2018年1月31日水曜日

【信仰書あれこれ】吉永小百合さんに差し上げた本

私が関わった20年近いJELAの仕事の中で「私が出会った有名人ベストスリー」は、王貞治さん・緒方貞子さん・吉永小百合さんの三人になります。王さんには九州出張時に羽田空港のレストランで、緒方さんには難民支援関連のイベントで、そして吉永さんにお目にかかったのは、キャロル・サック宣教師がハープで吉永さんの原爆詩朗読の伴奏をした時でした。

吉永さんから親しく声をかけていただき、お菓子やお茶を頂戴しての別れ際に、私は選びに選んで持参した一冊の本をプレゼントしました。それがきょう紹介する『祈るように生きる ― マザー・テレサと共に』(片柳弘史著、2015年、ドン・ボスコ社)です。

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改めて著者の略歴を見て驚きました。片柳さんは1971年生まれのカトリック司祭なのですが、三つの幼稚園の園長補佐を経験しておられ、そのどれもが「(地名)小百合幼稚園」となっています。吉永小百合さんに本を差し上げるときはまったく意識していませんでした。なんと嬉しい偶然でしょう。

本書は、「祈るように生きる」ために、日々の生活に関わる所作・行為のうち、「聞く・話す・見る・ほほ笑む・泣く・呼吸する・食べる・歩く・着る・持つ・掃除する・育てる・働く・休む」という14項目をとりあげ、祈りという観点からわかりやすく説明しています。

全体を貫く著者の姿勢は、「生活のすべてを、神への愛のゆえに、神の手にすっかりお委ねすること……私たちの人生そのものを、神の前に差し出していくということ……神が受け取ってくださるかどうか、それは誰にもわかりません。ですが、必ず受け取ってくださると信じて捧げ続ける。それが、生活を祈りとして神に捧げるということです。」(本書9頁)というものです。ローマの信徒への手紙12章1節をわかりやすく説いていただいたような思いになります。

各章の終わりに、生活を振り返るための質問が三つずつ、答えを書き込む空白と共に示されています。私がいったん読むことをやめ、考えさせられたのは以下の質問でした。
・ これまでの人生の中で、祈るような気持ちで誰かを見つめたことがあるでしょうか?
起こった出来事の意味を、静かに思い巡らす時間をとっているでしょうか?
私たちの笑顔は、イエスと出会った喜び、福音の喜びを伝えているでしょうか?
「どんな人の中にもイエスが住んでいる」と感じたことがあるでしょうか?
苦しいのは自分だけと思い込み、イエスの苦しみを忘れてしまうことがないでしょうか?
日々の生活の中の出来事一つ一つを、ゆっくり味わっているでしょうか?
一日一日の歩みを神に委ねているでしょうか?
私たちの持っている物は、本当に「なくてはならないもの」でしょうか?
私たちの仕事は、誰のために捧げられた仕事でしょうか?
私たちの仕事は、愛によって織り上げられているでしょうか?
私たちと出会った人は、私たちからどんなメッセージを受け取っているでしょうか?

長崎での朗読会のあと、吉永小百合さんと交流する機会はないので、この本をお読みになったかどうかわかりませんが、少しは目を通されたのではないかと思っています、何と言っても吉永さんは真面目なお方ですから。

以上、吉永小百合さんがお読みになっているかもしれないこの本を、皆さんにもご紹介しようと思った次第です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年1月30日火曜日

【信仰書あれこれ】宣教師と信徒の心に沁みるやりとり

今回は生前お付き合いのあった方の本を採り上げます。『正義と愛 ― ある弁護士の生活と祈り ― 』(石原寛著、1985年、聖文舎)です。故・石原先生には長年JELAの法律顧問をしていただきました。

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昭和25年に東大法学部に入学した当時を振り返り、天下を取ったような心持だったと著者は述懐します。ところが大学一年の終わりころに肺結核を患い入院。退院するまでの一年間に、お父様や親密なご親族の相次ぐ病死、近所の大火による実家の焼失など、大変な経験をなさいます。

その少し後に、生涯の恩師であるヌーディング宣教師との出会いが起こります。著者はその出会いの意味を次のように記します。

「もし、私にこの二十歳の時の打撃がなかったならば、東京の麹町一丁目にある先生のお宅を通りかかったとき、この(教会の)看板が目に触れなかったであろうし、たとえ触れたとしても、中に入ってみようとは思わなかったであろう。そして、先生を通して語られた聖書の言葉は、決して私の身体に沁みこまなかったであろう。……私は、この二十歳の時の不幸を、いま神様の賜物と思い、感謝でいっぱいである。」(本書12頁)

