2018年3月26日月曜日

【信仰書あれこれ】主人公の瑞々しさ・優しさに心が洗われます

モンゴメリ著『赤毛のアン』(松本侑子訳、2000年、集英社文庫)を数年前に読んで感動しました。村岡花子の訳が有名ですが、『赤毛のアンの幸せになる言葉~人生が輝く生き方~』(松本侑子著、2014年、主婦と生活社)を事前に読んでいたこともあり、私は松本侑子訳で楽しみました。

以下、『赤毛のアン』の心に響く場面をいくつかご紹介します。

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アンは赤ん坊の時に両親と死に別れた孤児で、兄弟も親戚もいない天涯孤独の身。引き取り先はマシューとマリラという、田舎でひっそりと暮らす熟年の独身兄妹です。仕事の助けになる男の子を希望したのにアンをあてがわれ、マリラは孤児院に返そうとするのですが、マシューの口からは思いがけない言葉が出てきます。とてもキリスト教的です。
  「あの子を引き取るのは、やっぱり難しいかのう」
「当たり前ですよ。あの子が私たちの何の役に立つんですか」
「でもなあ、わしらが、あの子の役に立つかもしれないよ」(本書49頁)

アンとの生活が深まるにつれマリラの胸に母親のような愛情が湧いてきますが、それに浸るのではなくアンを厳しくしつけようと懸命です。天衣無縫のアンはそんなことにおかまいなく、思ったままを口にします。その一言が意味深長です。
  「いい子でいれば、いつでも幸せなんですよ、アン。そうすれば、お祈りの言葉を唱えるのも難しくありません」
「お祈りの言葉を唱えることと、祈ることは、厳密には違うわ」(112頁)

祈りについて、アンはこんなことも言います。
  「私は、アランさんが牧師に決まって嬉しいわ。お説教も面白いし、それに、習慣だからお祈りするんじゃなくて、心からなさるもの」(247頁)

アンの瑞々しい感性は物語の大きな魅力です。
  「なんて素敵な日でしょう!」アンは深々と息を吸い込んだ。「今日のような美しい日に生きているなんて、それだけで嬉しいわね。まだ生まれていない人は、今日という日を逃してしまうから気の毒だわ。もちろん、その人たちも、いつかは素晴らしい日にめぐりあうでしょうけど、今日という日は絶対に味わえないもの。それに、こんなにきれいな野山の道を抜けて学校へ行くなんて、なおさら素敵だわ」(150頁)

親友ダイアナの叔母さん宅で四泊した後、家に戻る時のアンの喜びようが次のように描写されます。(下線、森川)
  帰り道も、往きと同じくらい楽しかった。― いや、もっと楽しかった。たどり着く先に我が家が待っていると思うと、嬉しくてたまらなかった。(中略)「ああ、生きているってなんて素敵、そして家に帰るってなんて素敵なんでしょう」アンは吐息を漏らした。(中略)「ただいま、マリラ。家に帰るって、とってもいいものね」アンは喜びに満ち満ちて言った。(中略)夕食の後、アンは暖炉の前でマシューとマリラに挟まれて座った。そして、この遠出のことを何から何まで話して聞かせた。「とにかく、素晴らしかったわ」最後に、アンは満足そうに言って締めくくった。「一生忘れられない思い出よ。でも、一番素晴らしかったのは、家に帰ってきたことよ」(342343ページ)

家に帰ることの素晴らしさを四度も繰り返しています。私はここを読みながら、「家」が「天のみ国」のように思え、神に結ばれている限り、最後には「天のみ国」に帰り、神と共に永遠にやすらぐことができるのだ、という喜びが湧いてきたものです。

脳科学者の茂木健一郎が著した『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』(2008年、講談社文庫)の裏表紙には、「11歳の時、私はなぜ、“この作品には何かがある”と直覚したのだろう。最近になってやっと、その正体が見えてきた」とあります。こちらもよく書けているので、併せてお読みになることをお勧めします

JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月22日木曜日

【信仰書あれこれ】南北戦争と信仰を描いた映画

友情ある説得』(ウィリアム・ワイラー監督ゲーリー・クーパー主演、1956年)をとりあげます。南北戦争を背景に、北インディアナ州の農園で平和に暮らすクエーカー教徒の日常と、彼らが戦争に巻き込まれてゆく姿を描いた佳品です。

真面目さとユーモア感覚のバランスが見事で、思わず笑ってしまうシーンの続出です。それが作品を豊かなものにしているからでしょう。本作は1957年度カンヌ映画祭のグランプリを受賞しています。

映画の初めのほうに登場する、クエーカー教徒の集会の場面を以下にご紹介します。全編の伏線にもなっている部分です。

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日曜朝の集会(礼拝)。沈黙が支配する場に北軍の大佐(右足負傷)が入ってくる。
  大佐:戦争の現状を話しに来ました。
  女性牧師:そのことについては私たちも憂慮し、祈っています。
  大佐:クエーカーの男性は戦おうとしませんね。
  女性牧師:何人かは戦ってます。
  大佐:みんなに奨励はしていないでしょう?
  女性牧師:ええ。
  大佐:戦争はもう2年も続いていて血が流されています。自由のために数千人が命を捧げたんですよ。
  女性牧師:奴隷制度には反対です。でも、一人の人間を解放するために別の一人を殺すことは、正しくありません。
  大佐:そういった原則の問題を超えて、我々自身の命や家を守る戦いになってきているんです。
  大佐:(男性たちのほうを向いて)諸君を守るために仲間が死んでいる。(目の前の若い男Aに)どうして戦おうとしないんだ。
  A:戦う誘惑に駆られますよ。罪深い血が騒ぎますから。だから感情に振り回されないように自分を抑えるようにしています。戦場に出たら、どんなことをしでかすかわからないんです。
  大佐:隣の君は?
  B(女性牧師の長男ジョシュ):(しばらく沈黙した後)わからないんです。
  大佐:正直な答えだ。みんな戦うのが恐いから教会に身を隠しているのか? 人まかせで身を守ってもらうつもりなのか! 誰か答えてくれないか!
  C:(長老の一人。激しい口調で)わしが言おう! 同胞に銃を向けたくない。わしの家を燃やし家族を襲うがいい。断固として言う。迷えるジョシュよ、よく聞いておけ。誰もわしに暴力を強制できんのだ。
  D(女性牧師の夫):それは、ちょっときつすぎやしないか。襲われたら何をするか誰にも分からんさ。
  C:信念がゆらいでいるようだな。
  D:自分に正直に話しているだけさ。妻や子どもが襲われたり危険にさらされたらどうするか、よく自問するよ。そういう時が来たら、祈って神のおっしゃるように行動するだけだ。
  大佐:それが、もう目の前に来てるんだよ!
  D:そうかもしれん。神がお心を示してくださり、我々がそれに従えるように祈るだけだ。
  女性牧師:(あきらめたように出ていく大佐を見つめながら)主よ、汝の子らに、あなたの愛を与えてください。悪と暴力に立ち向かうために、剣を鋤に、槍を鎌に変えてください。平和の子らが永遠に戦争を経験することがありませんように。
  会衆一同:アーメン。

物語の後半。戦火が激しさを増し、南軍に家を燃やされ家族を襲われた上記の男C(長老の一人)が豹変し、自宅で槇割りをしている男Dに、「行動しなきゃ平和は保てんぞ」と迫るシーンから、言動に責任をもつことの難しさを考えさせられます。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月19日月曜日

【信仰書あれこれ】ダイジェスト版ですますにはもったいない本

子ども時代にダイジェスト版を読んでわかった気になり、その作品の真の姿に触れずじまいのことが往々にしてあります。私にとってそのような一冊が、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』でした。

