあるまったき真理へと導いてくださいます。ここで真理というのは、思想、概念、あるいは教理のことではなく、真実な関係という意味です。真理へと導き入れられるとは、イエスが御父との間に持っておられる関係へと、私たちも導き入れられること、つまり聖なる婚姻の関係に入ることです。(54頁)

本欄でこれまでにとりあげたナウエンの作品は『あわれみ――コンパッション――ゆり動かす愛』と『イエスの御名で――聖書的リーダーシップを求めて』です。他にも多数の作品が日本語で読めます。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

2018年10月16日火曜日

【信仰書あれこれ】聖書の味わい方


高橋重幸著『聖書を味わう』(2010年、オリエンス宗教研究所)をとりあげます。

この本は三部に分かれていますが、第一部の聖書をグループで学ぶための手引き部分が有益なのでご紹介します。

なお、著者はカトリックの厳律シトー会(トラピスト)司祭です。1950年代半ばから10年近くローマに留学し、グレゴリアン大学と教皇庁立聖書研究所で神学と聖書学の修士号を取得。新共同訳聖書の翻訳・編集にも携わっておられます。

◇◆◇

祈りの大切さ・神のことばを愛する態度
  • 学問的な研究を積み重ねただけで、神のことばの深みを百パーセント解明することができると考えましたら、それこそ大間違いです。なぜなら、神の語りかけは、人間の知識を遥かに超える「秘儀」であって、信仰だけがそれを正しくとらえることができるからです。……何よりも先に強調しておきたいことは、聖書を味わうためには、まず「神のことばを愛する」という心構えが絶対に必要である、ということです。(11~12頁)

聖書の真の読み方
  • 私たちの聖書朗読が、イエスへと導き、イエスと一致させ、いわばイエスの中に私たちを移しかえ、そこに根づかせる時にのみ、真の「読み方」になるのです。イエスのように、兄弟に仕える者の姿をとらせ、従順を学ばせ、万事において父の御旨を行わせ、父の喜びを私たちに通じるものとする読み方こそ、本物なのです。(26頁)

信徒間の霊的な語らいの不足
  • 神のことばは、交わりによって他の人に伝えられます<一ヨハネ1:3~4>。この交わりは、単なるおしゃべりや表面的な会話、まして自己主張といった類いのものではなく、神から受けた賜物を分かち合い、イエスをそこに臨在させることです。私たちの間では、このような霊的な語らいがあまりに少ないのではないでしょうか。(37頁)

聖書の共同研究のための準備・そこから得られるもの
  • 聖書思想事典』を使って行う共同研究のやり方についてお話しいたしましょう。共同研究のテーマは、最初にごく身近なものから出発すること、たとえば、「食物」<聖書思想事典554~556頁>のような生活と密接したテーマを選ぶことが肝要です。このページを開きますと、まずテーマの一般的な導入があり、続いて、「Ⅰ物質的な食べ物、Ⅱ霊的な食べ物、Ⅲ神の子らの食べ物」という三つの小項目に分かれています。それで参加者は、自分の分担として一小項目を選びます。(40~41頁)
  • 各々は、自分の選んだ担当部分を入念に研究します。……大型のノートを求め、それを開いて、左側のページに、項目に出てくる聖書の参照箇所の本文を全部書き取ります。……そしてそうしながら、心に浮かんだ思想や頭にひらめいたヒントや思いつき、印象、感想などといったものをノートの右ページに書き留めておきます。……こうしてゆっくりと項目を研究していきますと、次第に「食べ物」についての聖書の思想が分かってきます。つまり、食べ物は神の祝福であること、人間はそれを感謝をもって使用する代わりに、飽食とか泥酔とかまたは施しの拒否や貧しい人たちを搾取すること等によって悪用できること、しかし他方では、「食べ物」を分かち合い、人々との交わりを深め、一致を実現するものとして活用できること、そして天の父は私たちの願いに応えてすべての必要なものを自ら整えてくださるので子どものような信頼を御父に対して持つべきこと、などという、希望を養い、警戒を促す聖書思想を理解し、深く分け入ることができるのです。(41~43頁)

