2018年12月4日火曜日

【信仰書あれこれ】自伝的説教論


加藤常昭著『自伝的説教論』(2003年、キリスト新聞社)をとりあげます。

本書発行時点で著者は74歳。その人生のほぼ半分、38歳までの歩みを記したものです。

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自分の趣味と牧師の務めとの関係
  • 今でも自分が最も愛しているのは、やはり演劇であると思っている。ただそれだけに芝居を観に行くことを自分に禁じている。往き始めたらとことん観ないと気が済まない性癖が、日常の生活を破壊しかねないと危ぶんでいるからである。(84~85頁)
  • 歌うことと説教することとは同じだと思う。歌もまた人の心に訴え、動かし、説得する。それは単なる技巧ではなく、内面から生まれる力である。(88頁)
  • 詩は本来、そのまま朗唱された。その言葉の響き、抑揚が生かされた曲こそが優れており、それをそのように歌う。言葉、そのリズム、それに自然に結びつく音楽、それを自分の歌として体得すること、その修練は、言葉を語り生かす説教のために、どれだけ役立ったことであろうか。説教の言葉も生きた言葉として語られ、聞かれるべきものなのである。(92頁)

説教についての学び
  • (神学校)最終学年で……説教実習をした。……私は、ローマの信徒への手紙第1章17節について説教させられた。……実際に語った時の原稿が残っている。批評の言葉が加えられている。そのひとつは、ルターとニグレンの引用が重要なところで用いられていることである。なぜ大切なところで、権威あると思われる神学者の引用に逃れて、説教者自身の言葉でメッセージを語ろうとしないのか、という批判である。これは、痛烈な批判である。忘れることができない言葉となった。(156頁)
  • 私は……全文を書いてからメモを作るという説教学の教えを守らなかった。そうすると一度書いた文章を再現することに心を奪われるように思った。そこで、メモを書くだけで、あとは自由に語るようにした。メモには、説教を語る順序、そこで語るべきことの要点、引用する文章、言及する人名、地名を書き留めておく。それ以上の詳細な表現も、いろいろ考えはするが、記録しない。……これは新しい経験であった。言葉に乱れが生じ、くどくなったりする。しかし、言葉が生きてきたことは確かであった。聴き手の反応が分かり始めた。(169頁)

キリスト教とお盆
  • 私の母は、植村正久から洗礼を受けてはいたが、その母に育てられた家には仏壇があった。毎朝、小さな器に米飯を盛って備え、灯明を灯して鉦をチンと鳴らしていた。……子どもたちは、母の行為をからかい、偶像礼拝を捨てきらないと批判した。……私も納得できず、あるとき、母にその真意を問うた。母は、こんなことを言った。……仏壇に位牌がある故人は、仏教信仰を持って死に、仏式で葬られた。死んだ後にも自分が、その信仰に従って供養されることを願いつつ死んだのではないか。それを裏切るわけにはいかない。独身時代に洗礼を受けた時、自分が結婚した後の家庭で、どれだけ自分の信仰を重んじてもらえるか、絶えず問うたそうである。……自分がキリスト者としてそう願うのであれば、他の信仰に生きた人々もまた、同じように重んじてあげたい。お前たちの代になって、仏壇が消えても仕方がないが、暫くは、こうしてあげたいのだと言ったのである。(182~183頁)

伝道を始めた頃から現在まで持ち続けている問い
  • 金沢で伝道を始めてすぐに……私の心の中に生まれた問いがある。今でも残り続けている問いである。それは、ごく素朴な問いであるとともに、教会のありようを問う基本的な問いである。(中略)教会堂に身を運び、日曜日の午前10時から昼までの時間を私たちと共に過ごし得るということ、これは自明のことではない。この場所と時間を確保するために、皆それぞれに戦っている。しかし、それができない人々には神の言葉は届かず、神の恵みは及ばないということであろうか。その上に、石川県下に教会堂もない町村はたくさんある。曜日を問わず、毎日のように集会を開いてもよいのではないか。神の救いは、日曜日午前の教会堂というところに限定されるのであろうか。伝道者である牧師は、主日礼拝に説教していればそれでよいのであろうか。すべての者に聖日厳守を求めるべきであろうか。私が抱き続けている問いは、これである。(191~194頁)

大好きな演劇鑑賞を、本来の務めをおろそかにしないために禁じているという厳しさ。最後の「問い」には、著者の伝道者魂を感じさせます。

JELA理事
森川博己

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【関連リンク】 

【信仰書あれこれ】思い出の植村正久

斎藤勇著『思い出の人々』(1965年、新教出版社)をとりあげます。

著者は英文学研究の第一人者であり、植村正久に薫陶を受けたキリスト信徒です。植村正久は、内村鑑三と同時代に生き、日本のプロテスタント・キリスト教の礎を築いた巨人です。

本書には、内村鑑三、新渡戸稲造高倉徳太郎羽仁もと子など、錚々たる人物との著者の交流が記されていますが、以下では、植村正久に関する部分のみをご紹介します。

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羽仁もと子の植村正久への感謝
  • 植村に対する羽仁夫人の尊敬や追慕の心は、(彼女の)『著作集』第14巻「半生を語る」の中に記されている。「先生は……数年に渡って、毎週一度私たちの家で熱心な集まりをしてくださった。……私たちはそのおかげで、本当に唯み名を崇めるために自分たちはあるのである、唯み国を来たらせるために働くのである、ということが初めて真実、自分のいのちになったのである」。自由学園創立の動機もここにあったであろう。(50~51頁)

植村正久の働きの広さ
  • 植村正久は、富士見町教会の牧師として、東京神学社(東京神学大学の前進)の校長として、また『福音新報』の主筆として、優に三人分の劇務を全うした。しかもそのいずれもが、精力絶倫な偉人でなければ到底なし得ない大きな事業であった。彼はキリストの福音のために事を計れば必ず聡明、実行においては常に不屈不撓、日本におけるキリスト教会の基礎を据えた英傑であった。しかもそれと同時に、細心な注意と真心から出た同情とをもって、一々の魂を数知れぬほど夥しく教え育てた大牧師であった。(203頁)

植村正久と説教
  • 説教がただ文学としての価値を目安として読まれるべきものではないこと、もちろんであります。しかし、偉大な説教には文学としても不朽の価値を有するものが少なくありません。したがって文学的価値が高いということは、その説教者が文化人としても優れた功績をあげた人である、ということになります。そして植村先生は、明治から大正にかけて、我が国における最大文化人の一人であります。(228頁)
  • ある日曜の朝、この富士見町教会で私も伺った説教の初めに、「今朝は他のことを話すつもりで来たのであるが、先ほど礼拝に出て来た人の顔を見て、まったく別の違った話をする気になった」という意味のお断りがあったこともあります。そういう時は、一匹の迷える羊を思う牧者としての熟誠が自ずからほとばしり出た説教となったのであります。(231頁)
  • 1899年の『福音新報』には、説教者の心得とすべき一文が載っております。それは、リチャード・バックスターという英国清教主義牧師のことを書いた短い文章です。「彼の講壇に上るや、前進の能力と同情とを悉く注ぎだし、自らも燃ゆるばかりの熱心になりて、而して後に聴衆をも燃ゆるばかりの熱心とならしめんことを願えるという。彼自ら己が説教の状態とその目的を真率に語って曰く、……I preached as never sure to preach again, And as a dying man to dying men.……もう二度と説教する機会があるまいと思って、死にかけた人が死にかけた人たちに対してするように説教した、……先生もこの覚悟を持って命がけの説教をした方であったと思います。(231~233頁)
  • バックスターに関する文章の続きはこうです――「今日の教会において、甚だ嘆かわしく思わるるは、講壇の調子の衰えたることなり。美わしき説教や面白き説教はこれあらん。されど真に人の心に迫った悔改を促し、そのうなだれたる霊を励まし、憂い悲しめる者に限りなき慰藉を与うる力あるものは稀なり。その原因は要するに説教者自ら熱する所なく、特に主張せんとする思想を懐かず、深く罪悪と戦いてこれを悔改する経験乏しく、基督の恩寵に生活するの味わいを知らざる者多きにありと言わざるべからず。(233頁)

植村正久については十巻近い著作集や全集も出ていますが、手ごろなもののとしては、『日本の説教2 植村正久』(2003年、日本キリスト教団出版局)や斎藤勇編『植村正久文集』(岩波文庫)があります。

JELA理事
森川博己

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