すばらしい出会いです。しかしそれ以上に、私がこの本でぜひとも紹介したいと思っているのは、次のエピソードです。

著者は司法試験に受かり裁判官になるか弁護士になるか迷い、先輩の勧めもあり裁判官の道を選ぶのですが、志望と異なり任地が奈良だったそうです。関西に縁がなく、未知の土地での生活の不安と、自分の希望が聞き入れられなかったことへの強い不満から、どうすべきかヌーディング先生に相談に行かれたとき、こんなやりとりがあったというのです。

「先生は、私の不満を静かに聞いてくださり、私が話し終わっても、しばらく黙っておられたが、最後に、片言の日本語で、ポツリと言われた。『でも、そこは、日本ですね』。
先生は、敗戦後の焼け跡の我が国に、故郷アメリカを離れ、遥か太平洋を越えて、やって来られたのである。そして、言葉も通じず、生活環境も異なる、当時はまだ未開発同様の国であったこの日本に、使命に燃えながら、不自由を忍んで暮らしておられたのである。私は、この言葉を聞いた時ほど、恥ずかしい思いをしたことはなかった。私は、この時、自分のいやしさ、みにくさを、いやというほど思い知らされ、それこそ、目のうろこが落ちた思いがした。『そこは、日本ですね』という先生の言葉が、今でも耳の底に残っている。」(本書71頁)

この箇所を読むといつも涙が湧いてきます。キリストの福音を伝えたいという宣教師の一途な思いと生き方、それを心から理解し、自分の狭量さを正直に反省する著者、二人の心の交流が読む者に迫ってくる文章です。

JELAの職員であることで、生前の石原先生と少し交流を持てたことを神様に感謝する次第です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年1月24日水曜日

【信仰書あれこれ】誰かにプレゼントしたくなる本

 クリスチャンに贈りたい本と、ノンクリスチャンに贈りたい本がありますが、これから紹介する『信じる力 ― 大切なあなたに贈ることば』(岡田武夫著、2013年、オリエンス宗教研究所)は、そのどちらにも当てはまる本のような気がします。

著者は2000年9月3日から2017年12月16日まで、カトリック東京大司教を務めました。東京外大ロシア語科を中途退学して東大法学部に入りなおし、一般企業でしばらく働いた後、カトリック司祭を目指して退職。神学生として上智大学で哲学、神学を修め、ローマのグレゴリアン大学で神学博士号を取得しています。

本書はおもに、2011年3月の東日本大震災の前後の数年間に語られた説教をとりあげ、それらを、四つのテーマ「望み、慈しみ、幸せ、つながり」で分類しまとめたものです。それぞれの話は5ページ前後と短く読みやすいのですが、内容的には深いものがあります。以下に概要と中身の一部をご紹介します。

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前書き・後書き部分から読み取れる著者の信仰姿勢や本書を著した意図は、次のようなものです。
宗教者の使命は、困難な中に生きる理由を示し、勇気と希望を示して、苦しみ悲しむ人々と共に歩み、人々への救いの道を示していくこと。
信者にとっては何よりも、イエス・キリストご自身が最高の信仰の模範。
これまで自分が感じてきた信仰の喜びを読者と分かち合い、本書が新しい希望を与える端緒となってほしい。
毎回ミサで説教するたびに、「信仰を確かめ、信仰を深め、信仰を伝える」という信者の務めに、いくらかなりとも役に立ちたいと願いながら説教を行ってきた。
困難と混迷を極める現代世界において、カトリック教会が人々のために希望と励ましのしるしとなることができるように。

最後の「カトリック教会」は、著者がルーテル教会その他のプロテスタント教会の方であれば、別の言葉が入るでしょうし、要するに著者が言いたいのは、人々にイエス・キリストにある希望と励ましを与えることこそ、キリスト教会の使命だということだと思います。

本書110頁に次のような記述があります。
「……イエスの生き方に倣うようにわたしたちも召されています。わたしたちも日々小さな死(犠牲)をささげることにより、イエスの復活とその王国にあずかることができると思います。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(マルコ8:34)とある通りです。」

つづけて著者は、死から命(=復活)への神秘を表している良い祈りとして、マザー・テレサの次の祈りを紹介します。
「イエスよ、わたしを解放してください。/愛されたいという思いから、評価されたいという思いから。/重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから。/好まれたいという思いから、相談されたいという思いから。/認められたいという思いから、有名になりたいという思いから。/侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから。/非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから。/忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから。/からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。/アーメン。(岡田武夫・訳)」(本書110-111頁)

読み終わった後に、キリストにある喜びと力を感じる一冊です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年1月19日金曜日

【信仰書あれこれ】信仰生活の原点に返る

私は一般信徒ですが、説教の準備・仕方、あるいは牧会のあり方などについて書かれた本を読むのが好きです。中でも特に有益だと感じている一冊、ユージン・ピーターソン著『牧会者の神学―祈り・聖書理解・霊的導き―』(越川弘英訳、1997年、日本基督教団出版局)をご紹介します。