聖書の共同研究と分かち合いの意義
  • 私たちが聖書の中に読みとらなければならないことは、神の恵みの深さであり、罪のゆるしを得るためには回心が必要であり、またイエス・キリストが私たちの近くにおられて、神の子としての喜びと平和、教会に対する愛、他の人に奉仕する熱意を注いでくださること、一言で言えば、神と人に自分の全てを注ぎだして、恵みに満ちたキリスト教的生活を送るということです。十字架につけられ、そして三日目に復活されたイエスに結ばれ、このイエスを通して聖書を読むとき、私たちの罪ですら光り輝くものとなり、一切は讃美の源となります。聖書の共同研究と分かち合いは、単なるおけいこ事や学習ではなく、復活された主イエスを中心に、聖書のこの喜ばしいメッセージを生きることだ、と言えるでしょう。(47~48頁)

共同研究の例で引用されるレオン・デュフール師編集『聖書思想事典』(1973年、三省堂)は私も持っていて、いつか共同研究に役立てたいと思っています。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【関連リンク】 

2018年10月15日月曜日

【信仰書あれこれ】聖なる仕事としての祈り

オズワルド・チェンバーズ著『「祈りの時」を変える黙想』(棚瀬多喜男訳、1997年、いのちのことば社)をとりあげます。

祈りの本は無数にあり私も何冊か持っていますが、私が読んだ中で最も感銘深いのはこの本です。

すべてのページから著者の類いまれな霊性の深さが感じられます。一部を以下にご紹介します。

◇◆◇

祈りが必要だという意識をどれほど強く私たちは持っているのか。
  • 祈らない人が非常にたくさんいます。それは自分が何かを必要としている人間だということを知らないからです。聖霊が私たちの内にいてくださるしるしはこうです。自分が充分に満たされていると思うことができない、本当は空っぽに過ぎない、と知ることです。……私たちを試みる人々や、困難な状況や、理解しがたい問題に私たちはぶつかります。そしてこれらすべてが、必要の意識を呼びさまします。それが、聖霊がそこにおられることのしるしです。(62頁)

私の祈りの動機は何と何か。
  • この前あなたは何について祈ったのか、思い出してみてください。あなた自身の願いごとに思いを集中していたのですか。それとも神ご自身に集中していましたか。御霊の賜物を何か得たいと決めていたのですか。それとも神との深い交わりを求めたのですか。(64頁)

私の思っている答えを神が与えてくださらないとき、私はどのように応答するのか。
  • 祈りの要点は自分の求める答えをいただくということではありません。祈りは神との完全な、全き一致です。もし答えをいただきたいということで祈るなら、私たちは神に対して憤慨したりします。答えは確かに必ず来ます。ただ、いつも私たちの期待しているような形で来るとは限りません。……神の子らは神が祈りに答えてくださることを知りたいと思って祈ったりしません。神はいつも祈りに答えてくださることを確信し、心に安んじているからです。(88~89頁)

私の祈りの結果として、きょう私は神について何を学んだか。
  • 聖霊は私たちを導いて、神の影響を受けやすい場所に連れて行ってくださるだけでなく、個人的に親しいつながりを持てる関係に、私を入れてくださいます。その結果、祈りのたゆまない訓練によって、私が自由意志を用いて決断したことが、全能の神の秩序の中で前もって定めておられたこととなります。……祈りに答えて、神はご自身を啓示されるのです。……神は私たちの祈りに答えるのではありません。私たちの人生におけるイエス・キリストの祈りに答えてくださるのです。祈りによって私たちは神の御心がどういうものであるかを知るようになります。(89~90頁)

美しい祈り
  • おお、主よ。穏やかな、優しさに満ちた、美しい性格が与えられますようにと祈ります。霊的な活力の賜物が与えられること、すべての人に対して、またあなたの御前で、あらゆることに耐える人生が与えられることを求めます。主よ、あなたの優しさと美しさと忍耐をお示しください。私が生きているこの時代のやり方に染まってしまうことのないよう、私を助けてください。おお、主よ。忙しさに取り紛れがちな私を清めてください。ただひとえに、あなたのものとしてください。あなたのために私が清められ、そのようにして、あなたの喜びと御力が私の中に、また私を通して、あなたのご栄光のために、新しく与えられることを祈ります。おお、主よ。あなたの御霊が私に住まいたもうことによって、礼拝する姿勢と美しさと聖潔を私の中につくりだしてください。主よ、私の肉体と霊とに触れてください。そうして、それらが主と一つになることができますように。(182~183頁)

オズワルド・チェンバーズは”My Utmost for His Highest”(訳書名『いと高き方のもとに』いのちのことば社)の著者として有名ですが、他にもいろいろな著作があるようです。それらが翻訳されないのが不思議です。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【関連リンク】

