2018年5月31日木曜日

【信仰書あれこれ】神秘主義への手引き

19~20世紀に生きた神秘主義研究の泰斗、イブリン・アンダーヒルの『内なる生』(金子麻里訳、2017年、新教出版社)をとりあげます。

この本は、1926年に英国国教会リバプール教区の司祭たちに向けて、アンダーヒル女史が行った三つの講話を文字化したものです。英国国教会の聖職者(当時は男性のみ)に向けて女性の平信徒が霊的生活について語った初めてのケースであり(本書136頁)、この分野で女史の信望がいかに厚かったかがわかります。

以下に中身を少しご紹介します。

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  • 神秘主義と実践的宗教との関係
人は神秘主義について、あたかも実践的宗教とは異なるもののように語ります。しかし、現実問題としては、神秘主義はすべての実践的宗教に奥深く激しく脈打つ心臓であり、そこに僅かながらでも触れたことのない人は誰も、人の魂を感化し、神へと勝ち取ることはできません。神秘主義とは何か。それは最も広い意味において、宗教の中心的関心であるこうした「永遠的実在」と触れるべく「魂が外へと向かうこと」です。そして神秘的生とは、こうした信仰の対象を「生きた現実」へと変える、「愛と祈り」によって徹底された生活です。その「愛と祈り」は、神へと向けられた神ご自身のためのものであり、私たちの何らかの利害のためではありません。それゆえに、すべての真なる聖職者の内的生のうちに、何からの神秘的な要素が確実になければなりません。(41頁)

  • 聖職者にとって最重要な事柄
明白な事実から始めましょう。職業的に、宗教の真理を教え体現し、神の知識を広め、他の魂に寄り添うことに関わる者として、自らの個人的な霊的生活の問題こそが、皆さんにとって最も突出した重要な重みをもつという事実です。……宗教の伝道者として、まず何よりも必要なことは、自身の内なる生活が健全に保たれ、自らの神とのふれあいが堅実で、真実であるべきだということです。(中略)他の誰よりも宗教に関わる者こそが、ジョージ・フォックスのいう「万物を普遍なる光のうちに見る」わざを学び、それを習慣の水準へと高めていかなければなりません。(11~12頁)

  • 聖職者が一般信徒に与える影響の大きさ
あなたがいかなる人物であり、神との関係がいかなるものであるか、そのことが、あなたが訪ね、説教し、共に祈り、そして聖餐を授ける人びとすべてに影響を与えるべきであり、また与えることになるでしょう。というのも、そのことが、教会に参列する人びとにとって「霊的経験である礼拝」と、「慣れきった言葉が形式的に並べられた礼拝」との間に違いを生み出すからです。……皆さんがいかなる人物であるかは、ご自身の祈りによる密やかな生活によるものです。つまり、「神の実在」にしっかり向いているか。それが問われるのです。(19頁)

  • 神の愛の感染
私が意味する「内なる生の質」とは、過酷な集中や緊張によって特徴づけられるものではありません。むしろ、聖人たちの中でも、最も愛情深い人びとのうちに見出だされるような、謙虚で穏やかな献身のことをいうのです。またそれは、感染力のあるキリスト教徒を生み出す質を意味します。つまり、皆さんから人びとに、神の愛が「うつる」ようにさせる質です。なぜなら、皆さんが神の愛に感染しているならば、つまり、皆さん自身がその愛、歓喜、平安を、そしてその聖別された生の究極の喜びを感じているならば――教会における礼拝のあらゆる儀式的行為が、皆さんの魂からの自由かつ自発的な賛美に満たされるほどまでに感じているならば、人びとはその神の愛をもらわずにはいられないからです。(20頁)

アンダーヒルの著作のうち日本語で読めるものが他に二冊あります。『実践する神秘主義――普通の人たちに贈る小さな本』(金子麻里訳、2015年、新教出版社)『神秘主義――超越的世界へ至る途』(門脇由紀子他訳、1990年、シャプラン出版)です。前者は、本書と同じ訳者による全訳ですが、後者は四人の学者が原書の約半分を訳したものです。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年5月28日月曜日

【信仰書あれこれ】キリスト教霊性の現代の名著

2000年4月に、当時のJELA事務局長(米国人宣教師)が英語のキリスト教書を一冊くれました。”Celebration of Discipline –The Path to Spiritual Growth” written by Richard J. Fosterです。初めて目にする著者名でした。初版の発行は1978年です.

