2018年11月30日金曜日

【信仰書あれこれ】生活のスパイス


聖フランシスコ・サレジオのすすめ――生活のスパイス365日』(改訂版2006年、ドン・ボスコ社)をとりあげます。

胸ポケットに入りそうな薄い小冊子(値段も手ごろ)です。一つひとつの短い言葉にスパイスが利いていて有益です。ちなみに矢印の後の言葉は森川の個人的な感想です。いくぶん「遊んでいる」部分がありますので、まじめ一筋の方は、矢印の後は読まないことをお勧めします。

◇◆◇

  • 永遠のためにならないものは、むなしいものばかりです。
    → 初球から160キロ超の直球です、空しいものばかりため込んでいる私には。
  • つらいことや悲しいことがあったとき、聖人たちはもっと不快なことを喜んで耐え忍んでいたことを思い出し、勇気を奮い起こしましょう。
    → これを実践するためには、苦悩の渦中で、それにはまり込むのではなく、一呼吸おいて自分を客観視する訓練やユーモア感覚が求められる気がします。
  • 徳の実践とは、あれこれ考えるよりも、主に信頼して自由に歩むように努めることです。
    → 冬の朝、布団から出ようかどうか悩んでいる時に思い浮かべるべき言葉です。
  • 他人を、神との関係において見ない人は、清く平等に根気強く愛することはむずかしいでしょう。
    → 恐らくどんなことも、「神との関係において見る」がキーワードなのでしょう。
  • 最も虫の好かない人に対して、何度も、柔和と愛徳を実践しましょう。
    → わかっているけど、できそうにないと感じる。ということは、本当はわかっていない、ということか。「何度も」が付くことでハードルが一気に上がります。
  • 自分の不完全さを知って不安になってはいけません。こうして私たちは自愛心や自分を過度に評価する危険から救われるので、むしろ喜ばねばならないくらいです。
    → 我が毎日を「喜び」に変えてくれる言葉です。
  • 自分の判断を捨てることほど、むずかしいことはありません。謙虚で完全になるために、これ以上必要なものはありません。
    → 実行するのが困難か否かということではなく、必要か否かということがキモだということですね。もちろん「神様の目から見て、今のあなたに必要」という限定的視点が入るのでしょう。
  • 霊的乾燥の中で行われた神に対する一つの愛の業は、楽にできたときの数多くの業より値打ちがあります。
    → 私がキャッチャーの時に何度も盗塁ができて喜ばないで、ソフトバンクの甲斐がキャッチャーの時に一つでも盗塁を成功させなさい、ということ……かな?
  • すべての必要事と仕事において、神を信頼しなさい。そうすれば常に成功するに違いありません。
    → この場合の「成功」は「神の目から見て」ということですね。定義上、神が失敗することはありえませんから。
  • あなたの生活を見た人が、同じように信心深くなろうと励みたくなるように、あなたの信心を愛すべきものにしてください。
    → こんなコラムばかり書いてないで、外に出て行って困っている人を助けなさい、という声が聞こえてきました。
  • なんの善も行わず、一日過ごしてしまうことは、大いなる悪です。
    → 激辛スパイシーです。単なる悪ではなく「大いなる悪」だという点がポイントか。
  • 実現不可能な偉大な事業を果たそうと情熱を燃やすよりも、私たちに与えられた小さな機会に忠実であることを神は望んでおられます。
    → 「大切なことは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめてしたかです」(マザー・テレサ)に似てます。まず求められるのは、与えられている「機会」を見逃さないことです。
  • 最も優れて、獲得すべきことは単純さです。
    → 自分ではずっと前に獲得しているように思いますが、恐らく私の考えている「単純さ」の中身と上記のそれは大きく異なるのでしょう。

数ページ眺めただけで、これだけのスパイスてんこ盛りです。これが120ページも続くのですから、お買い得です。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】C・S・ルイスと昼食を共にできたら


A・E・マクグラス著『C・S・ルイスの読み方――物語で真実を伝える』(2018年、教文館)をとりあげます。原書(2014年)のタイトルは”If I Had Lunch With C.S.Lewis”。

本書は、ルイスと昼食を共にすることができたならルイスは何を語ったであろうか、と著者が想像して書いたものです。悲しみに直面する人に、無神論者を友人に持つキリスト者に、キリスト信仰を最も適切に説明する仕方について悩んでいる人に、自分の信仰に疑いを抱いている人に……我々が人生にまつわる問題と格闘し、よりよい社会人になるためにルイスがどのように助けてくれるかを明らかにしようとしています。

