「生きる意味を求める人に! イエススの生涯と死と復活の教えるものは、『神は愛であり、愛を信じる者は永遠に滅びない』という一語に尽きる。簡潔ながら、深くキリスト教の真髄をとらえた書」(本書のカバーそで)です。本書ではイエスを「イエスス」と表記します。
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キリスト教は常に追求すべきもの
- キリスト教徒たちは、キリスト教が何であるということを一応知ってはいます。しかしなお、キリスト教とはいったい何であるか、キリスト教の本質とは何であるか、自分にとってキリスト者であるということの意味は何かとは、つねに新たに問い続けなければならない問題なのです。……キリスト教は子どもでさえ理解することができるほど単純な本質のものでありながら、最もすばらしい学者が生涯をかけて追及しても、なお知り尽くすことができないほど無限の深みを持ったものだからです。(5~6頁)
普遍的なキリスト教理解
- 本書はキリスト教に関する単に主観的な解釈を書いたものではなく、キリストに由来し、全世界に広がっている普遍的な教会……のキリスト教理解を述べようとしています。なぜなら、キリスト者たちの信仰は、およそ個人的な企てではなく、はじめにイエススを信じた弟子たち、彼らの跡を継ぐ信徒たち、世界中の普遍的な教会をなしている「神の民」の信仰に自分の心を合わせるということだからです。(7頁)
キリスト教に関する正しいアプローチ
- キリスト教の真髄は、キリストと呼ばれているイエススその人のうちにあります。ですから、もしだれかが、キリスト教とは何であるかということを知りたければ、イエススがだれであるかということを探り、なぜ人々はこのイエススをキリストと呼んでいるのかということを調べ、このイエスス・キリストが何をなしたのか、その身の上に何が起こったのかということを調べてみる必要があります。(8頁)
神の恵みと人間の決断
- 結局、信じることは神の恵みによることです。けれども、それは同時に人間自身の決断でもあります。イエススの言葉を聞いても、奇跡を見ても、聖霊の光を受けても、「信じます」と決断しなければ、信仰は生じません。ですから、信仰者とは、両手を開いて抱きしめようとしておられる神の腕の中にとびこんで、抱きついていく人と言えます。(73頁)
秘跡は心からそれを信じなければ無意味
- 真心からの信仰なしに、形式的、あるいは偽善的に秘跡を受けても、それは人間を救うものでは決してありません。新約聖書全体が信仰こそ救いの源であるということを強調しています。人間は信じるときにのみ、自分だけに頼る高慢を捨て、人をゆるしている神の愛に、自分のすべてをゆだねるのです。そのときにこそ、人間の心が自分を神の子とする神の恵みを受け入れるように開かれるのです。(110~111頁)
神の恵みの働き方
- 自分が洗礼を受けることを神が望んでおられると知らなかった人々にとっても、キリストと聖霊を通して働く神の恵みの神秘的な業のおかげで、改心と救いは可能です。すなわち、だれの心にも神がよしとされたときに働く聖霊のささやきに従って、万物の根底に限りない慈しみがあることを信じ、愛のために良心的に生きようと決心し、その決心を自分の生活の中に実現しているすべての人は、救いへの道を歩んでいると言うべきです。しかし、神はやはり、人々がイエスス・キリストにおける神の限りない愛の啓示を信じ……キリストの愛と喜びの証人として、他の人々を失望から解放し、希望と喜びと愛へ導くように努めるということを望んでいるのです。(113~114頁)
互いに赦し合うことの絶対的な大切さ
- 次のことを決して忘れてはなりません。つまり、神からゆるしを受けることの条件は、互いにゆるし合うことだということです。イエススは繰り返し、「もし人の罪をゆるすなら、あなたたちの天の父も、あなたたちをゆるしてくださる。しかし、人をゆるさないなら、あなたたちの父も、あなたたちの罪をおゆるしにならない」(マタイ6:14、15)と強調しました。……毎日、「われらの罪をゆるしたまえ」と、神に祈っている人であってはじめて、心から自分を傷つけた人の罪をゆるすことができるのです。(124頁)
著者はカトリック司祭で上智大学神学部教授を長らく務めました。著作には、聖母文庫「キリスト教信仰案内講座」シリーズや、編集・解説を担当する創文社「キリスト教古典叢書」シリーズがあります。
JELA事務局長
森川 博己
森川 博己
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