2018年10月10日水曜日

【信仰書あれこれ】ちいろば先生物語

三浦綾子著『ちいろば先生物語』(1990年、朝日文庫)をとりあげます。1986年1月から1年3か月『週刊朝日』に連載され、単行本として出版されたものを文庫にしたものです。

「ちいろば」とは、イエス・キリストがお乗りになったロバにからめ、この伝記小説の主人公である故・榎本保郎牧師が「ちいさなロバ」としての自分につけた呼び名です。

週刊誌連載のためか、各章に山場めいた話があり、以前に出て来た事柄が間隔を置いて再登場した時は、以前の分を読んでいない人のために、それを短く説明する工夫が施されており、読みやすいです。

以下では、本書の中で興味深い部分をいくつか引用します。

◇◆◇

中学5年を卒業した保郎は、教師になる夢を目指し、1943年4月に旅順の師範学校に入ります。そこで音楽教育のためのピアノのレッスンを受けるのですが、指の置き方・椅子の座り方が悪いと、保郎は教師に罵声と暴力を浴びせられ、ついていけなくなります。その時に唯一怒鳴られなかったピアノの上手な旧友が次のように言います。
  • 「僕の父は、しがない音楽教師だけどね、音楽で一番大事なのは、音楽が好きだということだ、といつも言うよ。文字通り音を楽しむことだってさ。下手でもいいんだって。楽しんでピアノを弾いていれば、そのうちに自然と椅子にかける姿勢も、指の角度も整うんだって。だから、僕がピアノを弾いている時に、親父は一度も怒鳴ったことないよ。ここの先生は、ありゃ音楽を知らないんだよ。恐怖から音楽好きは生まれやしないものな」(106頁)
考えさせられる部分です。信仰もある面で同じでしょう。聖書の中の話や聖句、あるいは教理を覚えることに汲々として、復活されたイエスとの生きた出会い・交わりがなければどうなるでしょう。真剣な意味で「イエスを楽しむ」ことなしに信仰生活は成り立たない気がします。

榎本牧師は1977年7月27日に52歳の若さで天に召されます。信仰者としての歩みは、8月4日の本葬で語られた、親友・林惠氏(同志社大学神学部時代の同窓生。教師)による説教によく表れていますので、その部分を引用します。
  • ……先生は入信するやたちまち伝道者として召され、神学校在学中すでに世光(せいこう)教会を設立し、洛南の開拓伝道に携わりました。先生の著書名のごとく、その生涯は、主イエスのご用に召された「ちいろば」のそれでありました。そうして、自らのプログラムを持たず、主の引き給う手綱のままに、その馳せ場を忠実に走ったのであります……しかし人間的には先生を崇拝し、祭り上げることをしてはならないと思います。信仰が個人崇拝となり、榎本教となることは、先生の最も警戒されたところであります。先生亡きあとは、先生の教えのごとく、祈りをもって直接聖言(みことば)に聞き、神ご自身に育てていただくことを求め続けたいと思います。(740~41頁)

 榎本牧師は自分と妻和子との血と汗の結晶とも言える世光教会を十数年で去ります。信者に慕われすぎて、「榎本先生がいないと教会に来ない」「大丈夫、ここは榎本先生の教会だから」というような話を彼らがしているのを陰で聞いたからです。それを耳にした榎本牧師の思いは次のようなものでした。
  • ここは榎本牧師の教会やない! イエス・キリストの教会なのだ。自分がいようといまいと、この教会はキリストを信ずる者が礼拝に集まる場所なのだ。自分はもしかして、キリストの前に立ちはだかって、信徒をキリストに真に仕える者へと育てていないのではないのか。(555頁)
そして次のように祈り、数年後に教会を去っていきます。
  • 神よ、世光教会に仕える者として、12年の長い年月、私をこの教会においてくださったことを、心から感謝いたします。神よ、私はこの教会を熱く愛しております。しかしながら、私がこの教会にあることが、信者たちの成長の妨げとなるならば、私を去らせてください。神が行けと言われますならば、どこへでも行けるように私を強めてください。どうか、この教会を私物化する過ちを犯さぬよう、お導きください。(558頁)

以上の他にも、戦争に応召されて出会ったカトリック神学生との邂逅、世光教会の青年の集まり「ヨルダン会」のメンバーだった高校生の端田宣彦(後のフォーク・クルセダーズの一員、はしだのりひこ)のことなど、読みどころ満載です。 

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【関連リンク】