数年前に旺文社文庫(大橋吉之輔訳、1967年、上下巻)で本作を読み、大きな感動をおぼえました。幾人かの登場人物や、主人公トムの確固たるキリスト信仰が全編を支配する、不滅の傑作です。

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村岡花子(『赤毛のアン』の訳者)が「アンクル・トムの小屋を読んで」と題した短文で、次のように書いています。
  二月のある日曜のことであった。教会堂に座って祈っていた時、ストウ夫人の閉じた目の前を、一列の哀れな黒人が通る幻影が映った。それは売られていく奴隷の一群であった。その悲惨さは、彼女の胸をかきむしった。家に帰って子どもたちと語った時、彼女は決然として、「私は書く。必ず書く」と誓った。と、こういうエピソードが語り継がれている。……人々はこの物語に涙をしぼった。世論は怫然として起こり、ついに奴隷売買の是非を戦争によって決めるまでに至ったのだ。(本書下巻459頁)
  文学が戦争を起こすとはよくよくのことである。かつてキリスト教関係の国際会議が日本で開かれた時、音楽委員として来日した黒人歌手が私の家を訪問したが、机の上にあった、私の訳した『アンクル・トム』を見るや否や「おお! アンクル・トム!」と言って、その本を書き抱いたのを、いまだにまざまざと憶えている。(下巻460頁)

アメリカ南北戦争186165年)の原因のひとつが本書であったことを、上記の文で初めて知りました。多数の人々に読まれ、心ある読者の正義感を鼓舞したのでしょう。

本編から数カ所引用します。以下の部分はマタイ福音書544を彷彿とさせます。
  「聖書が言っているように、おらたちをよこしまに扱う人らのために祈るのだ」と、トムが言った。
「あいつらのために祈れだって?」クロウおばさん(*トムの妻)が言った。「それは、あんまりじゃないか。あたしにゃ、できないよ」
「これもなりゆきだよ、クロウ。なりゆきってのは、どうしようもないんだ。だが、神様のお恵みは、なりゆきなんかより、もっともっと強いんだよ。あのようなことをする人間の哀れな魂は、どんなに気の毒なものか考えなくちゃなんねえだ。クロウ、おまえは、自分がそんな人間でないことを感謝しなきゃいけねえだよ。おらは、そのような人間が、どんな責任を負わなきゃならねえかと考えたら、何万べんとなく(自分が奴隷として)売りに出されているほうがましだと思うだよ」(上巻100頁)

次の部分は、ダニエル書31418を想起させます。トムの話し相手レグリーは暴虐な農園主。トムを買い取り、ついには彼をなぐり殺してしまう悪漢です。
  「いいかい、神様なんて、おめえさんを救っちゃくれねえってわかったろう。救ってくれるつもりなら、俺にお前を買わせなどしなかっただろうぜ! おめえの言う宗教なんてのはな、みんな、嘘つきでいいかげんなもんだぜ、トム。俺にゃちゃんとわかってるんだ。俺についたほうが利口だぜ……」
「いいえ、だんな」と、トムは言った。「おらは今まで通り神様におすがりしますだ。神様が、助けてくださろうと、くださらなかろうと、最後まで神様を信じ、おすがりしますだ」
「どえらいあほうだな、おめえ!」と、レグリーは軽蔑したように彼に唾を吐きかけ、足で蹴とばした。「まあ、いいわい。今に見ておれ、俺がぎゅうぎゅうとっちめてやるからな!」(下巻329頁)

ダイジェストしか知らずに読んだ気になっている、キリスト信仰にもとづく重要な作品と言えば、『ロビンソン・クルーソー漂流記』もそうです。いつかこの欄でご紹介できればよいのですが

JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月16日金曜日

【信仰書あれこれ】一冊だけ手もとに置けるとしたら

本日は、我が家の狭い書斎を占有する神学書・信仰書の中で、一冊だけ手もとに残せるとしたらどれにするか、このことについて考えます。

頭の体操になるだけでなく、自分の信仰の内実を知る上でも有益な作業です。現時点での我がベスト・オブ・ベストを選んでみました。

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現時点で私が(自分のために)一冊だけ取り置くとするなら、宮本武之助著『聖書のことば』(1977年、潮文社)になります。著者は宗教哲学の専門家で、東京神学大学教授、東京女子大学学長を経験され、本書執筆当時はフェリス女学院の院長だったようです。

本書の次のような記述を読むたびに、聖書とともにずっと持っていたい本だという気持ちを新たにさせられます。

  私たちの目は光のない闇の中では、何ものをも見ることができない。私たちの知性は、神を照らし出すほどの光を持っていないので、神から光が来ないならば、私たちは神について何事も知ることができない。……神に関して私たちの知性が正しく働くことができるようになるためには、まず神から来る光によって私たちの心が照らされ、神の言葉を聞き、神を信じるようにならねばならない。神に関して知性の働きが信仰に先立つのではなく、信仰が知性の働きに先立つ。しかし信仰は、知性の働きを否定するものではなく、むしろその働きによって自らの内容を深く内に読み取り、知解することを求めるのである。(13頁)

  神信仰は神から来る光によって私たちの心が照らされ、私たちが神の言葉を聞くことによってはじめて生じる。この意味において信仰は主観的ではなく客観的である。信仰は、私たちの信仰を根拠づける真理を、その真理そのものの力によって受け入れることである。このように私たちの信仰を根拠づける真理が、聖書の言う神の言葉である。(14頁)

  いつの時代も人々は、自らの欲する神を求めてやまなかったので、創造者である神を正しく認めることができなかった。(中略)神が創造者であるということは、……世界の発生に関する学説なのではない。それは神が全世界の主であるということである。それゆえ創造者である神を信じるということは、私たちが主である神に服従するということである。(中略)私たちがこの世界の主である神を愛し、この神に服従するとき、この世界における私たちの生は、これまでとは異なった意味を獲得し、私たちは真の人間になる。創造者である神を信じるということは、すべてのものの主である神を心を尽くして愛し、この神に力を尽くして従うことである。(2223頁)

  聖書の語るところによると、神は本来一切を超越しており、この世に不在であるかのように、私たちに隠されているのである。ところがこの神は、キリスト・イエスを通して私たちに語りかけ、私たちとの間に人格的関係、「我と汝」の関係を造り出す主体である。この隠されている神との人格的関係に、私たちの全存在を賭けることが、キリスト教の言う信仰にほかならない。そしてキリスト教が語ることは、すべてこの神信仰にもとづいているのである。(219220頁)

この本は、著者が東京女子大学とフェリス女学院大学の学内礼拝で語ったことをもとに、書き改めたものです。「神を知る前提」「聖霊の働き」「罪に死んで神に生きる者」「共に生きうる根拠」など68の項目すべてが、上記のようにわかりやすく、克明に、力強く語られています。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月8日木曜日

【信仰書あれこれ】日本に初めてキリスト教を伝えた人物のパッション

1549年にフランシスコ・ザビエル が日本に初めてキリスト教を伝えたことは、多くの方がご存知でしょう。

彼はどんな信仰を持っていたのでしょう。私がそれを知ったのは、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(河野純徳訳、1985年、平凡社。同訳者・同タイトルで東洋文庫からも四分冊で刊行されています)を数年前に読んだ時です。700頁以上の大著ながら無類におもしろい。

この書簡集は、1535年から1552年にかけてザビエルがアジアの宣教地からローマのイグナチオ・デ・ロヨラなどに宛てた手紙137通(いずれも長い。この中には日本宣教時代<154952>の19通が含まれる)を訳出したものです。

以下に、ザビエルの燃える信仰が伝わってくる数か所をご紹介します。〔 〕内は、意味が通るように訳者が補ったものです。

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  ローマのイエズス会員たち宛て/1542920日/ゴア
主なるキリストの十字架を喜んで負う人々は、このようなさまざまな苦しみの中に心の安らぎを感じるもので、この苦しみから逃れたり、苦労なしに生活すれば、生き甲斐を感じられなくなるものと私は信じています。キリストを知っていながら、〔もしも〕自分の意見や執着心に従うために、キリストを捨てて生活するとなれば、死ぬ〔よりもひどい〕心の苦しみの中で生活しなければならないことでしょう。これに等しい苦しみは他にありません。その反対に、自分が愛着することに逆らって、イエズス・キリストの他には自分の利益を求めず、日々死ぬことによって〔霊的に〕生きることは、どれほど大きな慰めでしょう。(87頁)

  ポルトガルのシモン・ロドリゲス神父宛て/1549125日/コーチン
……私はそんなことで日本へ行くことをやめません。なぜなら、安らぎのないこの世の生活の中で、死に〔直面する〕大きな危険にさらされながら生き、生活のすべてを主なる神の愛と奉仕に捧げ、聖なる信仰を広めることだけ考えて生きていくことほど、大きな霊的慰めは他にありませんから。また、このような苦しみのうちに生きることは、苦しみを味わうことなく生きるよりももっと大きな心の安らぎが得られますから。(371頁)

  ヨーロッパのイエズス会員宛て/1549622日/マラッカ
必要なあらゆるものを持って〔優雅に暮らし〕ながら神を信頼する者と、必要なものを持つことができるのに、キリスト〔の貧しいご生活に〕よりいっそう似るため自ら清貧になって、何も持たずに神を信頼する〔修道者〕とは大きな相違があります。それと同じく、死の危険にさらされることなしに、神を信仰、希望、信頼する者と、神への愛と奉仕のために明らかに死の危険がある場面に臨んで、もしもそれを避けたいと思えば、自分の意志で死の危険から逃れることができるにもかかわらず、自分の意志で危険に身を挺して、神を信仰、希望、信頼する者とでは大きな相違があります。絶えざる死の危険にさらされながら生きる人たちは、ひたすら神への奉仕にいそしみ、他のことは何も顧みず、やがて来るべき終焉の時をも考えず、この世の生活をも忌み嫌って、天国で神と共に永遠に生き、支配するために、〔この世の〕死を望んでいる人たちです。この世の生命そのものは、絶え間ない死の連続であり、永遠の栄光を得るために神によって創造された私たちにとっては、〔この世の生活はまさに〕さすらいの旅であると言えましょう。(450頁)

  ゴアのガスパル・バルゼオ神父宛て/15521025日/サンチャン
私があなたにも、すべての会員にも願っておりますことは、〔神が〕あなたがたを通じて行われることよりも、神があなた方を通じて行いたいと思われても〔あなたがたが従わないために〕やめてしまわれることについて、もっと真剣に考えてほしいのです。(730頁)


いずれも宣教の情熱がほとばしる文面です。クリスチャンなら一度は読むべき本(書簡集)かと思います。訳者は異なりますが、岩波文庫からもザビエル書簡抄訳が二分冊で出ています。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月7日水曜日

【信仰書あれこれ】信仰の真の豊かさを味わうために


わくわくする内容ですが、ある人にとって著者の指摘は、いくぶん過激に映るかもしれません。それは、こんな風に始まるからです。

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  多くのクリスチャンは、信仰の与える豊かさを知らずにいます。イエスは天の御国を高価な真珠にたとえられました。すべてを売ってでも手に入れる価値のあるものです。……問題は、この真珠が、その不可思議な喜びを十分に味わえない、豚も同然の私たちの前に放り投げられたことです。私たちはその美しさを享受できず、その価値を理解できていません。……私たちのほとんどは、キリスト教の表面をこする以上のことをしません。そして、福音との表面的な出会いを、全面的な福音を代表しているように思いこんでいます。本書は、そこからさらに深く掘り下げようとしています。キリスト信仰に近づく、素朴な方法に満足できない人々のために著されました。(1011頁)

著者自身、福音との「表面的な出会い」に満足できず長年苦しんでいました。教理を理解はするものの、聖書の出来事を十分に味わってはおらず、信仰の豊かさを知らず、霊的深みに至らなかったというのです。それが、中世に書かれた一冊のキリスト教書と出会い、それにもとづく実践を経て、霊的に整えられるとはどういうことかを悟ります。本書は著者が採用した実践方法を具体的に示すものです。とても有益な例が随所に見られます。

キリスト信仰について深く掘り下げ探求したい人、言い古された浅薄な説明にうんざりしている人、クリスチャンとしての霊性の深まりを得たいと思っている人に勧めます。

ちなみに、霊性について著者は次のように定義します。
  霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いの経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの信仰の内面化に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。(17頁。下線著者)

本書のキーワードは「理解より黙想」です。著者は、聖書を読む際に、読者が物語へ自己を投入する必要を唱えます。イエスの生と死についての福音書の箇所を読む場合も、そこに書かれた内容を、知的に理解しようとするにとどまらず、その場面を何度も黙想し、自らが登場人物の一人となって、その場の空気を味わい、周囲の人間の思いを現実世界のそれと同じように感じ取ろうとし、自分が演じようと定めた登場人物の一人の感情も、まるで今その場にいるかのごとくリアルに表出しようと試みる(黙想する)のです。

本書の手法のポイントとして著者があげるのは次の三点です。
    一つの聖書箇所をイメージする際、一息入れて、その箇所が心に絵を描くまで待つことが不可欠です。そのイメージの世界に入らなければなりません。自らをそのイメージに投射し、その一部になることで、その豊かさ、そこに意味されているものを経験する必要があります。(本書29頁。下線著者)
    福音書にある物語を読む際、その物語の中に入り、この世の救い主を証言する人たちの傍らに立たなければなりません。福音書の物語を、それが今起こっているかのように黙想する必要があります。(同上)
    聖書の概念テーマに関わる際、理解するだけでは不十分です。生活に適用する必要があります。そのことによってそれは抽象的な生命のない観念ではなく、実践された現実となります。キリスト教とは、概念だけに関する物ではなく、霊的リアリティーの変化に関係するものなのです。(本書2930頁。下線著者)


さあ、この本とともに「信仰の旅路」を歩みませんか。


JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月5日月曜日

【信仰書あれこれ】今までどうしてこの人の本を読まなかったのだろう

R・ボーレン説教集『喜びへの道』(小澤良雄訳、2008年、教文館)にめぐりあいました。どうして今までこの著者を知らなかったのかと思うほど充実した中身でした。

説教の前後になされたボーレン師の祈りも記されていて、それがことのほか心を打つのですが、加藤常昭氏による解説と訳者あとがきの双方がこの点に触れています。

列王記下20章1~6節 による説教「いかに死ぬか」の後でなされたボーレン師のとりなしの祈りを以下にご紹介します。1989年東欧革命・1990年東西ドイツ統一・1991年ソ連崩壊という一連の歴史的大変動直後の、1992年2月に行われた説教です。


◇◆◇

三位一体の神よ、私たちはあなたに思いを向けます。
私たちがあなたにふさわしく生きることを始められるために、
いかに死ぬかを学ばせてください。

死ですべてが終わると私たちが信じることがないようにしてください。
そうではなくて、死を克服されたお方が再び来られることを信じさせてください。

狂気と分裂から私たちを救い出してください。
私たちが天の御父の子にふさわしい心の純一な者となるために、
あなたの光の中に導き入れて、私たちを照らしてください。

あなたの民を顧みてください。
死んだ状態にあるあなたの教会を顧みてください。
監督たちを新しい命へと目覚めさせてください。
説教者たちを新しい命へと目覚めさせてください。
神学者たちを新しい命へと目覚めさせてください。
信徒たちを新しい命へと目覚めさせてください。

あなたのものである死んだキリストの教会を甦らせてください。
すべての民を顧みてください。特に困窮の中にある東欧の民を顧みてください。
かつて諜報活動にたずさわっていた人々を憐れんでください。
また、諜報活動によって苦しみを受けた人々を憐れんでください。
すべての人々に新たな始まりをお与えください。
イスラム圏の民とあなたの選びの民であるイスラエルのために祈ります。
彼らがあなたのお遣わしになったお方を知り、その方の中に安息を見出しますように。

すべての苦しむ人々を顧みてください。
死に直面しているすべての人々を顧みてください。
すべての医師を、看護にたずさわるすべての人々を助けてください。
生きることが重荷となっているすべての人々に、救われた者としての最期をお与えください。
そして、私たちの誰もがたった一人で最期を迎えることがないようにしてください。(38~39頁)

著者は日本と深い交流を持ち文芸にも精通していることから、『源氏物語と神学者―日本のこころとの対話』 という作品もあります。


JELA事務局長
森川 博己

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2018年3月1日木曜日

【信仰書あれこれ】修道女のことばをノンクリスチャンがまとめた本

今回は『シスターからのおくりもの ― 心を包む53のことば ―』(中村靖著、2007年、グラフ社)をとりあげます。

著者の中村靖さんはノンクリスチャンで、叔母さんが修道女です。その叔母さんが、洗礼を受ける人のために一年間の勉強会を開き、そこに著者も通いつめて、「難しくなく、古くもなく、現代に生きることば」と感じたものを拾い集めたのが本書です。

全体が「落ち込んでいるときに励まされることば」「幸せになることば」「気づかせてくれることば」の三つに分類されています。私の心を打った表現を以下にいくつかご紹介します。見た目の柔らかさに配慮し平仮名を多用した原文のまま引用します。



◇◆◇


〇 落胆は、メッセージです。
「神も仏もいない」と落胆するような出来事が起こったら、それは神様があなたに送ったメッセージです。あなたになにかを考えさせたい、感じさせたい、気づかせたいと思っているはず。「わたしは不幸だ」と思う前に、考えてごらんなさい。神様から送られたメッセージとはどんなものなのかを。(14~15頁)

〇 つらさのなかに、答えが見つかります。
ものごとが思ったようにうまくいかなければ、だれだってつらく、気持ちが沈んでしまいます。だからといって落ち込んだままでいては、なにも変わりません。つらくても、それを受け止めてみてください。つらさのなかに、答えが見つかるものです。そのつらさは、いまのあなたに与えられた試練なのですから。(22~23頁)

〇 傷つくことは幸せの始まりです。
傷つくことは、悪いことではありません。傷ついたとき、人は苦悩します。そして、幸せとはなんであるかに気づくのです。(54~55頁)

〇 シスターにとっての幸せとは?
「あなたにとっていちばん大切なものは? と尋ねられて、『神様です』と答えられたら幸せです」(92~93頁)

〇 見る目と聞く耳をもっていれば、世のなかのすべては奇跡です。
「いまの世のなか、おもしろくない」とおっしゃる人がいます。本当に、そうですか? だとすると、それはあなた自身が自分を「閉じている」からにほかなりません。見る目と聞く耳をもっていれば、世のなかのすべては奇跡です。もっていなければ、世のなかのすべては当然でしかありません。(98~99頁)

〇 与えられたものは、喜ばなければなりません。
養護施設で奉仕をしている若いシスターが、ある日、難題に直面しました。「用事があるので、しばらく(障害のある子を)預かっていてほしい」と、子どものお母さんに言われてどぎまぎしたというのです。それでつい、「どうすればいいのかわかりません」と言い放ってしまいました。するとそのお母さんは、静かに答えました。「わたしだって、(この子を)与えられたんですよ」。シスターの心は、きゅっとしめつけられたように、苦しくなったといいます。お母さんのことばで、なにが大切だったのかに気づいたからです。(122~123頁)

この最後の文章を読むといつも、私の心も締めつけられます。

JELA事務局長
森川 博己

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