◇◆◇

直観から導かれるもの
  • 人間には深い感情や直観があり、それは時空的存在を超えるところにある豊かなもの、我々の存在を豊かにするものがあることを直感していることをルイスは知っていた。人間の内には、深く、また強烈な憧れの感情があり、それは現世的な事物や現世の体験によっては満たされないものであるとルイスは言う。ルイスはこの感覚を「喜び」と呼んだ。そして、「喜び」の感覚は、それの究極的な源泉であるもの、目標であるもの、つまり神を直観しているのだと言う。神は、単純愚直な無神論や、だらけた不可知論などから我々を呼び覚ますために「喜びの矢」を我々の心に打ちこみ、我々の故郷に通ずる道を発見するのを助けようとしている。(27頁)

キリスト教という枠組みの首尾一貫性
  • 世界は曖昧模糊としており、焦点がないように見えるかもしれない。そのために我々は世界に秩序を見ることができない。だからこそ、我々は焦点を見定めるためにレンズを必要とする。ルイスにとってキリスト教はレンズを提供し、我々が存在全体をより明瞭に見るようにしてくれる。あるいは、譬を変えれば、我々はただの騒音ではなく、メロディーを聞くようになる。(35頁)
  • ルイスはこの「大きな見取り図」が、我々自身の人生のような個々の小さなことの意味も解明してくれると言う。……我々は大きな図像の中に置かれ、そこに一定の場所を与えられる。その図像は、我々なしには完結しない。我々に見慣れた世界が、より永続的で堅固なるものであることを理解する。存在全体の大きな全体像を把握することは、我々自身の世界を――及び我々自身を――よりよく理解することになる。(35頁)

物語を生きる人間
  • 私たちは誰でも物語のうちに生きている。物語は私たちの人生に形を与える「メタナラティブ*」である。……私たちの中のある者は社会の進歩という西洋特有の物語を想定して、その中で生きている。文明は(技術的に、社会的に、道徳的に)常に改善されていると考えている。他の人々はラジオやテレビが一日中流しているトークショーが売り物にする物語、個人の進歩という物語の中に生きている。つまり、最も大事なのは個人であり、よりよい情報、より多くの情報がよりよい自分を有機的に作り出すのだとされる。……そこで、ルイスは再び訊く。「君はどの物語のうちに生きているのだろうか。君は君の物語を賢明に選んだだろうか。君が君自身に語る物語に疑問を持ち、現実に合っていないのではないかと考えたことはないだろうか」。(64頁)
    *注:ナラティブは歴史物語とほぼ同じ意味で用いられる。日本書紀も平家物語もクロニクル形式で書かれているが、ナラティブである。ナルニア国物語もナラティブである。それらのナラティブは特定の目的や狙いを伝えるために語られる。メタナラティブの目的は、諸々のナラティブの意図や狙いが何なのか、それらの物語の中に生きる人々が作る社会がどのようなものになるかについて解明することである。(238頁)
  • 私たちはそれぞれ自分自身のユニークな物語を持っている。しかし、私たち自身の物語は「壮大な歴史物語」、私たちの物語に新たな意味と重要性を与える「大いなる物語」に結びつけられなければならない。……私たち自身の物語はより大きな何ものかによって枠が与えられており、それによって私たちは価値と目的を与えられる。ある意味では、信仰とはこのより大きな物語を心に受け入れ、私たち自身の物語をその一部とすることである。(78頁)
  • 信仰には、古い自分に死に、復活して新しい生命に生きるということを伴っている。……ルイスはこの主題をナルニア国歴史物語として翻案する。我々は物事についての自分自身の判断基準(準拠枠Frames of Reference)を持つことをやめる。私たちは自分自身の物語が罠になり得ること、その罠にかかって、自分は自分で作った牢獄の囚人になり得ることを知るようになる。私たちは、純粋に利己的な思いや行動のうちに閉じ込められる可能性がある。(80頁)

本書には、ルイスの著作(『ナルニア国物語』『キリスト教の精髄』など多数)を読むための手引き的な役割も与えられています。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】