この欄で紹介した『牧会者の神学』の著者ユージン・ピーター
ソンの推薦文が裏表紙にあります。「雨の日に子どもが屋根裏部屋を探し回って、宝物をたくさん見つけ、きょうだいに知らせるように、リチャード・フォスター は、現代では忘れ去られてしまった霊的訓練の数々を発見し、興奮しながら私たちに教えてくれます。それらは、彼が説くように、喜びを得るための道具であり、成熟したキリスト信徒としての霊性と豊かないのちへの道程となるものです。(森川訳)

6年後にようやく日本語訳が出ました。『スピリチュアリティ 成長への道』(リチャード・J・フォスター著、中島修平訳、2006年、日本キリスト教団出版局)です。

概要については、黒木安信氏が『本のひろば』2006年12月号に寄せた書評がわかりやすいので、右からご覧ください。→ 黒木氏の書評

以下から本書のエッセンスを感じ取っていただければ幸いです。

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  • 自分の意志や決意の力で人格の内面を変革しよう、ということに絶望したなら、素晴らしい悟りへの扉を開いたことになる。すなわち、われわれの内面の義、正しさは、神からの贈り物であって、神の恵みによって受け取れるものだ、という洞察である。……内面の仕事は、ただ神のみが内側から働くことができるのである。(18頁)
  • この息をのむような教えを把握した瞬間に、われわれはすぐさま逆方向に向かうという誤りを犯す危険性に直面する。われわれができることは何もない、と信じてしまう誘惑である。……ただ待つのみ、というのは誤った結論である。……神の恵みを受け取る一つの手段として、神はわれわれに霊的生活のための訓練をくださっているのである。この訓練によってわれわれは真っ直ぐに神の前に自分を置くことができるようになり、神はわれわれを聖化し変貌させてくださるのである。(19頁)
  • 使徒パウロは言った。「自分の肉のために撒く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために撒く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ6:8、新改訳聖書)と。農場経営者が穀物を成長させようとしても不可能である。穀物の成長のための正しい環境をつくることができるのみである。……霊的訓練も同じことである。霊的訓練とは「御霊に撒く」ことなのである。……霊的訓練がわれわれを、神が働いてわれわれを変貌させることができる場所に置くのである。(19頁)
  • 注意すべきことは、これら祝福された霊的訓練を、魂を殺してしまう律法の一つに変えてしまうことも可能だということである。……霊的訓練を熱心に求めるあまり、それらの訓練を主イエスの時代、律法学者やファリサイ派が陥っていた外面の義に変えてしまうのは、容易なのである。……人格の内的な聖化や変貌は神の業であってわれわれの為し得ることではないと純粋に信じるなら、他者を支配する願望は消えるであろう。(21~22頁)
訳者はフラー神学大学院における著者の後輩です。著者と面識があり、著者の人柄を「神に触れられ、神に触れている人」(268頁)と記しています。

本書はキリスト教霊性の名著としてミリオンセラーを記録していますが、翻訳もドイツ、フランス、スペイン、デンマーク、ポルトガル、アフリカンズ、ロシア、韓国、中国を含む15か国でなされているとのことです。

リチャード・フォスターには有益な書籍が多数あるのですが、和訳されているのは本書だけです。不思議です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年5月24日木曜日

【信仰書あれこれ】ことばと写真で主をたたえる

以前に「ことばと絵」で主をたたえる作品を紹介しました。今回は「ことばと写真」で同じことをしているものを選びます。『夜も昼のように』(小島誠志:文、森本二太郎:写真、2006年、教文館)です。

各ページの小島誠志氏の短い文に添えられた森本二太郎氏の写真が、実に魅力的です。その一端は、表紙の写真からご想像いただけるでしょう。

以下に何か所か引用します(言葉のみ)。写真付きの本作品はプレゼントに最適の一冊です。

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  • 新しいこと
「見よ、新しいことをわたしは行う。」(イザヤ書43:19)
神は、毎日同じことを繰り返しておられるのではありません。日毎に新しいみわざを行っておられるのです。神はわたしたちに新しい恵みを見させてくださるために、今日の命をくださっているのです。身を伸ばして、一日一日を受け取ってゆかなければなりません。(2~3頁)
  • 主の恵み
「味わい、見よ、主の恵み深さを。」(詩編34:9)
主の恵みは味わい深いものであります。これは良い、これは悪いと決められるものではありません。つらい悲しいと思われる事柄の中にも、かならず恵みは隠されているのであります。それはやがて思いがけない形で現れ、わたしたちの人生を底から変えるものになります。(22~23頁)
  • 赦しと愛
「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカによる福音書7:47)
……神はだれかを多く赦し、だれかを少なく赦しておられるのでしょうか。そんなことはありません。ただ自分がどんなに多く赦されているか身にしみてわかる人があり、自分のことをそれほどの罪人とは思わない人がいる、それだけのことであります。(48~49頁)
あとがきに作者お二人の言葉があるので一部引用します。
<小島誠志> 「初めに、神は天地を想像された」、森本二太郎さんの写真を見るとき、いつもこの言葉を思い起こします。……あらゆる夾雑物を排した、存在そのものの持つオリジナルな美しさが、けっして大げさでなくつつましく輝いています。……
<森本二太郎> ……言葉のつむぎだす世界と画像の描き出すイメージが、様々な形で共にはたらいて、心の振幅をふくらませる作用が生まれたら、それは幸いな出会いだと思います。小島先生の的確に単純化された言葉で力強く語りかけられる深い慰めの真実が、写真に新たな生命を与えて下さることに心から感謝します。
森本二太郎氏の写真を楽しみたい方には次のような作品もあります。


JELA事務局長
森川 博己

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2018年5月21日月曜日

【信仰書あれこれ】絵とことばのコラボレーション

『喜びも、悲しみも』(小島誠志:文、渡辺総一:画、2007年、教文館)をとりあげます。

小島誠志氏は様々な聖句を数行で解説する『聖句断想』シリーズを出しています。とても深いショートメッセージで、その1~4巻から、渡辺総一氏 が絵をつけた44編を一冊にまとめたのが本書です。

『聖句断想』では白黒だった絵が、本書ではカラーで示され、渡辺氏は「絵にこめた象徴的な要素も、併せて見ていただけることを喜んでいます」(本書91頁)と書いておられます。

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本書は霊的な説明と、表紙に見られるような大胆な図柄の絵(表紙の絵のテーマは「共におられる主」)の見事なコラボレーションです。次のようなパタンで構成されます。

★「一筋の心」の項(22~23頁)
聖句=御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしに与えてください。(詩編86:11)

  • <日本語解説>ひとすじの心とは神に向かう心です。試練の日も悩みの日も神に向かうのです。誘惑された時も罪に落ちた日も逃げないで神に向かうのです。……苦難のヨブは嘆きましたが、神に向かって嘆きました。怒りましたが、神に向かって怒りました。
  • <絵>表題を象徴的に描いた絵が左ページ一面に配され、その下に、”Let Me Worship Your Name with Straight Heart” という英文の説明が付されています。

このように「一筋の心」が神だけに向かう真っすぐな心だということが、聖句・和文説明・絵・英文説明で総合的に、簡潔に、そして味わい豊かに示されます。

他の項を少し紹介します(和文のみ)。

★「泣く人と共に」の項(26~27頁)
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12:15)

  • 喜ぶ人と共に喜ぶのはむつかしいことであります。苦しみの時、一緒に泣いた人が一緒に喜べるのであります。人の悲しみのそばにいること――つらいことだけれど、それが一切の始まりです。

★「富める者」(46~47頁)
富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。(マタイによる福音書19:24.<口語訳>)

  • 富とはなんでしょう。自分は良いことをしたと思う心であります。……その「富」がわたしたちを、神の国 から決定的にへだてているのです。神の国はただ神のあわれみによって、入れていただくものなのであります。えらい人はひとりもいません。(46頁)

★「最も小さい者」(58~59頁)
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25:40)

  • 「小さい者」とは……病気であったり、障害をもっていたり、挫折した人であったり、――つまり傷を負って生きている人々のことであります。そうした人々に関わることは、なんらかのかたちで重荷を負うことになるでしょう。しかしそこに踏み込まないで主に出会うことは、できないといわれているのであります。

本書の解説はどれも簡潔で、聖句のポイントをわかりやすく示し、心に迫る内容です。プレゼントすると喜ばれるでしょう。これを書きながら私も、何人かの人に贈ろうという気にさせられました。

小島誠志氏には、『朝の道しるべ――聖句断想366日』(2011年、教文館)という、文庫サイズのデボーションの本があります。こちらも充実しています。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年5月15日火曜日

【信仰書あれこれ】あわれみの表し方

ヘンリ・ナウエンのことを知ったのは20年近く前です。今回は、最初に読んだ彼の本『あわれみ――コンパッション――ゆり動かす愛』(他二人との共著、石井健吾訳、1994年、女子パウロ会)をとりあげます。

