2019年12月20日金曜日

【続・信仰書あれこれ】ナウエンと読む福音書

ヘンリ・ナウエン著『ナウエンと読む福音書――レンブラントの素描と共に』(マイケル・オラーリン編、小渕春夫訳、2008年、あめんどう) をとりあげます。

表紙折り返し部分に本書の内容が次のように記されています。
キリスト教スピリチュアリティの指導者、著作家として知られ、多くの愛読者を持つヘンリ・ナウエンが、イエスの生涯、その誕生、宣教活動、受難、復活、聖霊降臨までの福音書の世界を案内。多くの著作から選りすぐった黙想で織りなすイエスのストーリーは、その独自の霊的な洞察を通して、思いもしなかった新鮮な福音の世界に導いてくれる。ナウエンの生涯に重要な霊感を与えたレンブラントの素描も併せて収録。」

◇◆◇

ナウエンはカトリック司祭でしたが、以下の部分を読めば、彼が教派を超えて多くの読者を獲得している理由がわかります。信仰共同体(=教会)について示唆に富む、真摯な考察を展開しています。関連聖句は、マタイによる福音書16章13~20節。新共同訳聖書では「ペトロ、信仰を言い表す」と題された部分です。
  • あなたがイエスに、「あなたは救い主、生ける神の子です」と言うことができるなら、イエスもまたあなたに、「あなたは岩、わたしはこの上にわたしの教会を建てよう」と言うことができます。……私たちを捕らわれの身から解放するために、救い主――油注がれた者――として神が私たちの間に来られたことに同意するとき、神は私たちの内に堅固な核を認め、私たちを信仰共同体の土台としてくださいます。私たちが「岩」であるかどうかの質が明らかになるのは、救いといやしが必要であることを告白するときです。私たちの神への依存がよくわかるほど謙遜になったときに、共同体を築く者となるのです。(91頁)
  • イエスとシモン・ペトロとの間のこの対話が、ローマ教皇の役割を説明するときだけに使われるのは、とても悲しいことです。それは、このやり取りが私たち全員のためでもあることを見逃すかもしれないからです。私たちすべては救いの必要があることを告白せざるをえない存在です。ですから私たちは、皆が堅固な核となることを受け入れるべきです(91~92頁)
  • では、御国の鍵はどうなるでしょう。何よりもそれは、イエスを救い主と告白するすべての人のものです。そうすることでそれは、神の御名で結ばれたり、解かれたりする信仰共同体のものになります。もし、キリストの体が信徒たちで形造られるなら、そのメンバーでなされる決断は、御国にかかわる決断です。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる<マタイ16:19>とイエスが語られたとおりです。(92頁)
  • こうした思索は、今日の聖ペトロの座の祝日に思い浮かびました。それは、何人かと食卓を囲んでいるときでした。彼らは、教会があまりに権威主義的であると思えて、カトリック教会から去った人たちでした。今後、ますます重要になることは、教会とは、司教がいたり、教皇がいたりする、単に「あちら」にあるのではなく、主の食卓を囲んだ「ここ」にあるということの認識です。(92頁)

本書は2002年に、米国のカトリック出版協会による「スピリチュアリティ」「グラフィック」の2部門で第一位を受賞しています。

本シリーズでは、ナウエンの著作のうち、『あわれみ』 『イエスの御名で』 『すべて新たに』の三冊を紹介しています。ほかに、ぜひお読みになることをお勧めしたいのは、『いま、ここに生きる』と『今日のパン、明日の糧』です。

JELA理事
森川 博己

2019年12月13日金曜日

【続・信仰書あれこれ】耳をすまして


シスター・ウェンディー・ベケット著『耳をすまして――ほんとうにたいせつなこと』(2002年、新教出版社) をとりあげます。

英語原書タイトルの意味は、「芸術作品を通して祈りを学ぶ子どもの本」。登場する漢字すべてに振り仮名がふってあります。

カバー裏表紙に以下の言葉が並んでいます。
「信じること、愛すること、ゆるすこと……人生の中でとても大切なテーマを美しい12枚の絵画の中にさがしましょう/こどもと大人が共に、新しい『発見と対話』ができる一冊です/『鑑賞眼にしろ、解説の的確さにしろ、これほどの才能は稀だ』ザ・タイムズ紙 評」

◇◆◇

もくじの片隅に、筆者から読者に向けたメッセージが記されています。
  • ……こどもに一人で読ませて、邪魔しないことが一番と思います。……どうかこの本の内容を真剣に考えてみてください。わたしたち自身が、愛に満ちて、いつわりのない生き方をしようとしていなければ、この本に書かれていることをこどもたちと話し合うことはできません。……この本で大切なものに出会うのは、こどもだけではないでしょう。大人も、同じように大きな問題を突きつけられると思います。本当によいことや真心が大切なのは、わたしたちの生涯を通じて変わらないことだからです。この本に書いてあることはすべて、9歳のこどもの時だけではなく90歳になっても、まったく同じにあてはまるでしょう。この本を読むすべての方に、神さまの声が届けられますように。(「ご家族ならびに教師の皆様へ」)

「本当の幸せ」と題された章でとりあげられる、アレッサンドロ・アローリが1561年に描いた作品「若者の肖像」では、画面中央に大きく描かれた細身の「若者」と、右上隅の窓外に小さく描かれた、後ろ姿の逞しい人物が対比的に説明されます。

身にまとった服・装身具や室内の家具・調度品から裕福そうに見える若者は、うつろな目でこちらを見ています。一方、裸に薄い布をまとっただけの窓外の人物は、周囲の山や海に目をやり、表情は見えないもののゆったりした佇まいです。この二人の特徴を細かく描写したあと著者は、「神さまのもとでありのままの自分になれるまで、わたしたちが本当に幸せになることはありません」(23頁)と締めくくります。

解説ページの中央に、ひときわ大きく赤字で示された祈りの文章があります。そこには、こう記されています。
  • わたしたちの心が自由でいられますように。そして、たくさんの物をもっていることよりも、人にあげることのほうが幸せだと、わかりますように。よくばりになりませんように。そして、物ばかり大切にしないように助けてください。(23頁)

同じ出版社からシスター・ウェンディーの別の本、『心の美術館』と『私たちの間のイエス』 が出ています。前者は、中世の絵画・彫刻から浮世絵や現代美術まで、幅広い作品を扱っています。後者は副題「写本でたどるキリストの生涯」から内容が読み取れるでしょう。

著者は2018年の年末に88歳で亡くなりました。本書略歴欄には、「美術全般、特に絵画に関する専門知識と鑑賞・洞察力は、欧米でも高く評価されている。英国BBCテレビでは、人気美術番組の司会者としても活躍中」と記されています。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

2019年12月10日火曜日

【続・信仰書あれこれ】使徒信条によるキリスト教入門


隅谷三喜男著『私のキリスト教入門――使徒信条による』(1983年、日本YMCA同盟出版部)をとりあげます。

著者は1932年のクリスマスに受洗し、その五十周年を記念して本書を公刊しました。学生・青年向けに、自分の信仰告白として書いたということです。

一般信徒である著者は、本書の内容が神学的に問題なきようにするため、当時の東京神学大学教授・熊沢義宣氏から原稿の大半についてチェックを受けたと記しています。

◇◆◇

使徒信条というのは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に始まり、「~永遠の生命を信ず」で終わる、キリスト教会が長年唱えてきた信条の一つで、正統的キリスト教信仰の核心を表したものです。

以下では、「天地創造の神」と「全能の神」に関する説明の一部をご紹介します。

天地創造の神
  • 使徒信条が「天地の造り主を信ず」と告白しているときに、何よりも注意しなければならないことは、天地創造のプロセスを信じると言っているのではない、ということです。たとえば、一日と言っても、それは我々の生活における一日の意味ではなく、「主(神)にあっては千年は一日のようであり、一日は千年のようである」<ペテロⅡ3:8>と言われるように、我々の一日とは違った次元で語られているのです。(20頁)
  • 天地創造の信仰というのは、人間を含めてすべてのものを存在させ、これを支えている神への信仰であって、神がどういう手続き、どういう順序で天地万物を造り上げたかというようなことを信じることではないのです。……信仰とは本質的に神の支配への信頼関係であって、世界や人類の生成を説明しようとするものではないのです。そういう説明をしようとすると、それは人間が考えた世界観になってしまうわけです。(21頁)
  • 神の創造は<無からの創造>だということです。それは言い換えれば、この世界、人類は、その根源から神によって造られ、神の支配のもとにあるという信仰の告白です。存在するもの自体に存在の根拠はない、ということです。そこから、被造物を神としようとするすべての偶像崇拝が拒否されることにもなるのです。(26頁)


全能の神
  • 全能の父なる神というときには、本来、神とその被造物とは非連続のものですが、それにもかかわらず、神は私たち人間に対して関係を持たれるのだ、という信仰の告白なのです。この越えがたい溝を超えることができる神、それが全能の神なのです。キリスト教の信仰では、それを神の恩寵と表現しています。それゆえ、全能の神とは、たんに何でもできる神というようなことではなく、私たち人間をその悲惨と罪の中から救い出すためには、不可能なことをも可能とする神である、という告白です。(31頁)
  • 全能とは、したいことは何でもできるということではなく、神と人間との……断絶の関係を回復するためには、不可能を可能とする神の力であり、人格的世界における全能であることを学びました。したがって、イエス・キリストが<主>として我々に対して持つ権威も、生殺与奪は意のままということではなく、まず何よりも、人間が神に背いて犯している罪を裁く権威なのです。キリストは「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」<ヨハネ9:39>と言われます。しかし、より重要なことは、その罪を赦す権威です。(42~43頁)


著者は労働経済学の泰斗であり、その専門的立場から著した『近代日本の形成とキリスト教』(新教新書) のような著書もあります。

JELA理事
森川 博己
 
◆◇◆

【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2019年12月5日木曜日

【続・信仰書あれこれ】55歳からのキリスト教入門


小島誠志著『55歳からのキリスト教入門――イエスと歩く道』(2018年、日本キリスト教団出版局)をとりあげます。

著者あとがきに次のように記されています。「近年、日本の教会では中高年になって受洗される方が増えています。そういう方々を意識して執筆しました。もう一つ願ったことは、長く信仰生活を続けて来られた方々の参考になれば、ということです。筆者の旧著『わかりやすい教理』 の延長線上にこの小著を位置づけることができれば、というのがひそかな願いです。」

◇◆◇

以下では、「永遠の命について」と題された章の一部をご紹介します。
  • ある高齢の信徒の方が、あるとき牧師である私に、ふと漏らしました。「死ねるから、大丈夫!」。……今あるこの命を生きることも楽ではないのです。次々に襲ってくる試練があります。体の不調も。自分の中にあるゆがみや屈折、他者を傷つけたり傷つけられたり。しかし、「死ねるから、大丈夫!」。やがて終わらせていただけるのです。永遠の命とは、この命がいつまでも続くことではありません。(37頁)
  • イエス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」<ヨハネ17:3>。この「知る」という言葉は、知識として何かを知るという意味ではありません。人と人とが出会って、交わりをもって「知る」という意味の言葉です。永遠の命というのは、イエス・キリストによって救われ神の子とされた者が、救い主のとりなしによって神に結ばれ神に出会い交わる、そういう生の中に入れられることです。(37~38頁)
  • 永遠の命というのは、終わりのない命というよりは(それも否定はされませんが)、神と御子イエス・キリストとの交わりに中に入れられることなのです。神と向き合うこの交わりの中で人間は、初めてかけがえのない人格として見出されている自分を知るのです。……この交わりは死後に始まるというようなものではなく、信仰によって今ここで始まっているものなのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」<ヨハネ5:24>。(38~39頁)
  • 永遠の命とは、私たちの所有する何かではありません。私たちが所有する終わらない命、というものではありません。永遠の命とは、永遠なる神と関わる命のことなのです。永遠なる神と交わる命のことなのです。(39頁)


本シリーズでは、小島誠志氏が著した以下の三冊も紹介しています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

2019年11月22日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信じている事柄をはっきりさせる

イエスは生きておられる――私たちの信仰告白』(J.ツィンク+R.レーリヒト著、1975年、新教出版社)をとりあげます。

訳者あとがきによると、原書は「キリスト者が信じている事柄」という題で、読者一人ひとりがそれぞれの力量に応じて本文と対話し、自分の信じている事柄を、より一層明快に把握するのに役立ててほしい、というのが著者の願いだそうです。

教会学校の中学科でも学べるように、やさしい言葉づかいで訳されています。

◇◆◇

教会は己を捧げることによって生きる
  • おのれやその現状を守ったり、数をふやしたりすることが、教会の目標であってはなりません。教会は、拡がり、そして、変わり、真理に味方し、暴力に抵抗し、正義と平和とに貢献すべきです。……教会は、権力や制度をたよりにすることはゆるされません。教会は、規制する力をもたずに人と人とを結び合わせ、そして、しいたげられる者の側に立つのです。教会は、不正な扱いを受けて苦しむ時があることを覚悟しなければなりません。そして、他の人びとの上に不正が加えられる時には、雄々しく、苦しみをともに担うのでなければなりません。(25~26頁)

変化は神の霊によってもたらされる
  • もしもわたしたちが、神の霊の働きを抜きにして、聖書を解釈する場合には、わたしたちは、だれにも役立たない死文と化した伝承か、きのうの思想か、きょうの思いつきを代弁するにすぎません。聖書の真理は、それがわたしたちと世界を変革するときに、そのときだけ働くのです。根底から変革し更新することは、わたしたち人間にはできません。そのことは神の霊だけができることです。(28~29頁)

失敗から立ち直るための告白
  • わたしは信じませんでした。わたしは、わたしの自由を濫用し、そして、わたしの良心にそむきました。わたしは、いたずらに憂え、そして、妬み、恩を忘れ、疑いをいだき、失望し、不遜で、独善的でした。わたしは愛しませんでした。わたしは過ちを犯しました。わたしは、快適な道をたどりました。わたしは、大勢に順応し、そして、犠牲になることを避けました。わたしは、キリストに似る者となるまいとして、そして、キリストの道をたどることを恐れました。わたしは、目標を見失い、そして、望みをなくしました。わたしは、自分をえらい者のように思いました。わたしは、時間と能力を浪費し、不正を大目に見、苦しみと孤独とを見すごし、そして、人びとをなげやりにしました。神が幸いを賜ったのに、わたしは感謝をしませんでした。(85~87頁)

    著者の一人であるイェルク・トゥインクの別の作品、『祈りを求めて』を本シリーズでとりあげています。こちらもお楽しみください。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    2019年11月15日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】信仰生活における習慣の大切さ


    眠りの神学――J.ベイリー説教集』(大塚野百合訳、1970年、日本基督教団出版局・アルパ新書2) をとりあげます。

    原書(1962年)タイトルは“Christian Devotion”であり、神学的観点による「眠り」の説教集ではありません。

    ◇◆◇

    習慣の大切さを説いた説教の一部を以下にご紹介します。

    習慣は霊的歩みを確かなものにする
    • 最も偉大な聖徒たちさえも、霊的に渇くことがあると嘆いています。それは闇と疑いの時期であり、霊が死んでしまったような時期なのです。……すぐれた聖徒たちは、率先してキリスト教的なしきたりを厳守するよう、自ら鍛錬してきたのです。このように規則的にする習慣をつけて、それから一歩もはずれないように努力してきたのです。(107頁)
    • 私たちの内に霊的な火が燃えており、何にも増して神との交わりを願うときは、私たちに規則は必要ないでしょう。しかし、このような時にこそ、規則を作るべきなのです。……そうしておけば、神を求める思いが弱まり、霊的な火がくすぶるようになったとき、私たちが行っていた鍛錬が私たちを正しい道に導き、右にも左にも寄らず、まっすぐにその道を歩ませてくれるのです(107~108頁)

    習慣は感情から自分を守ってくれる
    • 毎日または毎週同じことを繰り返すということは、私たちを守ってくれることになります。……もし私に規則がなく、私の足のためにまっすぐな道を作ってくれなければ、私はのべつ幕なしに自分に言わねばなりません。「今日は教会に行く気がしない」とか、「今朝は祈る気がしない」と。その結果私は、教会にも行かず祈りもしないのです。(109頁)
    • 祈る気がしない時こそ、私はいっそう、祈りによって強められる必要があるのです。信者の集いに出たくない時こそ、私はそれらの人との交わりが、私をその中から連れ出してくれることを必要としているのです。聖餐を受けたくないと思うときこそ、キリストの体と血を食することによって、私の感情が変えられる必要があるのです。(109~110頁)

    集会参加を軽んじる習慣は信仰の減退につながる
    • かつてシカゴの有力な市民が、有名な伝道者であるドワイト・L・ムーディー を自分の書斎に迎えたとき、言ったのです。「教会の外にいても、その中にいると同じように、立派なキリスト者になれると思うんですが」と。するとムーディーは、何も言わず、やおら燃えている暖炉の火のそばに行き、真っ赤な石炭を一個火箸でつまみ出して、燃えるままにしておきました。その二人は黙って、その石炭がくすぶって火が消えてしまうのを眺めていたのです。「わかりました」とその紳士は言い、その次の日曜には教会に出かけたのです。(112頁)
    • 今もなおキリストは、私たちと共に安息日に教会に来たもうのです。主はここに、今いまし、私たちが教会に行くのは、主に会うためなのです。それゆえ、ある人たちの習慣のように、集会をやめることはしないで、主の良き習慣に従いましょう。(114頁)


    ジョン・ベイリーは、『朝の祈り 夜の祈り』 の著者として有名です。本書『眠りの神学』の末尾にはベイリーの従姉による長い手記が付されていて、著者がいかに真剣な祈りの人であったかがわかります。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年10月29日火曜日

    【続・信仰書あれこれ】ルッターの根本思想

    日本におけるルター研究の開拓者である佐藤繁彦の『羅馬書講解に現れし ルッターの根本思想』(1932年、ルッター研究会、限定350部)をとりあげます。

    本書は、著者が京都帝国大学文学部に提出した博士論文に大幅に修正追加を施したものです。そして、著者の研究生活の収穫であるのみならず、その信仰生活の所産であると序文に記されています。

    ◇◆◇

    以下では、序説で示されるルター神学の要点をいつくかご紹介します。漢字仮名については原文の旧表記を現代表記に改めましたが、マルチン・ルターについては、「ルター」ではなく、原文通りの「ルッター」で引用します。

    神の超在と内在
    • スコラ神学は、神によって定められた普通の秩序を、神が破壊する異常な出来事においてのみ神の全能を見ようとしたが、ルッターは、世界の普通の進行において、神の最大の奇跡を見たのである。かく、ルッターは、神の超在を説くよりも、世界における神の内在を説き、そこに神の活ける活動を見ようとしたのである。(6~7頁)

    神の働きかけへの人間の服従
    • ルッターの神観には、人間の思索もしくは願望が、問題となりえなかったことは、明らかだ。ルッターは、実在する神が、人間に対していかなる態度をとるかを一切とした。……ルッターの神観は、神の働きかけを中心とする神観であったのである。例えば、ルッターの『小教理問答』を見ても神は創造の神であり、維持の神であり、支配の神であって、人間は全くただこの恩寵の神に感謝し服従する以外、何らの可能性を持ちえないのである。この思想は、ルッターの神観の根本的特徴を示すものであって、神に服従することが彼の宗教であり、かく服従することも、人間のためではなくして、全くただ神のためであるのが、彼の宗教だったのである。(15頁)

    隠されたる神
    • 神は霊であるが、世界は肉であるから、世界における神の活動は必然、隠されることになるのである。ルッターには、この場合、「隠される」ということは、「霊的」ということであったのである。霊的な神の霊的なわざは必然、肉である世界に隠されるわけであるが、同様に、肉である人間にも隠されるわけである。ここで、「肉」に対立するものとして、すなわち、「人間の念」に対立するものとして、「信仰」が問題になるのである。ゆえに、「被覆」は、「啓示」の前提であるばかりでなく、信仰の前提でもあるのである。そは、「信仰」は信仰の対象が被覆されるときのみ、可能であるからである。ルッターは被覆の仮象の奥に真実を見るのが信仰だと解しておる。我らの肉の念は、すぐ被覆に眩惑されるのであるが、「信仰」は、よく、神の意志が何であるかを「被覆」の下に読むのである。(17頁)

    人を悔い改めに導くもの
    • ルッターの『羅馬書講解』に現れた悔改観を見ると、そこには、人間の意識的努力とは無関係に、すべてにおいてすべてを働く神が、人間の心のうちに悔い改めを生ぜしめる者として、描かれておるのである。人間が、一般に、真の意志を有することは否定され、霊的生活が問題になる時には、全ては、神の創造的な力にかかることが力説されておるのである。ゆえに、……人間が自発的になし得る「悔い改め」は、ルッターの全く関知せざるものであって、ルッターは、神の愛と恵みのみが、人間を悔い改めに導くことを明らかにするのである。(26~27頁)

    神のために神を求める
    • 神を求めるとき、自己のために神を求めるのと、神のために神を求めるのとは、全く違ったことであるということを、ルッターは発見した。自己のために神を求めることは、それがいかに敬虔に見えても、所詮、「自己追求」であって、ただ「対象」が、「最高のもの」に代わっただけで、同時に、自己追求が最も高尚化されたことにすぎないのである。……ルッターは、神を求めることと自己を求めることとの間には、贖われ難い対立を見た。神を求めることは、自己を否定することでなければならない。これが、ルッターの考えであった。(35頁)

    本書には『ローマ書講解に現れしルッターの根本思想』(1961年、聖文舎)という現代表記版があります。

    私はルッター研究会版を2013年10月に入手してすぐ、時間を忘れて読みふけりました。宗教改革500周年(2017年)を数年後に控え、ルター神学の豊かさに触れる貴重な経験でした。

    JELA理事
    森川 博己




    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年10月24日木曜日

    【続・信仰書あれこれ】認知症と信仰


    聖書を読んで想う』(渡辺正雄著、2005年、新教出版社)をとりあげます。

    著者は科学史の分野で開拓的な業績をあげたクリスチャン科学者。驚きと喜びの源泉である聖書を伝えるべく、長年にわたり自宅を開放して「聖書を読む会」を主宰されました。本書は、その準備ノートから興味深い項目を拾い上げ書籍化したものです。

    ◇◆◇

    以下では、「『ボケ老人』考」と題された部分を紹介します。「ボケ」は今では認知症と言われるのが普通でしょうが、ここでは、原文のまま引用します。

    • ボケてしまったら、せっかく一生懸命に学んできた生命の御言葉である『聖書』のエッセンスが何であったか、全く分からなくなってしまうのではないか。地上の命を終えるときにこそ最も強く呼び求めるべき救い主のお名前さえ忘れてしまうのではないか。いや、さらに、救い主を呼び求めるべきだということすら、私たちの意識から消え去ってしまうのではないか。我々は『聖書』から信仰によって救われると教えられてきたのだが、ボケてしまって、信仰まで朦朧としてしまったら、救われる可能性はなくなってしまうのではないか。(148~9頁)
    • 思うに、ここで本当に問われているのは、実は、死の床での私の信仰如何ではなくて、今日、只今現在の私の信仰如何なのだということに気づくべきではあるまいか。……キリストへの信仰が救いの条件なのであるから、もはや信仰を告白できなくなったボケ老人は救いから外れてしまっていると考えるのか。死者(もはや自分で信仰告白することなどできない者)をも生かすことのできるキリストの力は、お前がボケただけでお前にはもう効力を発揮できなくなってしまうほどに、それほど限られたものと考えるか。(149頁)
    • この問題は、それゆえ、今の時点でキリストを正当に信じるかどうかの問題に帰着するのである。将来ボケた時にどうかの問題ではなくて、キリストの救いは、ボケた者にも死んだ者にも、人間の側のあり方如何に左右されることなく、百パーセント有効に働くということを、今、信じるか否かの問題なのである。私たちはパウロと共に、「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38~39)との信仰を、今、告白しようではないか。そして、この「死も生も」の中に当然「ボケも」が含まれているのである。(149~150頁)
    • 次に、我々の周囲におられるボケ老人についてならば、「ルカによる福音書」5章18~26節……に見られるように、主イエスは、当人の信仰ではなしに、この人を主イエスのもとに運んできた「彼らの信仰を見て」この人を救われたのであった。このことを特に銘記しておくべきである。(150頁)
    • 私たちは、ボケるかもしれない将来のことを案じるのではなしに、死者をも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じようではないか。心が死んでしまった者をさえも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じることが第一なのではあるまいか。(150~51頁)

    渡辺氏のキリスト教関連著作で読みやすいものに『キリストに出会う』(丸善ライブラリー)、『科学者とキリスト教』(講談社ブルーバックス)などがあります。また、一般書としては『日本人と近代科学』(岩波新書)、『文化としての近代科学』(講談社学術文庫)などがあります。

    JELA理事
    森川 博己
     
    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年9月27日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】地獄と神の愛

    山田晶著『アウグスチヌス講話』(講談社学術文庫、1995年) をとりあげます。

    本書は、ある教会のうちとけた小さな集まりの中で著者が話した内容をまとめたものです。「アウグスチヌスと女性」「神の憩い」など、興味をそそられる話題ばかりです。

    ◇◆◇

    以下では「煉獄と地獄」と題された章の一部をご紹介します。地獄の存在と神の愛との関係に触れた部分です。

    • 神は無限にあわれみ深いものであるから、地獄などを作るはずはない。だから地獄のことが語られるのは方便にすぎない、という説があります。しかしそういう考え方は、神のあわれみというものを、人間の腹にあてがって考えているのではないかと思います。ですから、そういう仕方で神のあわれみが表象される場合には、神の持っていられるもう一つの側面、非常に厳しい側面、またその厳しさに裏付けられた神の真実の愛、そういう側面が消えてしまうのではないか。すべてのものを包容するなどと言いながら、そこに観念的でセンチメンタルな要素が入ってくるのではないか。「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」になっているのではないか。本当の意味でリアルな神の愛は、何もかも無条件に赦すようなものではなくて、ある者たちは容赦なく地獄へ突き落とすという、そういう厳しさを含んだものではないか。それは、人間の愛の観念を超越する側面を有する愛ではないか。それを神の愛が小さいとか、ケチだとか、そんなふうに取るのは根本的にまちがいで、そのような厳しさに裏付けられた愛こそは、真実の愛だと思うのです。(94~5頁)
    • 地獄にゆくか否かは、犯した罪が人間の眼から見て大きいか小さいか(たとえば殺人か万引きか)によって決まるのではなくて、当人が自己の罪を悔い改めているか否か、それも、人々の前にその悔い改めを表明しているか否かではなくて、神様の前に悔い改めてそれを神様の前に表明しているか否かにかかっています。そのことの典型的な例として、……十字架上に、イエスのかたわらにおいて自分の罪を告白し、イエスから赦されて死んだ盗賊をあげることができます。恐らく彼は、国法から言えば、大罪人であったでしょう。イエスのとなりに十字架にかけられるまでは、自分の罪について考えたこともなかったかもしれません。憎悪と復讐のかたまりであったかもしれません。それが、イエスのかたわらで、不思議にも、素直になり自分の罪を悔い改め、赦しを乞いました。それに対してイエスは、即刻に完全な赦しを与え、天国にイエスと「共に生きる」栄光の生を保証しました。ここにこそ、神の無限のあわれみが現れます。これに対し、同じ十字架につけられながら、イエスを罵ったもう一人の盗賊は、恐らく地獄にゆくでしょう。それは、イエスが彼を地獄に落とすのではなくて、たとえイエスがどんなに彼を救ってやりたくても、自分自身の罪の重さによって堕ちてゆくのですから、どうにも救いようがないのです。(101~2頁)
    • この世は既に地獄であるとはなぜ言わないか。そこです。この世は苦しいことに満ちている。さながら煉獄である。しかし地獄であるとは言わない。なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。しかしもし我々がこの世の中で絶望したら、その時この世は地獄になる。我々がこの世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として把えることができるならば、この世は煉獄となる。そのように苦しみを受け取るならば、苦しみの中に希望が出てくるからです。あるいは、逆かもしれない。すなわち、希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。(107~8頁)

    山田晶氏はアウグスチヌス研究の権威であり、本シリーズでは同氏訳による『告白』もとりあげています。また、山田氏以外の訳で、『教えの手ほどき』 というアウグスチヌスの作品も本シリーズで紹介しています。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年8月21日水曜日

    【続・信仰書あれこれ】かけがえのない一冊


    昨年の3月に「一冊だけ手もとに置けるとしたら」という題で、『聖書のことば』(宮本武之助著) をとりあげました。同じ質問を今、自らに問うなら、躊躇なく『ローマ書講解説教~Ⅲ』(竹森満佐一著、1962~72年、新教出版社) を挙げるでしょう。

    今年の1~5月に、十種類近くある竹森氏の講解説教を順番に読了し、6月から再び、『ローマ書』に目を通しています。信仰書に限らず、読んでから数か月後に同じ本を再読するのは、私には初めての経験です。

    本書は、日本基督教団・吉祥寺教会で竹森牧師が何年かにわたって行った礼拝説教を信徒が忠実にメモし、その記録を書籍化したものです。キリストの福音をまっすぐに伝えようとする著者の情熱が伝わってくる名説教集です。

    ◇◆◇

    以下に、本書の二つの分冊から、律法・割礼・洗礼と神の福音との関係に触れた箇所を一部ご紹介します。

    <第一分冊> ローマ書3章1~8節
    • 神がまったく自由に、御自身のお考えからユダヤ人に律法をお与えになったのであります。ところがそのことが、何か自分の特権のように思って、それに対する責任はあまり考えなくなったということです。……律法を受けたことが特権であるのなら、これを謙遜に受けて、その恵みを知るべきであったのに、そうはしないで、それをただ自分の誇りの材料にしたことに問題があるのであります。律法や割礼が与えられたのに何の役にも立たないのか、とまるでそれが神の責任であるように言うわけであります。(中略)このようなことは、今日の信仰者の場合も起こりうることであります。キリスト教の信者でも、信仰が弱くなるといろいろな点で不平を言うようになって、「洗礼を受けても、自分は少しも変わりはしない」というような愚かなことを、得意そうに話したりするものであります。……自分の方に用意しておくべき信仰のことは忘れてしまって、洗礼を受けたのだから神は何とかしてくれそうなものではないか、というような、まるでふてくされて居直ったような言い方であります。……これらすべてのことに共通なことは、神の約束ということであります。律法であれ割礼であれ洗礼であれ、それらを生かすものは神の約束であります。神が救いの約束をしてくださったからこそ、これらのことは意味があるわけであります。その約束の内容は、約束する者が定めるのであります。それを受ける者が、これを信仰を持って受け、これを恵みとして受けるのでなかったなら、全く空しくなることは、イスラエルの長い歴史が証明しているとおりであります。そして、今日の信仰者の生活の中でも、絶えず経験していることであります。(242~44頁)

    <第二分冊> ローマ書4章9~12節
    • 洗礼は何のためにあるのでしょうか。割礼を受けると同じような意味で、洗礼さえ受ければ救いは受けられる、と考えるのは間違いでしょう。洗礼は、ここの言葉で言えば「信仰によって受けた義の証印」<11節>でありましょう。キリストの恵みを受けたことが確認されるのであります。しかし、もしそれが内容を失ったらどうでしょうか。信仰が忘れられて、洗礼を受けているから自分はアブラハムの子である、と考えたらどうでしょうか。そうなれば、洗礼も割礼と同じように我々に益をもたらすことはなく、かえって害を与えることになりましょう。我々を支える信仰が日ごとに新しいものとなる時に、洗礼は、神の確かな契約のしるしとなるのであります。(48頁)

    本書は現在、少し値が張るものの、オンデマンド版として入手できます。各説教の冒頭には、とりあげる聖書箇所の言葉がすべて記されていて、電車内で立って読書することの多い私には、とてもありがたい作りです。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年8月1日木曜日

    【続・信仰書あれこれ】ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉

    土居健郎・森田明=編『ホイヴェルス神父――信仰と思想』(聖母文庫、2003年)をとりあげます。

    編者のひとりである土居健郎氏は、「甘えの構造」で有名なクリスチャン精神分析学者です。以前のこのシリーズで、同氏の講演集『甘え・病い・信仰』をとりあげています。


    JELA理事・森川博己


    ◇◆◇
    本書は、ヘルマン・ホイヴェルス神父と親交のあった何名かの方たちによる思い出、神父自身の多様で気の利いた言葉の数々、そして、日本に長く滞在された神父の日本人に対する考え方、の三部構成になっています。


    以下では、神父自身の興味深い言葉のほんの一部をご紹介します。
    • 19世紀のある思想家は永遠の存在は退屈であると言ったが、それは愛を知らないからである。愛は退屈しない。(70頁)
    • 世の中の宗教は救いの宗教である。しかしなぜ救いの宗教であるかを、キリスト教だけが知っている。Schelerは面白いことを言った。「ギリシャ・東洋の理想は賢人である。神の理想は幼児である」。(72頁)
    • 偶像について――エジプト人が本当に牛などを神と考えたわけではない。彼らは象徴的な意味を解していた。しかし次第に象徴を本物と間違えるようになる。かくして心理学的には手段はいつの間にか目的と同一視されるに至る。(95頁)
    • 神を知ることはある程度哲学でも可能、しかし神に向かって出発するのは恩寵による。知ること、信ずること、従うことの間には〔跳び越えねばならぬ〕堀がある。(98頁)
    • 祈りとは神となつかしく交際することです。(101頁)
    • 祈りの基本は――自分の分かる範囲で、子供の心で神に信頼して、「神よあまりひどいことをしないでください」と祈ること。(101~2頁)
    • 宗教くさいのはよくない。下手な美術家のようなものです。いくらおいしいからといって、アイスやプリンばかりいつも食べているのは健康でないのと同じです。(102~3頁)
    • 信仰は教理のかたまりではない。あふれるようなもの、音楽のようにオールラウンドで心の隅々までうるおしてくるものである。(103頁)
    • 信仰は私たちから創るものではない。神のプレゼントです。だからあまり深く考えなくていい。神がなつかしくなればいい。(103頁)

    ドイツでキリスト教生活を過ごした神父は、宣教師としてそれを日本の風土の中でどのように伝えるべきか悩まれたようで、以下にその思いが見て取れます。
    • ……日本人の心に紹介されるべきキリスト像に関して、私どもはもっと懸命に研究する必要があるでしょう。それには、ヨーロッパ的装飾(ヨーロッパの垢といった方が正しいかもしれませんが)を洗い落とさねばならないでしょう。ヨーロッパ的習慣と堅く結びついたキリスト教の姿は、多分しばしば日本人の単純直截な思考法や、美的宗教感情に受け入れがたいものがあるのではないでしょうか。真理でも霊でもない贅肉を捨て、啓示をもっと浄化し、人の心に直接射し込む光として備える必要があると思うのです。(136~7頁)

    本書冒頭の「神父の人と生涯」(8~20頁)で、神父の盟友だったブルーノ・ビッター氏が次のような事実を記しています。
    • ホイヴェルス神父は1890年8月31日ドイツのウェストファーレン生まれ。来日は1923年の関東大震災のちょうど一週間前。
    • 1975年8月31日、85歳の誕生日にホイヴェルス神父本人からビッター氏が聞いた話によると、53年間の日本での宣教活動の間に神父から洗礼を受けた信者は3000人。神父は誇張してものを言わない人だったので、その数はさらに多い可能性がある。
    • 神父は1977年6月9日正午ごろに日本で永眠。6月14日午後1時から四ツ谷の聖イグナチオ教会で行われた葬儀ミサの参列者は2500人以上。参加者の心を大きく揺さぶるミサであった。
    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年7月12日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】聖書を伝える極意

    「信仰書あれこれ」(100件分) につづく「続・信仰書あれこれ」の第1回として『聖書を伝える極意――聖書はこうして語られる』(平野克己監修、キリスト新聞社、2016年) をとりあげます。

    季刊誌『ミニストリー』(キリスト新聞社)の「シリーズ・日本の説教者」12回分と、『キリスト新聞』掲載のひとつの記事をまとめたものです。

    以下では、雨宮慧氏 の話をとりあげます。NHKの「こころの時代」やキリスト教専門ラジオ放送・FEBCなどメディア出演も多く、カトリック神学界をけん引する神父のひとりです。

    ◇◆◇

    あくまで聖書に固着すること(164~65頁)
    • 「カトリック教会では以前から『こうしなさい』『ああしなさい』という説教が多かったのですが、それが私にはどうしてもだめで……。あるドイツの学者が『福音とは、我々が神のために何をすべきかということについての知らせではなく、神が我々のために何をしたかという知らせだ』と言っていて、確かにそうだと」。
    • 「聖書が最も嫌っているのは偶像です。偶像というのは結局、人間の願望の投影ということになります。そういうものではなく、神のことばを聞きたいというのが私の興味なんです。ですから、この文章はこういう成り立ちと構成になっているという話になるわけです。聞いてくださる方の生活や環境はみんな違うわけですから、私がひとつの体験を押しつけるのではなくて、聖書のことばを聞いてくださった方が何かを考えるというのが筋なんじゃないかと思います」。

    ピンチをチャンスととらえ、じっくりと腰を据えて(170~71頁)
    • 今日のカトリック教会が抱える課題は、他のプロテスタント諸教会とほとんど変わらない。献身者が少ない。神学を教えることのできる人材が育っていない。大学を維持するためには定員を増やさざるを得ず、増やせば神学に興味のない学生も入ってくる。おのずと、神学生を育てるという雰囲気は希薄になる。教会の現状も厳しく、地方はもちろん、東京でさえ共同司牧が必要なところが生まれている。「でも、かえってチャンスかもしれません。今まで神父に頼り切っていた信徒たちが、これではだめだと考え、努力を始めています」。
    • 「疲れ果ててしまっている神父が多いような気がします。どうせじたばたしたって、どうにもならないことはどうにもならない。あわてずに腰を据えて神のことばにしっかりと聞く訓練をしたほうが、力が出てくるんじゃないかと思います。行動すれば、確かに手っ取り早い感動は得られますが、長持ちしません」。

    聖書が分かるようになるには(173~74頁)
    • 「その世界に入り込むことができれば、意味も理解できる。昔のものといって避けずに読むことが大切」と雨宮は言う。
    • 「……詩編 が今日的意義を持っているとすれば、子どもの時に誰もが知っていた、絶対的な庇護者を求める心を思い出させるということなんじゃないでしょうか」。
    • 「聖書を理解するためには、頭がいいかどうかはあまり関係ないと思うんですよ。別の何かが必要で、それが育ってくると分かったということになる。そうでないと、私も大学の時はそうでしたが、話としては分かるけど、それが何だという感じ。そのズレをどう埋めるか、どう待ち続けるかということなのかなと思います」。


    本書には他に、日本基督教団キリスト改革派ホーリネス福音ルーテル聖公会日本キリスト教会単立 といった多彩な教派の代表的教職者が登場します。

    JELA理事・森川博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】 
    日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

    2019年3月25日月曜日

    【信仰書あれこれ】祈りを求めて


    イェルク・ツィンク著『祈りを求めて』(三浦安子訳、1994年、ヨルダン社)をとりあげます。『現代への祈り――今日を生きる断想と詩編』(1977年、ヨルダン社)を改定した新版の上巻にあたります。

    訳者あとがきによると本書の目的は、「いかにして日々の生活の中で祈りを――それは神の前における自己を、ということなのですが――取り戻すことができるか……祈りを基礎とした生活、祈りの中で静かに、しかも確固として営まれていく日常はどうしたら可能か」(183頁)を追求することです。

    本書のエッセンスのいくつかを以下に引用します。

    ◇◆◇

    祈りは覚悟のある人を求めている
    • 祈りは、可能な限り自分を直そうと覚悟している人、そして、課題が自分の能力を凌駕していると気づくや否や、自分の方を変えていただこうと覚悟している人を求めています。この、あるものを変える力。これが肝心なものですが、この力を私たちは神の霊と名付けます。これは神から来る、創造の力を持つ霊です。(39頁)

    成長のしるし
    • ある人は祈りの時、何も頭に浮かんでこないと嘆きます。ずいぶん何度も試みたけれど祈りの相手が感じられない、ただ言葉を唱えているだけだ、と言うのです。事実、彼は祈ろうとするとき、自分の感覚一般は何と貧しく何と未発達なのだろう、と思えてくるのです。しかし、このことはすでに何かが成長しているしるしなのです。というのは、たいていの人間は生涯、自分の内部で起こっていることがいかに貧しく、いかに不毛かということを見もしないからです。(中略)成長とは、最初は私たちの内部で偉大なものが偉大になり、役に立たないものが不要になることであり、私たちが、それを目標とし始めることです。偉大なものに向かって体をのばし些細なものを手放す人間は、成長しているのです。(43~44頁)

    キリスト者としての謙虚さの現れ
    • 謙虚な人間は……自分自身を測る尺度を自分では決めず、より大いなる存在から受け取ります。この人がキリスト者である場合は、キリストに接してこの尺度を受け取るわけです。……謙虚な人は、あれこれのタイプの人間になろうと企てたりせず、他の誰かが自己形成したその原型に従って自己形成します。……彼は、別の誰かが自分を知っていてくださることに信頼し、自分の手元にやってくる仕事に励み続けるのです。(48頁)

    本当に祈る時に起こること
    • 本当に祈る人は、自分自身に関するあらゆる顧慮から解放されます。祈りは自分の魂をさほど大事ではないものとし、私たちの身の回りにいる人々をずっと大事にします。(中略)本当に祈る人は人間を見出し、自分が気にしている人々の中にキリストを見出します。(84頁)

    教会の基礎と祈り
    • 教会の基礎はキリストの声と姿です。その姿はルターが言うように、ある人間が別の人間に対してキリストである時に目に見えるでしょう。教会にとってただ一つ大事なことは、教会が肉のキリストの、この地上での共同体であるということです。そして、祈るとは、この肉のキリストの中で具体的に生きることを意味します。(85頁)

    頼みごとの祈りに求められる姿勢
    • 祈りが聞かれるということは、必ずしも私たちの望みが叶うことなのではなくて、私たちが神の存在と神の意志を感知し、私たちが以前より神のそば近くにいるのだと感じられるということなのです。……頼みごとの祈りが意味を持つのは、絶えず自己を統御しながら神の臨在の中へと成長していき、自分自身の意志と神の意志とを結合させるという、一生にわたる大きな努力の内部においてです。……「イエスの名において」頼みごとをするとは、イエスを証人として引き合いに出すことであり、イエスの意志と和合することであり、イエスの業と一体となること、イエスが私たちの立場に立って同じ頼みを口にできるように、私たちがイエスの立場に立つことです。(153~54頁)

    人生の終わりの祈り
    • 私はかつて、自分の人生が終わりなく続くと思っていました。しかし、一刻一刻が私の終焉へと私を近づけます。どうか、私に私の死の時の準備をさせてください。(中略)多くの混乱を、私は過去に置き去りにしてきました。多くの争い、愛のない数々の仕打ち、心の冷たさを。どうか私の罪を赦し、すべての人々を赦す時間を、私に与えてください。(159~60頁)

    イエルク・ツインク氏は2016年に生涯を閉じました。彼が死の前年に著した本の和訳が最近出版されました。『わたしは よろこんで 歳をとりたい』(眞壁伍郎訳、2018年、こぐま社)です。きれいな写真を多数配した滋味深い作品であり、推薦いたします。

    JELA理事
    森川博己

    ◆◇◆

    2019年3月5日火曜日

    【信仰書あれこれ】惜しまれる生き方


    デイヴィッド・ブルックス著『あなたの人生の意味――先人に学ぶ「惜しまれる生き方」――』(夏目大訳、2017年、早川書房)をとりあげます。

    表紙折り返しに以下の記述があります。
    • ニューヨーク・タイムズ≫の名コラムニストが10人の生涯を通して語る、生きるための道しるべ。
    • 人間には2種類の美徳がある。「履歴書向きの美徳」と「追悼文向きの美徳」だ。つまり、履歴書に書ける経歴と、葬儀で偲ばれる個人の人柄。生きる上でどちらも大切だが、私たちはつい、前者ばかりを考えて生きてはいないだろうか?
    • アイゼンハワーからモンテーニュまで、さまざまな人生を歩んだ10人の生涯を通じて、現代人が忘れている内的成熟の価値と「生きる意味」を根源から問い直す。
    • エコノミスト≫などのメディアで大きな反響を呼び、ビル・ゲイツら多くの識者が深く共鳴したベストセラー。

    著者はこの本を、「自分の心を救うために書いた」(本書13頁)と言っています。以下に中身の一部をご紹介します。

    ◇◆◇

    人生からの問いかけに応える
    • 「大事なのは、私たちが人生に何を求めるかではない。人生が私たちに何を求めるかだ」。フランクルはそう書いている。「私たちは、人生の意味は何か、と問うことをやめるべきだ。反対に、人生の方が日々、絶えず私たちに問いかけているのだ」。……彼は運命が自分に与えた仕事をした。その任務とはより良く苦しむことだった。……苦しみがどれほどのものになるのか、彼に決めることはできなかった。ガス室で命を落とす可能性もあったし、他の理由で死んで道端に捨てられる可能性もあった。自分がどういう目に逢うのかは選べなかったが、自分の心が苦境にどう反応するかは自分で決めることができた。(51頁)

    天職のとらえ方
    • アルベルト・シュヴァイツァーは、1896年夏のある朝、聖書の「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うだろう」という一節に出会う。その瞬間、彼は呼ばれていると分かった。自分は成功していた音楽教師、オルガン奏者としての職をなげうって医療の道に進む、ジャングルの医者になると悟ったのである。天職を持つ人は、費用対効果分析の結果、その仕事に取り組むわけではない。公民権運動や難病の治療に身を捧げるのも、人道組織の運営や、大作小説の執筆に全力を傾けるのも、それで得をするからではない。……損得で仕事をした場合、行く手に困難が立ちはだかれば、その仕事をやめてしまうはずだ。ところが、天職に取り組む人は困難があるほど、その仕事に強く執着する。(55頁)
    • 道徳のために闘う英雄は、自らの名誉のことだけを考える人間とは違う。彼らの行動は自己の否定から始まる。彼らは自分の利益や名誉を否定し、辛く苦しい天職を受け入れ、与えられた仕事を全うする。彼らの行動は単に慈悲心からのものでもないし、自己満足のためのものでもない。他人のために自分を犠牲にしたという善行に酔っているわけではないのだ。それでは、英雄的な行動は長続きしない。良いことをしているという意識があってはいけない。自分は天から贈り物をもらっていて、それをもらったお返しをするために動いている、という意識でなければならない。(62頁)


    誰のためにそれをするのか
    • ある人が貧しい人に靴をあげるとする。これは、貧しい人本人のためにすることなのか、それとも神のためにすることなのか。フランシス・パーキンズは、神のためにすべきだと考えた。たとえ物をあげても、もらった側が感謝するとは限らない。もし、相手の感謝を報酬のように感じていれば、感謝されなかっただけでくじけてしまう恐れがあるだろう。だが、その人のためではなく、神のためだと思っていれば、相手の態度によってくじけることはなくなる。(88頁)

    自分から機会を求めて
    • ドロシー・デイが普通と違うのは、たまたま苦しい経験をして「しまった」のではなく、自ら求めていったというところだ。ごく普通の楽しみ、幸せを得ようとすればできたかもしれないのにわざわざ避けて、自分で苦しみを求めた。自分を犠牲にしても道徳的に振る舞う機会、苦しみ耐えながら他人に奉仕する機会を探して生きた。(169頁)

    本書では他に、ジョージ・マーシャルジョージ・エリオットアウグスチヌスサミュエル・ジョンソンなどの人生が、キリスト信徒としての著者の視点から綴られています。

    JELA理事
    森川博己

    ◆◇◆

    2019年2月1日金曜日

    【信仰書あれこれ】福音をストレートに語る力強さ

    竹森満佐一著『講解説教・ガラテヤの信徒への手紙(竹森満佐一選集)』(1991年、新教出版社)をとりあげます。

    著者は、日本キリスト教団吉祥寺教会を50年にわたり牧会しつつ、東京神学大学学長やドイツのハイデルベルク大学客員教授などを務められました。その説教がいかに素晴らしかったか、本書を読めばわかります。

    以下で著者の福音理解の真髄を少しご紹介します。

    ◇◆◇

    救われた者の生活
    • 自由になるように、ということで神の救いにあずかったのでありますが、自由は、自分勝手なことをして、肉の力に支配されることではないのです。それは、実際には、愛によって互いに仕える生活です。……このような生活はもちろん、教会の中においてまず行われるべきものであります。互いに重荷を負う生活であります。それによって、まことの教会生活が充実したものになるのであります。それはただ、主イエス・キリストの十字架のみを誇りとする生活であります。(15頁)

    福音を語れるための条件
    • 信仰者にはみな、福音を語る責任があります。それが、伝道するということであります。……この福音によって救われたと確信しているからであります。そうでなければ、福音を福音として語ることはできません。自分が今生かされているのは、この福音によることを信じていることが、絶対に必要なのであります。そうでなければ、福音を福音として語ろうという気になれないのです。(18頁)

    自分が救われたときに福音の真理性が理解できる
    • キリストの復活は、神がキリストによって罪と死に勝たれた、ということであります。そのことによって我々は、神がキリストの父であり、また、我々の父であることを信じることができるようになったのです。それは、自然や我々の周囲を見まわして、神は父であるらしいと考えるようになることとは、全く違うのです。そうではなくて、キリストの十字架と復活ということによって、自分が救われることによって、キリストを復活させられた神こそまことの父である、と信じるようになることです。それは、そういう考え方ではなくて、自分の救いという事実によって知るようになった真理なのであります。(20~21頁)

    自分が罪人であることは神によらなければ分からない
    • 自分の罪を認めることは、こういう欠点があるとか、弱さがある、ということではありません。……そうではなくて、自分は罪人であることを知ることです。自分は全く神に背いていることを知ることであります。……救われねばならないほどの罪人であることが分からない人には、キリストが何をしても無駄であります。……罪のことも、キリストを通して神から示されなければ、本当には分からない……。(36~37頁)

    福音はキリストとの生きた関係もたらす
    • キリストの福音というのは、ただ、キリストによって与えられた福音ということだけではなく、キリストが働く福音である、ということであります。福音はただの教えではありません。福音は紙に書かれたもの、聖書に書いてあるものではありません。……福音を信じて生きるのは、キリストが今一緒にいてくださって、働いておられることを信じることであります。ただの教えや信じることの内容ではなく、これを信じる者は、キリストが共に働いてくださるという、キリストとの生きた関係を持つことなのであります。(52~53頁)

    神の恵みは奇跡そのもの
    • 人間には、神の恵みぐらい分からないものはありません。……恐らく一番大事なことは、神の恵みが奇跡であることが分かっていないからであります。……神の恵みが行ったこと、パウロのような律法にしがみついていたパリサイに、十字架の信仰を受け入れさせたということこそ、まさに奇跡的事件ではありませんか。……そのことは、パウロの場合というように、他人事のように言うのは間違いであります。……自分のような者がこうして救われた事実を考えると、それはまさに奇跡ではありませんか。十字架による信仰が生まれるたびに、我々は、そこに、神の奇跡を見る思いがします。それが神の恵みなのです。(93頁)

    信仰生活の目的
    • 教会の中では、みんなと楽しくすることだけが大切なのでしょうか。そうではありません。本当は信仰生活は孤独なものであります。最後には、神と自分だけの生活であります。……教会生活のゆえに一層よく祈れるようになるということは、誰でも望むことです。しかしそれは、神と自分だけの生活をさらに確かにすることではないでしょうか。もしそうでなかったら、共に信仰生活をすることには、意味がありません。(105頁)

    本書では、ガラテヤ書の前半の半分ぐらいが20回に分けて語られています。途中で著者が召天したため未完なのが残念ですが、いずれの説教も大変充実したものです。

    JELA理事
    森川博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年1月24日木曜日

    【信仰書あれこれ】ルターの言葉


    本書は「信仰」「みことば」「経験」「自由」「人の心」の五章からなり、折々のルターの告白の言葉、神学的思索の表現、洞察や体験の言葉、困難を乗り越えて体験した言葉が掲載されています。

    以下では、「信仰」の章から、いくつかの言葉をご紹介します。冒頭に出典となる文献名、引用文最後の括弧書きは、本書『ルターの言葉』の中での頁数です。

    ◇◆◇

    『すべてのキリスト者が騒乱や謀叛に対し用心するようにとのマルティン・ルターの真実の勧告』1523年より
    • 私は、人々が私の名を語らず、ルター派などと言わずに、自分は一人のキリスト者であると言ってほしい。ルターとは何者なのか。その教えは私のものではないではないか。また、私は、誰のためにも十字架につけられていない。……いったいどうして、憐れな鼻持ちならぬ蛆虫の袋である私が、キリストの子たちを私の卑しい名で呼ばせることなどできるであろうか。……私はけっして人の主人ではなく、またそうなろうとも望まない。私は教会の会衆と共に、唯一の我々の主であるキリストの、唯一で公同の教えを持っているのである。(14~15頁)
    『ローマ書序文』1522年より
    • 信仰は私たちの内における神の働きである。この働きが私たちを変え、私たちを神によって新しく生み出し<ヨハネ福音書1:2>、古いアダムを殺し、心、勇気、感覚およびあらゆる能力を持つ、まったく別の人へと私たちを造り変え、聖霊をもたらす。まさに、信仰とは、生きた、勤勉で活動的、強力なものであるから、絶え間なく善いことをしないわけにはいかなくなる。また、信仰は善い行いをなすべきかどうかを問わず、人が問う前にすでに行っており、いつでも行うのである。このように行わない人は、信仰のない人であって、信仰と善い行いを求めてうろうろ歩き、周囲を見回すが、何が信仰で善い行いかも分からず、それでも、信仰と善い行いについて、多くの言葉をぺらぺらとしゃべり散らすのである。(17頁)
    • 信仰とは神の恵みに対する、生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。神の恵みへのそのような信頼と認識が、神に対して、すべての被造物に対して、人を喜ばしく、大胆で、快活にさせる。これは、聖霊が信仰において行うのである。そこで、信仰は、強制されることなく自ら進んで、誰にも善いことをなし、誰にも仕え、あらゆる事に耐え、彼にこのような恵みを示した神に愛と賛美を捧げる。火から炎と光を分けることができないように、信仰から行いを切り離すことは不可能である。(17頁)
    『待降節説教集』(年不詳)より
    • あなたの救いは、キリストが信心深い人にとって一人のキリストである、ということにあるのではない。キリストはあなたにとって(たった)一人のキリストであり、この方があなたのキリストであるということに、あなたの救いがあるのだ。この信仰は、あなたにキリストを慕わせて、心やさしい思いを生み出す。そこで、強制されなくとも、愛と善い行いがその後に伴っていく。しかし、そのような結果にならないなら、きっと信仰がそこにないのである。なぜなら、信仰があるところ、そこには聖霊もいて、愛と善とを私たちの内に生じさせるはずだからである。(23頁)
    『二種陪餐について』1523年より
    • あなたはルターの弟子ではなく、キリストの弟子でなくてはならない……。あなたが「ルターや、ペトロ、パウロがこう語った」と言うのではなく、あなたは、キリストご自身をあなた自身の良心に感じとり、全世界がこれに敵対しようとも、揺るぎなく、これが神の言葉であると確信していなければならない。あなたがこれを自覚していないなら、あなたはきっと神の言葉をまだ味わったことがなく、また、その耳を人の口やペンに向けていて、心の底からみことばに固着していないのである。(27頁)
    『ヨハネ福音書第14、15章による説教』1537~38年より
    • そこで、あなたは理解する。神を信じるということは、つまり、悪魔やこの世の作り出すすべてのもの、貧困、不幸、恥辱、罪などに挫けない寛容な心を持つようになることなのである。(29頁)
    上記には比較的分かりやすい言葉を引用しましたが、本書には難解な表現も数多く見られます。じっくりと時間をかけて読まない限り、ルターの表現意図を取り違える可能性があること、ご注意いたします。

    JELA理事
    森川博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】