本書の意義については、神学者・加藤常昭氏による帯文に要領よく記されているので、全文を引用します。
「10年前(*1987年)、刊行されたばかりの原著に触れ、激しく心を揺さぶられて以来、待ち焦がれていた訳書が、しかもすぐれた訳で刊行された。とても嬉しい。牧師職の霊的刷新を提案し、キリストの教会の霊的再生を願い、神学的洞察と実践的提案をする、著者の名声を確立した稀に見る画期的著書である。日本のキリスト教会もまた今、切実に再生を必要とする。牧師・信徒ひとしく本書の批判に身をさらし、その指し示す道に生きてほしいと切望する。」

統計上、日本のクリスチャン人口は1%(礼拝の定期的出席者数は、それ以下)とよく言われますが、私はむしろ、この本を読んで「そのとおりだ」と言える人がどれだけいるのか、ということの方が大切ではないかと思います。信仰の原点を見つめ直したり、これから神学校で学ぼうとする人に勧めたい本です。

最後にひとこと。数年前に米国ミネソタ州のルター神学校を訪れました。校内の書籍売り場には人気の高いキリスト教著作家の作品コーナーが設けられていて、ヘンリ・ナウエンC・S・ルイスと並んでユージン・ピーターソンのコーナーもありました。彼の作品が日本で数冊しか訳されていないのが不思議です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年1月15日月曜日

【信仰書あれこれ】生活を変えるデボーションと小さな勇気

毎年、1月からデボーションの本を新しくすることにしています。デボーションはキリスト教的には、「日々、時を定めて神の前に自らのこころ、たましいを静める営み」(ウィキベデアの定義)のことで、以下は、それを助けるための本の話です。

この種の本は何種類もありますが、今日ご紹介したいのは、元旦から読み始めた、エミー・カーマイケル著『日毎の霊想 主の道を行かせてください』(湖浜馨訳、いのちのことば社、1989年)です。

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一日分が一頁、短い聖書個所と、そこを霊的にとらえた著者の言葉からなっています。その日の箇所を静かにゆっくりと、コーヒーをすすりながら読むのが私の朝の日課です。

1月13日の記述の一部が特別に心に響き、教会手帳の表紙裏に書きとめました。こうすると、日々のスケジュールを確認するたびに読み返せるのです。写したのは次の文章。

「私が親切にしてあげられる人がいないだろうか。私が神のいつくしみを示してあげられる人がいないだろうか。慈愛に満ちた神よ、どのようにしてあなたのいつくしみを示したらいいのか教えてください」。

不思議なことですが、それからすぐ、この部分に重なる実践ができました。

以前から通勤のバス停で見かける男の子が気になっていました。所作や表情は子どもっぽいものの、体格や髭の伸び具合からすると二十代に見えます。彼はおとなしく、私も人見知りをするたちなので、何度もバス停で顔を合わせながら、言葉を交わしたことがありませんでした……何年も。

カーマイケルの言葉を手帳に記した日の朝、バス停に向かうと彼がいたので、勇気を奮って話しかけました。にこにこした顔で返事が返ってきたではありませんか。何らかの障がいのためか、意思疎通は簡単ではないのですが、仕事場(作業所?)に行くところらしいことはわかりました。

今朝も彼に会い、この前よりも話が弾みました。バッグから飴を取り出して一つ分けてくれさえしました。「もう友達だね」ということでしょう。終点の武蔵境駅で、「おじさん仕事行くの? えらいね」とほめられたお返しに、「がんばってね」と彼にも声をかけました。以前に比べ、彼の歩く姿に明るさがましたような気がします。

カーマイケルの本を読んでなかったらこの展開が起こりえたか、私にはわかりません。しかし、今はワクワクした毎日を神に感謝しています。新しい出会いが生まれるには少しの勇気があればよいのだ、という事実を久しぶりに体験しました。その前は……三十数年前に今のワイフにプロポーズした時だったような気がします。

皆さんの新しい出会い、ワクワクする出来事についても、メールや郵便でお知らせいただけると幸いです。ご自分が使っていらっしゃるデボーションの本の感想も大歓迎です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年1月10日水曜日

【信仰書あれこれ】祈りへの気づき

きょうは、「とりなしの祈り」(ほかの人のための祈り)の重要性を再認識させられることになった本、『ウィリアム・ローの キリスト者の聖潔』(マービン・D・ヒンテン編、棚瀬多喜雄訳、1988年、いのちのことば社)をご紹介します。


原著『敬虔にして聖なる生活への召し』(英文題の直訳)は、18世紀にウィリアム・ローが著した13万字の大著ですが、これからご紹介する本は、編者ヒンテンが原著の精髄を2万語にまとめたものを和訳したものです。