某大学教授が言いました。「ある本をまとめよ、と言われて、だらだらと本を引用するだけでは脳がない。要点を抜き出し、それをどう分類するかが頭の見せどころなんだよ」。

「脳がない」方法でこの本を紹介することになると思いますが、よろしくお願いします。

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本書の目的と中身の概要は以下の通りです。

  • 私たちの最高の理想は、最小の痛みで最大の満足を味わうことなのでしょうか。……この本の答えは「ノー」です。……ここに示される見方は、イエスが言われた「あなた方の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)という言葉に基づいています。(8頁)
  • 私たちはまず初めに、イエス・キリストにおいてお現われになったあわれみ深い神について話そうと思います。……。第二に、キリストに従う者として、あわれみ深い生き方をすることの意味を探ろうと思います。……最後に、あわれみによる祈りと活動の方法について考えたいと思います。(10頁)


鋭い問題意識が感じられる部分を何か所かご紹介します。

<奉仕の目的は神との出会い>

  • もし私たちが……仕える者としてのあり方を神ご自身と出会う方法としないなら、徹底して仕える生き方は意味がないでしょう。……私たちがこの僕としてのあり方の中心に、安らぎと慰めのすべての源である神ご自身を見るようになると、あわれみは、恵まれない人々のために善業をすること以上のものになります。(52頁)
  • ここで私たちは、奉仕とは神を探し求めるためのひとつの表現であって、個人や社会の変革をしようという望みなどではない、深い霊的真理に触れるのです。……私たちが他者に提供する援助が、達成できるかもしれない変革を主眼とする限り、その奉仕は長続きしません。結果が現われず、成功は見込めず、自分たちのしていることへの好評や賞賛が消えてゆくとき、続ける力も動機も失ってしまいます。(53頁)
  • 本物の奉仕があるところには、喜びもあります。なぜなら、奉仕の中には神の現存が目に見えるものとなり……イエスに従う者として奉仕する人たちは、自分が与える以上に多くを受けていることに気づきます。それはちょうど、自分の子どもは自分の喜びなので、その世話をするのに報いなど必要としない母親と同じで、隣人に奉仕する人たちも、自分たちが奉仕する人たちの中にその報いを見出すのでしょう。(54~55頁)

<常識の場を離れることの大切さ>

  • 共同体を、おもに何か温かく柔らかく、家庭的で、居心地がよく安全なものと理解するなら、それは神の従順な仕える者としてのあり方が現われてくるような場には決してなりえないでしょう。私たちが、共同体を第一に個人的な傷をいやすものとして作ろうとするなら、それは、他の人の痛みに連帯することを効果的に実現する場にはなれないでしょう。キリスト者の共同体の逆説は、人々が自発的に「自分の場を離れて」共に集まるところにあります。(104~105頁)
  • 自発的に「自分の場を離れる」ことの逆説は、私たちをこの世界――父、母、兄弟、姉妹、家族、友人――から引き離すように見えますが、実際はそれとのより深い一致の中にいることに気づかせるのです。自発的に「自分の場を離れる」ことは、確実にあわれみに満ちた生活へと導くものです。それは私たちを、区別する立場から他社と同じになる立場へ、また特別の場所に身を置くことからどんな場所にでも身を置くことへと私たちを動かすからです。(112頁)

ナウエンは多くの著作が日本語で読めますが、とっかかり的な情報を知りたい方には、大塚野百合著『ヘンリ・ナウエンのスピリチュアル・メッセージ』(2005年、キリスト新聞社)をお勧めします。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年5月7日月曜日

【信仰書あれこれ】日本人向けに書かれたユニークな聖書物語

中川健一『日本人に贈る聖書ものがたり――族長たちの巻』(2003年、文芸社)をとりあげます。全4巻2400頁の最初の巻です。各巻二分冊、全八分冊の文庫 にもなっています。

本書のユニークさは、「日本史からの事例(家康、竜馬など)を随所に引用しつつ、アブラハムからイサク、ヤコブ、ヨセフの四代にわたるヘブル人の歴史を解説している」(帯文)点にあります。以下にいくつか具体例を紹介します。引用されるのは日本史に限りません。

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私が示す地へ行け」 という天の声をアブラムが聞く場面への導入として、アルベール・シュバイツァー (1875~1965年)の体験が挿入されます。

  • シュバイツァーが幻に捉えられたのは、1905年のことであった。……ある夜、彼は書斎で翌日の講義の準備をしていた。……不要なものを屑かごに放り込んでいたその時、一冊の雑誌が――なんとその雑誌は誤配されたものだったという――、彼の手をすり抜けるようにして床に落ちた。開かれたページに目をやると、そこにはこうあった。「コンゴはあなたの助けを必要としている」。彼は何気なくその記事を読み始めた。そして、次の言葉が彼の心に終生消えることのない火を灯した。「中央コンゴのギボン州 では、働き人が不足している。必要は山ほどあるのに、労する者がいない。私はこの記事を書きながら、祈っている。神が、すでにこの働き人のために選んでおられるその人物の上に手を置いてくださるようにと」。……その時から、彼は自分の人生をコンゴのために捧げた。生活のすべての要素がその目的のために統合され、管理されていった。……彼は1911年に結婚し、1912年に医学博士となり、1913年に看護婦の妻とともにフランス領赤道アフリカに渡った。(30~31頁)


ある箇所はつぎのように始まります。

  • この項は、長い挿入句だと思ってお読みいただきたい。筆者はここに来るまで意図的に「神」という言葉を避けてきた。……「神」という言葉のどこに問題があるか。それを解明するためには、日本語聖書の翻訳の歴史をひもとく必要がある。専門的な議論はなるべく避け、主要な点にだけ光を当ててみたいと思う。(76頁)


これに続く10頁が、次のような事柄の説明に費やされます。(76~85頁)

  • ザビエルが日本で伝道する際に、聖書の創造主という概念をどのように当時の日本人に伝えたか。
  • 初の日本語聖書(ギュツラフ訳聖書 )と新共同訳との比較。特に、ヨハネ福音書冒頭部分の「言」(キリス)と「神」をどう訳しているか。

「初めに言があった。言は神と共にあった」(新共同訳)
「ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」(ギュツラフ訳)

  • 日本語訳聖書に「神」という語が採用されるようになった経緯。それへの中国語訳聖書の影響。中国語訳聖書には三種類の訳語(天主、上帝、神)があり、日本がそれらから訳語を採用する際に、日本で奉仕していた宣教師の教派的伝統が与えた影響。


アブラムは妻サライとエジプトに入るに際して、エジプト王パロがサライを気に入り、夫である自分を殺すのでないかと恐れ、サライが妹だと偽ります。このような環境下で、パロから後宮に呼ばれるまでサライがどんな思いでいたかを、著者は安土桃山時代のキリシタン女性、細川ガラシア豊臣秀吉の逸話によって説明します。

  • 朝鮮の役で多くの大名たちが外征していた。その隙に、秀吉はそれらの大名の妻や娘たちをしきりと誘ったことがある。……要は食指を伸ばしたということである。絶世の美女との誉れの高かった細川ガラシアも、内謁を申し付けられた。……その時彼女は死を覚悟し、正装した下に白装束を着け殿中に上った。帯の間には、密かに短刀を忍ばせ、両手をついて平伏した瞬間にそれが抜けて畳の上に落ちるように仕組んだ。……さすがの秀吉も彼女の決意を察知し、そのまま彼女を帰したという。サライも同じことを考えた。(145~146頁)


日本の歴史物語が好きな人には、本書はうってつけの聖書入門書でしょう。ただし、まだ信仰が与えられていない方は、著者の次の言葉を心にとめてください。

  • 聖書を読めば神の存在が証明されるのではないかと考えて、読み始める人がいる。しかし、その試みはほとんどの場合、挫折で終わる。なぜなのか。聖書が神の存在を証明する本ではないからだ。聖書とは、神が存在することを前提にした本である。最初の書である創世記の書き出しからしてそうである。「初めに、神が天と地を創造した」。そこには、神とは誰なのかという紹介も、どういう方法で天と地を創造したのかという説明もない。宇宙がそこに存在している。それだけで、創造主がいるという証明になっている。それが、聖書の論理である。(40頁)


JELA事務局長
森川 博己

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【信仰書あれこれ】神からの恵み・神による選び

佐藤敏夫『改訂 キリスト教信仰概説』(1992年、ヨルダン社)をとりあげます。180頁に満たない薄い本ですが、ポイントが要領よくまとめられています。

「はじめ大学の学生を念頭において書いたものであるが、求道者の入門書としてはやや難しく、信仰に入ってキリスト教を系統的にとらえてみたいという人たちに、ちょうどよいのではないかと思っている」(最終頁)と著者は書いていますが、その通りの内容です。

本書から教えられたことの一部を以下に紹介します。

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カルヴァンの「二重予定説」をご存知でしょうか? 「神は永遠の昔その憐れみから、ある者を救いへと選び、ある者を滅びへと決定した」(本書120~121頁)という教理です。

すぐに予想できるのは、「救われる人・救われない人が決まっているなら、伝道する意味があるのか」「神が愛なら、全員が救われるべきではないのか」……といった反応です。

実際、学問の世界では、「カルヴァンと同時代のヒューマニズムの神学者たちは、この教理に耐ええなかった。……アルミニュウスもその一人である。彼は、救いは信仰次第であることを強調した。神は永遠の昔、信ずる者を救うことを決定した」(121頁)という考えが現れます。

著者はこの問題を、以下のように説明します。(引用聖書は「口語訳」)

  • 宗教的真理が人間の言葉で容易に表現しえないような深さをたたえ、そのために、あえて表現すれば、非常識な、極端な意見のように見えることがしばしばある……。奴隷意志論や予定説はまさしくそういうような種類のものと言えよう(121~122頁)



  • 我々が永遠の昔から神によって選ばれているようなことは、一種の神学的思弁のように聞こえ、そのような教えに疑問を感ずる人がいるかもしれない。しかし、我々はすでに……「わたしのためにつくられたわがよわい日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」(詩編139:16b)について言及し、我々の存在が永遠の中に根拠を持つことについて語った。我々の存在が神の永遠の昔から神に知られているということが、決して神学的思弁ではなく、聖書の語るところであるように、我々の救いもまた、神の永遠の意志の中に根拠を持つものである。(122頁)



  • 聖書の思惟が典型的な仕方で遠く神の意志へと及んでいると思われるのは、(エペソ1:3以下の)次の言葉である。「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(122~123頁)


著者はこのように、聖書がどう語っているかに目を向けさせます。そして、この問題を思惟する(=考える)者が立つべき位置についても注意を促します。

  • 我々が神の永遠の決意について思惟するのはよいとして、その際気を付けねばならないのは、……神と人間との関係を観客席から眺めるような、言わば世界観的な思惟をするということではないということである。(中略)予定信仰が我々の恵みの体験と結びついているものであることを知る必要がある。我々が自己のよき業や生活によって救われるのではなく、ひとえに、キリストにおける神の恵みによって救われるとすれば、なぜ自分がこのような恵みにあずかるかは、神の選びという言葉によってしか説明のしようのないようなものである。……キリストの恵みにあずかりうるのは、まったく神の選びによるものである。この意味で、恵みの体験と選びの思想とは一つに結びついている。……人類全体に神がどんなふうに関わるかを眺めようとするような思惟ではなくて、自己のあずかっている恵みを考えるとき、選ばれているとしか考えようがないという意味での思惟である。(123~125頁)


著者の説明はゆきとどいていて、以下の点に言及することを忘れません。

  • 聖書においてはっきり言っていることは、選びということである。では、選ばれない者はどうなるのかという質問も出てこようが、それは……世界観の問いであって、それは神に委ねればよいであろう。我々にとって重要なのは、ただ、神は我々を恵みによって選ぶ、ということである。(125頁)


著者によると、現代もっとも独創的な予定説の提唱者はカール・バルトだそうで、その根底にある神学的モチーフを本書の説明に採用しているとのことです。

JELA事務局長
森川 博己


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2018年5月2日水曜日

【信仰書あれこれ】マザー・テレサの言葉の深み

本欄三十冊目は、マザー・テレサ『心の静けさの中で――カルカッタのマザー・テレサ及び共労者の黙想集――』(キャサリン・スピンク編集、森谷峰雄訳、1990年改装改訂版、シオン出版社)です。

本書にはマザー・テレサの言葉だけでなく、彼女の共労者(co-workers)や彼女の仕事に関連するその他の人々の言葉も含まれています。

以下では、マザー・テレサ自身の言葉のみを紹介します。

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  • 私の秘訣は大変単純です。私は祈ります。そして祈りを通してキリストの愛と一体になります。そして彼に祈ることは彼を愛することになるのです。……世界のスラムにいる私の貧しい者たちは苦しんでおられるキリスとのようです。彼らの中に神の御子は生きておられ、そして死に給います。そして彼らを通して神は本当の御顔を顕されます。祈りは私にとって、一日のうち二十四時間イエズスの御心と一体になり、彼のために、彼を愛して、彼と共に生きることなのです。(1頁)
  • 空でよく電線を目にします。……それらだけでは役に立ちません。電流がそれらの中を通って流れるまで光はありません。電線はあなたであり私なのです。電流は神です。私達には世の光を生むために、電流を私達の中を通らせて、私達を用いさせる力があります。又は私達は使われるのを拒み、暗黒が広がるのを許すことができます。……あなた方の各々が聖くなり、神の愛があなたが行く所は何処でも広がるように祈ります。彼の真理の光がすべての人の生活にあり、神があなたと私を通して世を愛し続けることができるように。(7ページ)
  • 祈ることが難しいときこそ祈るように努めなければなりません。最初に用いる手段は静けさです。というのは、祈りの霊は非常に深い沈黙の霊であるからです。私達はもし内的及び外的沈黙を実践しないなら、神の現存に直接身を置くことはできません。……静かな祈りの中で多く受け取れば受け取るほど、私達は……それだけ多く与えることが出来るのです。(28~29頁)
  • 聖性は少数者のぜいたくではありません。それはあなたと私との単純な義務なのです。……私達の聖性が進展するには神と私達自身が係ってきます――神の恵みと、聖になろうとする私達の意志が係ってきます。私達は聖性に到達しようとする、真の、生きた決心を持たなければなりません。……心から神に満たされたいと思うなら、私達の中にあるあらゆる利己的なものを謙遜によって取り去らなくてはなりません。……神があなたに与えて下さるものは何でも受け取り、彼があなたから取り去って下さるものは何でも彼に渡すなどして、神の恵みがあなたの霊の中で働くように心掛けなさい。真の聖性は神の意志を笑顔で行うところにあります。(36~37頁)
マザー・テレサの本はどれも霊的で深い内容に満ちていますが、手に入れやすいものとしては、『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』(ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳、2,000年、PHP文庫)をお勧めします。

JELA事務局長
森川 博己


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【関連リンク】

2018年5月1日火曜日

【信仰書あれこれ】村岡花子のエッセイ集

村岡花子『曲がり角のその先に』(2014年、河出書房新社)をとりあげます。いろいろな雑誌に発表されたエッセイをまとめたものです。

著者は『赤毛のアン』を日本に紹介した人物。書名は、同書の終わり近くに出てくる、次のシーンからとられています。

年老いたマリラの視力に大きな問題が出てきました。事情を知ったアンは、家から通うには遠すぎる大学の奨学金を辞退することにします。孤児の自分を育ててくれたマリラを一人ぼっちにはできないからです。一方マリラは、やさしいアンが一緒にいてくれるのは嬉しいものの、将来の夢を捨ててまで自分に尽くそうとする姿に、やるせない気分になります。そんなマリラにアンはこう話しかけます。

「マリラ、この一週間というもの、ずっと考えていたのよ。私はここで生きることに最善を尽くすわ。そうすれば、いつかきっと、最大の収穫が自分に返って来ると思うの。クィーン学院を出た時は、私の未来は、まっすぐに一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がった向こうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。」(松本侑子訳『赤毛のアン』集英社文庫、441頁)

『曲がり角のその先に』から、花子のキリスと信仰をうかがわせる二つのエッセイをご紹介します。


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●「こわされた時間表」(本書41~43ページ)初出1940年

若い教師が、一晩かけて作り上げた教案を手にクラスに臨みます。そして、今日の一時間でここまで教えようと、元気に黒板にチョークを走らせます。その時です。「先生!」と、もみじのような手が上がり、何日も前に教えたことを訊くのです。(まだ、わかってないの、と舌打ちしつつ)計画どおりに教えたい気持ちを抑えて、他の生徒に説明させようとしたところ、その子の受け答えも要を得ません。教師は仕方なく、一時間全部をこの問題に費やします。計画はおじゃん。著者は次のようにエッセイを締め括ります。

「もし、あの無邪気なる一人の少女が手を挙げなかったとして、計画どおりに教案が進行したとしたら、それは何と、土台の薄弱な知識であったろう。その前に、必要な土台石がまだ据えられていなかったのだ。その朝の学科は「砂の上に建てられた家」(森川注:マタイ福音書7:24~29参照)と成り果てるところであった。破られた計画、私たちの時間表をこわす邪魔、その邪魔の中にもまた、意義が潜んでいる。」

●「一つの心境」(本書57~58頁)初出1953年

中世の寓話――神が一人の天使に、悪魔の持つ数々の誘惑をとりあげてしまうように命じます。天使は悪魔のところに下り、人間を惑わすために用いた誘惑をすべてとりあげると宣告します。これに対して悪魔は、すべてを返納するが、「悲観」という極めて小さい、つまらなくて何の害にもならない個人的な誘惑だけは、持たせておいてほしいと嘆願します。天使は、悲観が単なる個人的な心境であり、積極的な害を生み出すものでないと判断して、悪魔の求めに応じます。

これに続けて、著者は「悲観」の本質を次のように説きます。

「悲観につづくものは憂鬱と頑固と怠慢と不勉強と、あらゆる不愉快、有害な生活態度である。……希望を失うところにさまざまな悪が入り込んでくる。無気力になり、非協力的になり、恨みと怒りと嫉妬と、その他すべての不愉快な人情が生じてきて、そして我々の住んでいる社会を住みにくい、文化性のない、低俗なものにするのに拍車をかける。(中略)希望なき時代ということをしばしば耳にし、また口にするものだが、それは軽々しく言ったり聞いたりできない重大な意義を含んでいる。希望なき時代たらしめないためにこそ努力しなければならない、得々として絶望を叫んでいるべきではないと思う。」

河出書房新社からはもう二冊、『腹心の友たちへ』『想像の翼にのって』という村岡花子のエッセイ集が出ています。『曲がり角のその先に』と同様に、『赤毛のアン』ファンにはおなじみのフレーズです。

JELA事務局長
森川 博己

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【信仰書あれこれ】苦しみや悲しみの意義

堀肇著『新版 こころの散歩道』(1998年、新版は2008年、いのちのことば社)をとりあげます。本書の内容は、「本来キリスト教信仰とは何か、教会とは何かを神学的問題としてではなく、日常生活から吟味するものとなっています」(帯文)

悲しみや苦しみの意義を考えるエッセイを三つご紹介します。それぞれが意味を補完し合っています。

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<喜びと悲しみは共に>
  • 問題を取り除きたい、解決したいとの願望があるということは、心のどこかで苦しみや悲しみというものは人生に邪魔なもの、悪いものだと考えてしまっている部分があるのではないか。(26頁)
  • 普通、私たちの人生態度は問題解決先行型なのです。これは仕事の上では結構なことで、そうしなくてはならないのが人間の生活です。ところが、……人生全般に対してこういう態度一辺倒ですと、苦しみや悲しみがやってきたとき、それと同じように、とにかく解決したい、取り去りたい、とばかり考えるようになってしまうのです。それがどんな意味を持ち、価値をもっているかというようなことにあまり頓着しないで、悪いものとして退けてしまいます。(27頁)
  • 信仰も問題解決型になりますと、幸せや喜びだけを歓迎し、苦しみや悲しみを退け、両者を切り離してしまいます。これは本来のキリスト教信仰とは言いがたいものです。(27頁)
  • 喜びと悲しみは仕方なく同居しているのではなく、本当に深みのある霊的な世界では、それらが調和的に存在しているように思えます。というより、実はこの二つはお互いを必要としていると言っていいかもしれません。つまり、本当の喜びは悲しみを通して現れてくるということです。(28頁)
  • 悲しみや苦しみというものを迷惑なもの、あってはならないものとして取り除こうとするならば、実は喜びも失うようなことになるのではないでしょうか。……イエスも「私の喜び」(ヨハネ15:11)と言われた喜びを十字架の苦しみを通して私たちに与えられた、という事実を心に刻んでおきたく思います。(29~30頁)
 <傷はあってもいい>
  • 人間は自ら痛むという経験がなければ、対人行動が奇妙で不可思議なものになってしまう可能性も出てくる……。ソロモンは『箴言』の中で、「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようなものであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」(25:20)と言って、人の心の痛みに対する無感覚を戒めています。(37頁)
  • 信仰というものは一つ方向がずれると、悩みの解決ばかりに焦点が置かれ、祈りにしても、癒され、解放されること、つまり苦痛の除去ばかりを求めるものになる可能性が出てくる……。(37~38頁)
  • 傷の痛みとは苦痛を伴うものですが、それは必要な、また健康な感覚であるということ、そして信仰はそういう感覚を無視したり軽視したりするものではないということです。むしろ信仰をもつということは痛みの現実をよく知り、その苦痛に共感できるようにされていくことではないかと思うのです。(39頁)
<摂理の秘密のうちに>
  • 人生の問題は、どんな種類のものであっても、そこには何らかの哲学的、宗教的(霊的)意味合いが含まれている(中略)。あまり原因や理由ばかり追求しないように……それをしますと、最後にはだれかを犯人にしないと落ち着かなくなるからです。それより、今この出来事が起こっている意味を考えて見ること、クリスチャンならば、神がこの出来事の中で何を語ろうとしておられるかを祈りの中で黙想し、洞察を深めることをお勧めする……。(43~45頁)
  • 出来事に対する意味についての洞察が深まりますと、それまで問題であると思っていたことが、あまり大したことではない、憎らしいと思っていた人が本当はいなくてはならい大切な存在なのだ、と思われてくるような瞬間が、突然に、あるいは徐々に訪れてくるのを体験することがあります。……それこそパスカルが言う「摂理の秘密のうちに隠されている分別」であり、本当の意味の解決である、と言っていいのだと思います。(45~46頁)
それぞれのエッセイ中に、関連聖句や別の信仰書からの引用があり、学習を深めるのに役立つ配慮がなされています。

JELA事務局長
森川 博己

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