【信仰書あれこれ】人生の四季

ポール・トゥルニエ著『人生の四季――発展と成熟』(三浦安子訳、1970年、ヨルダン社)をとりあげます。

医師である著者は、精神療法の技術とキリスト教的人間理解に基づいて、人間を全人格的に把握することによって初めて真の医療がなし得る、と考えます。

本書では、人間の生涯は絶え間ない発展の途上にあり、人生には誰もが必ず経なければならない様々な時期があって、時期ごとに神の計画が定められていることを唱えます。

以下では、子供から大人へ成長するために重要な役割を担う四つの要素(愛・苦悩・同化・順応<適応>)を説明した部分を引用します。

◇◆◇

<愛>
  • 両親の愛がたとえどれほど大きくても、それだけで子供の欲求を完全に満たすことは不可能……です。聖書はこのことをよく知っていて、人間というものはこの地上で絶えず焦燥に駆られ、無口で、頑固で、幻滅を味わいながら、失われた楽園への懐郷の念を苦くかみしめていなければならないのだと、私たちに告げています。この問題に対する解答が、神の愛なのです。(中略)近代人の特徴であり、現代文学に非常によく取り上げられているこの世の悲劇的な孤独に対する唯一の有効かつ偉大な解答は、個人を対象として注がれる神の愛です。(58~59頁)

<苦悩>
  • 苦悩そのものは決して価値のあるものではありません。……私たちが苦悩をどのように体験するかという、苦悩の受け止め方を問題にしているわけです。……私たち医師の任務は、可能な限り、身体的な苦痛や精神的苦悩に打ちひしがれている人間の味方となることにありますが、それと同時に、その苦悩や苦痛を意義ある体験たらしめるように助力することにあるのです。(60~61頁)

<同化>
  • たった一つ、無限に同化しうる対象があります。……私の同僚のアサジョリ博士の講演を聴いたことがあります。その講演で彼は、使徒パウロが、「私は生きる。しかしもはや私が生きているのではなくて、キリストが私の内にあって生きたもうのだ」<ガラテヤ書2・20>と言い表したようなイエス・キリストとの同化こそ大切なのだ、という主張を行ったのです。しかし……若い人が自分の選択を確定する前は、相対立するいろいろな立場の哲学を一通り学び知っておくことが出来れば、非常に有益だと思います。……私たちは自己放棄に至るためにはまず、のびのびと自己を展開させておかなければならないのです。はじめに自己主張するすべを最もよくわきまえていた人こそ、長じては最もよく自己を否定しうるようになるでしょう。(63~64頁)

<順応(適応)>
  • ある両親は子供を気遣うあまり、あらゆる緊張を自分の子供の周りから取り除いてやり、その子を人生の危機から保護しすぎています。こういう両親はその子をいつまでも子供の段階にとどめ、その子の発達を妨げ、その子が後になって、大人になってからも人生に適応していくことが全然できないようにしてしまっているのです。これとは反対に……早すぎる時期にあまりにも困難な適応を子供に強制しすぎる親もあります。こういう親たちは子供を老化させてしまい、このように本当に子供ではありえなかった子供は、その後、成人すべき年齢に達しても完全に一人前の大人にはなれないのです。(65頁)
  • 神が、「人が一人でいるのはよくない」と言われて、人に彼と性を異にする一人の女性を配偶者として与えられた時、神はこれによって人間に次のような課題を与えられたのでした。すなわち、人間は互いに適応するという一つの困難な課題に自分をさらさなければいけない、そして、その際、自分が降伏してしまうか、また相手を屈服させてしまうかのどちらかによって葛藤を回避することなしに、自己克服によって葛藤を真に解決しなければいけない、つまり、神は人間に本当の意味で成熟することを要求され、そのように人間に仕向けられたのです。(66頁)

本書は最近、日本キリスト教団出版局から復刊されました。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】 

