2019年3月25日月曜日

【信仰書あれこれ】祈りを求めて


イェルク・ツィンク著『祈りを求めて』(三浦安子訳、1994年、ヨルダン社)をとりあげます。『現代への祈り――今日を生きる断想と詩編』(1977年、ヨルダン社)を改定した新版の上巻にあたります。

訳者あとがきによると本書の目的は、「いかにして日々の生活の中で祈りを――それは神の前における自己を、ということなのですが――取り戻すことができるか……祈りを基礎とした生活、祈りの中で静かに、しかも確固として営まれていく日常はどうしたら可能か」(183頁)を追求することです。

本書のエッセンスのいくつかを以下に引用します。

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祈りは覚悟のある人を求めている
  • 祈りは、可能な限り自分を直そうと覚悟している人、そして、課題が自分の能力を凌駕していると気づくや否や、自分の方を変えていただこうと覚悟している人を求めています。この、あるものを変える力。これが肝心なものですが、この力を私たちは神の霊と名付けます。これは神から来る、創造の力を持つ霊です。(39頁)

成長のしるし
  • ある人は祈りの時、何も頭に浮かんでこないと嘆きます。ずいぶん何度も試みたけれど祈りの相手が感じられない、ただ言葉を唱えているだけだ、と言うのです。事実、彼は祈ろうとするとき、自分の感覚一般は何と貧しく何と未発達なのだろう、と思えてくるのです。しかし、このことはすでに何かが成長しているしるしなのです。というのは、たいていの人間は生涯、自分の内部で起こっていることがいかに貧しく、いかに不毛かということを見もしないからです。(中略)成長とは、最初は私たちの内部で偉大なものが偉大になり、役に立たないものが不要になることであり、私たちが、それを目標とし始めることです。偉大なものに向かって体をのばし些細なものを手放す人間は、成長しているのです。(43~44頁)

キリスト者としての謙虚さの現れ
  • 謙虚な人間は……自分自身を測る尺度を自分では決めず、より大いなる存在から受け取ります。この人がキリスト者である場合は、キリストに接してこの尺度を受け取るわけです。……謙虚な人は、あれこれのタイプの人間になろうと企てたりせず、他の誰かが自己形成したその原型に従って自己形成します。……彼は、別の誰かが自分を知っていてくださることに信頼し、自分の手元にやってくる仕事に励み続けるのです。(48頁)

本当に祈る時に起こること
  • 本当に祈る人は、自分自身に関するあらゆる顧慮から解放されます。祈りは自分の魂をさほど大事ではないものとし、私たちの身の回りにいる人々をずっと大事にします。(中略)本当に祈る人は人間を見出し、自分が気にしている人々の中にキリストを見出します。(84頁)

教会の基礎と祈り
  • 教会の基礎はキリストの声と姿です。その姿はルターが言うように、ある人間が別の人間に対してキリストである時に目に見えるでしょう。教会にとってただ一つ大事なことは、教会が肉のキリストの、この地上での共同体であるということです。そして、祈るとは、この肉のキリストの中で具体的に生きることを意味します。(85頁)

頼みごとの祈りに求められる姿勢
  • 祈りが聞かれるということは、必ずしも私たちの望みが叶うことなのではなくて、私たちが神の存在と神の意志を感知し、私たちが以前より神のそば近くにいるのだと感じられるということなのです。……頼みごとの祈りが意味を持つのは、絶えず自己を統御しながら神の臨在の中へと成長していき、自分自身の意志と神の意志とを結合させるという、一生にわたる大きな努力の内部においてです。……「イエスの名において」頼みごとをするとは、イエスを証人として引き合いに出すことであり、イエスの意志と和合することであり、イエスの業と一体となること、イエスが私たちの立場に立って同じ頼みを口にできるように、私たちがイエスの立場に立つことです。(153~54頁)

人生の終わりの祈り
  • 私はかつて、自分の人生が終わりなく続くと思っていました。しかし、一刻一刻が私の終焉へと私を近づけます。どうか、私に私の死の時の準備をさせてください。(中略)多くの混乱を、私は過去に置き去りにしてきました。多くの争い、愛のない数々の仕打ち、心の冷たさを。どうか私の罪を赦し、すべての人々を赦す時間を、私に与えてください。(159~60頁)

イエルク・ツインク氏は2016年に生涯を閉じました。彼が死の前年に著した本の和訳が最近出版されました。『わたしは よろこんで 歳をとりたい』(眞壁伍郎訳、2018年、こぐま社)です。きれいな写真を多数配した滋味深い作品であり、推薦いたします。

JELA理事
森川博己

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2019年3月5日火曜日

【信仰書あれこれ】惜しまれる生き方


デイヴィッド・ブルックス著『あなたの人生の意味――先人に学ぶ「惜しまれる生き方」――』(夏目大訳、2017年、早川書房)をとりあげます。

表紙折り返しに以下の記述があります。
  • ニューヨーク・タイムズ≫の名コラムニストが10人の生涯を通して語る、生きるための道しるべ。
  • 人間には2種類の美徳がある。「履歴書向きの美徳」と「追悼文向きの美徳」だ。つまり、履歴書に書ける経歴と、葬儀で偲ばれる個人の人柄。生きる上でどちらも大切だが、私たちはつい、前者ばかりを考えて生きてはいないだろうか?
  • アイゼンハワーからモンテーニュまで、さまざまな人生を歩んだ10人の生涯を通じて、現代人が忘れている内的成熟の価値と「生きる意味」を根源から問い直す。
  • エコノミスト≫などのメディアで大きな反響を呼び、ビル・ゲイツら多くの識者が深く共鳴したベストセラー。

著者はこの本を、「自分の心を救うために書いた」(本書13頁)と言っています。以下に中身の一部をご紹介します。

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人生からの問いかけに応える
  • 「大事なのは、私たちが人生に何を求めるかではない。人生が私たちに何を求めるかだ」。フランクルはそう書いている。「私たちは、人生の意味は何か、と問うことをやめるべきだ。反対に、人生の方が日々、絶えず私たちに問いかけているのだ」。……彼は運命が自分に与えた仕事をした。その任務とはより良く苦しむことだった。……苦しみがどれほどのものになるのか、彼に決めることはできなかった。ガス室で命を落とす可能性もあったし、他の理由で死んで道端に捨てられる可能性もあった。自分がどういう目に逢うのかは選べなかったが、自分の心が苦境にどう反応するかは自分で決めることができた。(51頁)

天職のとらえ方
  • アルベルト・シュヴァイツァーは、1896年夏のある朝、聖書の「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うだろう」という一節に出会う。その瞬間、彼は呼ばれていると分かった。自分は成功していた音楽教師、オルガン奏者としての職をなげうって医療の道に進む、ジャングルの医者になると悟ったのである。天職を持つ人は、費用対効果分析の結果、その仕事に取り組むわけではない。公民権運動や難病の治療に身を捧げるのも、人道組織の運営や、大作小説の執筆に全力を傾けるのも、それで得をするからではない。……損得で仕事をした場合、行く手に困難が立ちはだかれば、その仕事をやめてしまうはずだ。ところが、天職に取り組む人は困難があるほど、その仕事に強く執着する。(55頁)
  • 道徳のために闘う英雄は、自らの名誉のことだけを考える人間とは違う。彼らの行動は自己の否定から始まる。彼らは自分の利益や名誉を否定し、辛く苦しい天職を受け入れ、与えられた仕事を全うする。彼らの行動は単に慈悲心からのものでもないし、自己満足のためのものでもない。他人のために自分を犠牲にしたという善行に酔っているわけではないのだ。それでは、英雄的な行動は長続きしない。良いことをしているという意識があってはいけない。自分は天から贈り物をもらっていて、それをもらったお返しをするために動いている、という意識でなければならない。(62頁)


誰のためにそれをするのか
  • ある人が貧しい人に靴をあげるとする。これは、貧しい人本人のためにすることなのか、それとも神のためにすることなのか。フランシス・パーキンズは、神のためにすべきだと考えた。たとえ物をあげても、もらった側が感謝するとは限らない。もし、相手の感謝を報酬のように感じていれば、感謝されなかっただけでくじけてしまう恐れがあるだろう。だが、その人のためではなく、神のためだと思っていれば、相手の態度によってくじけることはなくなる。(88頁)

自分から機会を求めて
  • ドロシー・デイが普通と違うのは、たまたま苦しい経験をして「しまった」のではなく、自ら求めていったというところだ。ごく普通の楽しみ、幸せを得ようとすればできたかもしれないのにわざわざ避けて、自分で苦しみを求めた。自分を犠牲にしても道徳的に振る舞う機会、苦しみ耐えながら他人に奉仕する機会を探して生きた。(169頁)

本書では他に、ジョージ・マーシャルジョージ・エリオットアウグスチヌスサミュエル・ジョンソンなどの人生が、キリスト信徒としての著者の視点から綴られています。

JELA理事
森川博己

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