原著は出版当時、メソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーと詩人サムエル・ジョンソンという高名な二人のキリスト者に多大な影響を与えたと言われています。『ナルニア国物語』で知られ、キリスト教護教家としても著名なC・S・ルイスもこの本から大きな影響を受けたようです。

以下は、今年の正月休みに、この本から私が気づかされた事柄です。

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JELAのような組織にいると、今年は寄付が多かったとか、ニュースレターホームページで情報をたくさん提供しているのに、思ったほど寄付が集まらないとか、ともすれば寄付の額に目がいきがちです。寄付は自分たちの事業活動の原資ですから、その額が気になるのは当然なのですが、問題は、それを気にするあまり、大切なことを忘れていないか、ということです。

日本や世界で困窮している人をJELAが支援するにあたって、あるいは必要とされる支援が可能となるために、どれだけ多くの方々の祈りが自分たちの背後にあるか、常にそれを意識してきただろうか――次の個所を読んでいる時、私はそんな思いにとらわれました。

「……神はみんなが同じように幸福に至ることができるように、幸せの源(神ご自身)への道を備えてくださいました。(中略)とりなしの祈りについて考えると、私たちの愛の表現としての行為そのものは、時とお金とエネルギーの点で制約があります。具体的な物による援助は、ほんのわずかな人たちに及ぼすことができるだけです。けれども祈りを通して、私たちは無限の力を持つことになります。もしできれば実行したいと願っている愛のわざを、(とりなしの祈りを通して)神は私たち自身のわざとしてくださるからです。私たちは地球上の病人全部の世話をすることはできません。貧しい人たちをみんな助けるとか、悩みの中にいる人たちを一人残らず慰めることもできません。けれども、その人たちのために祈ることはできます。そして、そのように祈る者を、良いわざを行うものとして神は認めてくださるのです。……」(同書89~90頁)

誤解しないでいただきたいのは、上のように書いてあるからと言って、祈りさえあれば寄付などいらない、ということではありません。寄付も大事なのですが、それと同時に、いやそれ以上に、JELAの活動のために、JELAの働き人のために、そして支援を受ける一人ひとりの困窮者のために、祈りを捧げてくださる人が必要だということ、その数・量・力をもっと意識すべきだと言いたいのです。

祈りに意識的に関わる、これが私の今年の目標です。この一年、形式的でない真の祈りを、つまり、神との真の交わりを、より確かなものにしたいと考える次第です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年1月5日金曜日

【信仰書あれこれ】将棋からキリストの福音を考える

新年あけましておめでとうございます!

2017年に颯爽と登場した将棋界のプリンス、藤井聡太君の活躍は今年も続くことでしょう。そこで今日は、将棋を題材にキリストの福音を語る本、『聖書将棋談議』(相沢良一著、2000年、黒潮社。*アマゾン検索では見つからない本)をとりあげます。著者は牧師で、健在なら2017年で百歳です。

全部で87の短文からなり、以下は、「捨てる」と題された一編です。引用聖書は口語訳。◆は段落の初めを示し、読みやすさの観点から表記もごく一部を変更しました。



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◆手がゆき詰まった時、思い切ってあの駒、この駒を捨ててみて、起死回生の妙手を発見することがよくあるものだ。駒を惜しんでいるあいだは、将棋は強くなれない。大駒を惜しげもなく捨てることができるようになったら、しめたもの。◆このことは、何も将棋に限らない。人生には「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」である。◆使徒パウロは“しかし、私にとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。私は、さらに進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、私はすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている”(ピリピ人への手紙3:7~8)と述べている。◆パウロにとって“益であったこれらのもの”とは、彼が身につけていた地位であり、名誉であり、学問であり、財産であったのである。◆パウロはキリストのゆえに、それらを損、すなわち無用の長物と思い、さらに、それらをいっさい失ったが、キリスト・イエスを知る“あまりのすばらしさ”から比べてみると、それらは、ふん土のように思われたのである。◆我々は、主イエスのために、いったい何を失い、何を捨てたのであろうか。捨てるどころか、あれも欲しい、これも得たいと、この世のことに心を奪われているのではないだろうか。◆“自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私(=イエス)のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう”(マタイによる福音書16:25)とある。主のために捨てるべき、わが大駒は何か。
―『聖書将棋談議』47~48頁より

上で言う「キリストを知る」というのは、形式的理解のことではなく、聖霊によってキリストに出会わせていただく、という意味です。このようにして出会った主イエスと結ばれているために、どのような自分であることが求められているのか、キリストが忌み嫌われるものは何なのか、(日々示されているようにも感じますが)年の初めにあたり改めて吟味する必要を感じている次第です。
JELA事務局長
森川博己

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【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト