以下では、81歳の時の説教「選びの意味転換」のエッセンスをご紹介します。
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本論に入る前に、著者の議論の前提を以下に要約しておきます。
「日本人はキリスト教を信じる時に、自分の力でそれを選んだという意識が強いが、自分で決めたと思っている限り、捨てることも簡単。日本人クリスチャンが洗礼を受けながら長続きしないのには、このことが関係している。要するに、真のキリスト教が分かっていない。自由主義神学も同じで、自分が満足しない教えは捨てるし、合理的だと思える部分だけを受け入れる。つまり、聖書を心から信じて、その前に頭を垂れて聞き従うということをしない」。
以下、本論です。
- 「自己反省の始まらない信仰」というのは偽物なんだ。(中略)教会へ行って洗礼を受けるようになるまでには、「多くの目に見えない関係していたことが」ずうっとわかってくる。こうなってくると、俺が選んだとは思うが、誰が、ということなく準備がせられていた、ということに気づく。これが信仰による反省です。で、ことに自分自身の過去の生活が反省されてくる。あんなこと、こんなこと、喧嘩したこと、恨んだこと、……そういうことがあったからこそ、徐々に信仰に近づくようになったのだなあと思われるようになる。ここに、そう、「俺が選んだ」という絶対的な自力の宗教の「転換」が現われている。(中略)この翻りができないと、教会もわからない、説教もわからない、牧師も分からない。(52~57頁)
- 反省の「極」、選びということの「極」が、「神は……天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選び……」(エペソ1:3から)。ここまでいく。もう「母の胎内から」、じゃない。私というものがおよそ存在しなかった時から、神の御旨には私があった。天地が創造される以前から、キリストにおいて私を選んでおいてくださった――これがキリスト教で言う本当の「選び」というものです。ここから下がってきて、何のために選びたもうたか、すなわち神の選びの目的ということに考えがいく。そしてそこに使命感が生まれてくる。……この使命の「ために」選ばれたんだ、という「使命感」が出てくる。(58~59頁)
- 神によって、私は選ばれた。人の誉れを求めるためじゃない。こういう人々のね、本当の満足は内なる満足です。死ぬ間際まで本当に心の奥底から使命に尽くしたという喜びだ。……人にはわからないが俺はあの神様に選ばれた、それで私は存在しているんだ。それで私は毎日の仕事をしているんだ。どうです。本当にこの自覚が内に持てたら――(61頁)
- この選ばれたという信仰は、もう一度翻らなきゃいけない。選ばれたからその選びを実現するという、この翻りがあって初めて「選び」が起こる。「選ばれて選ぶ」。パウロはキリストに言ってるでしょう。「キリストこれを得させんとて我をとらまえたまえるなり」(ピリピ3:2)。捉えられて取る。選ばれて今度は選ぶ。すなわち他力と自力が完全に一つになる、とでもいうことになるのです。選びにおいて選びとる。今日やったことに満足しない。もう明日は新しく選びとる。……昨日の繰り返しじゃない、去年の繰り返しじゃない。やることは同じように見えても内容がまるで違い、自覚が違うんだ。……選ばれて選びとる、捉えられて取る、知られて知る――これが聖霊の業です。(62頁)
- 聖霊の業はたくさんありますが、第一に聖霊は、信仰に入るまで、私どもが知らないうちに私どもを導いておいでになる。同時にまた、今の選びがわかってのち、聖霊は我らの内に働きたもう。「神は御心をなさんために汝らの内に働き、汝らをして志を立て、業を行わしめたまえばなり」(ピリピ2:13)。……聖霊が私どもの内に働きたもうて、他動的に、ではない、私どもの意志を奮起さしめたまいて、私どもをして御心を行わしめたもう。……聖霊というと、気狂い(*差別語でしょうが、原文のまま引用)のようになることと思うと、そうじゃない。静かに静かに、神が私どもの内に働きたもう。その御心を行わんために私どもの内に志を立て、これを行わしめたもう。こうなってくると、「選び」ということが第三段階になってきて、選ばれて選ぶ、捉えられて捉える、知られて知るという本当の意味の一致が起こって、渾然と「ひとつ」になる。これが選びという意味の転換です。どうか、最近に洗礼をお受けになった方、四十年、五十年信仰生活におられる方、私どもをも含めて一同、この福音の心底の理解ができて、そして社会的政治的な一切のことへの目が開かれるように。まず根源的には、このことが経験されるようにしたいと思います。(62~64頁)
JELA事務局長
森川 博己
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