2018年11月19日月曜日

【信仰書あれこれ】説教・伝道・戦後をめぐって

平野克己編『聞き書き・加藤常昭――説教・伝道・戦後をめぐって』(2018年、教文館)をとりあげます。

2017年の夏の二日間に、四人の日本人キリスト教教職者が聞き手となり、米寿を迎えた加藤常昭氏と説教や伝道などについて自由に話し合った内容をまとめたものです。

以下で引用するのはすべて加藤氏の発言です。

◇◆◇

牧師の使命が「職業化」することの問題
  • ……「あっ、牧師の務めは怠けることもできる」と気付きました。ルーティーンワークになって、忙しくしていて「いつもの通りに準備して、いつもの通りに説教していればいい」という誘惑に駆られます。……「自分にとって牧師が職業化している」、職業としての牧師職が成り立ち始めていると感じた時に、とても怖くなりました。その時に、一生に一度ですけど、「牧師は辞めた方がいい。こんな不誠実なことはない。牧師という商売をやったらダメだ。現状では、商売になりつつあるじゃないか、お前」という気持ちになりました。……「牧師を辞めなくてはいけない。そうしないと神様に対して不誠実だ」と問いました。(56~57頁)
  • ……牧師は皆忙しい。結婚式、葬儀、堅信礼教育……。そうすると、説教を手早くまとめるようになって、日曜日に説教という言葉を語ることに上手になっていきます。(中略)牧師が職業化し、説教も一種の職業的営みの中で固定化していきます。固定化すると何が起こるかというと、いのちがなくなるんですよ。(124頁)

説教に求められること
  • 説教者を問う』の中でも、アメリカの歌手のトンプソンによる、オランダでの歌手育成のセミナーの例を挙げています。その時にアルトの歌手が行き詰ったような歌い方をした時に、「あなたは聴き手なんか無視しなさい。自分自身のために歌いなさい」って言っています。その歌手をくるっと後ろ向きにさせ、歌わせています。私は非常に感動しました。自分自身を生かすことができない歌が、聴き手を生かすことがあるでしょうか。……説教は自分自身を新しい悔い改めに誘い、キリストによって義人として装われるというプロセスをいつも起こす説教であるはずです。(147頁)
  • 私が実践神学を教わった平賀徳造先生がよく言われたのは「説教というのは御前講義である」ということです。……平賀先生は、私たちは、神の御前、キリストの御前で語っているのだと言っておられました。(148~149頁)
  • 日本は幸いにして、説教によって自分の礼拝出席を左右するという考え方はありません。それでも、逆に言うと、それで牧師が怠けていることがあると私は見ています。それで、信徒はその牧師がどんな説教をしようが、めったに何も言わないでしょう。それが一つの日本での困った状態を作っている……。(168頁)

自由祈祷の大切さ
  • 私は自由祈祷を非常に重んじています。式文祈祷でないほうがいいと思っているんですよ。聖餐の祝いの時でも自由祈祷です。……プロテスタントの基本は自由祈祷だと思います。だから礼拝の祈りはもう当然のことで、自由な祈りができなくてはいけません。……自由に言葉を発した時に、いつもフレッシュな祈りになっているということが大切です。日頃の祈りの生活が問われることだと思っています。日頃どんなに生きた交わりを主イエスと交しているか。……今の日本でいきいきと信仰に生きている時に、牧師がどんなに力のある自由祈祷ができるかということです。長老も信徒も含めて、教会が生きているしるしになると私は思っています。(169~170頁)

LGBTについて
  • なぜそういうことが現代において表面に出て来るかというと、今、人間は自分中心のものの考え方しかしないでしょう。聖書の言葉よりも、自分の思い、願い、欲望が先なんです。そういうことではなくて、神のみ言葉の前では自分のどんな思いも、抑制するとか捨てるとかいう決断があるはずだと思います。そういう意味では、対応しながら、そういうふうに導くことができないかなという思いがあるんです。だから基本的にはあまり賛成できない。……それは、キリスト者の倫理としても単純に許されることではありません。ただ、律法主義的に裁くことでもないのです。なぜかというと、万人の中にある一つの傾向が、神の戒めに背くというのは、例えばそういう形で出て来ると思うからです。そのことについて同情は持たなくてはいけません。だからと言って、賛成するということでもないと思います。(248~249頁)

加藤常昭氏はキリスト新聞社発行の『自伝的説教論』と『自伝的伝道論』においても、自身のキリスト信徒・牧師・神学者としての歩みを詳細に振り返っていて、参考になる面が多々あります。

JELA理事
森川博己

【信仰書あれこれ】日ごとの恵みを与えてくれる本

ジョージ・ダンカン著『日ごとの恵み――ケズイックの霊想』(増田誉雄訳、1981年、いのちのことば社、原著は1975年)をとりあげます。

副題にある「ケズイック」というのは、ケズイック・コンベンションのことであり、イギリスを発祥とする、ホーリネスが始めた超教派のキリスト教の聖会です。日本でも毎年行われていて、ジョージ・ダンカン氏は1963年から80年にかけて、講師として5回来日されています。

以下では、二つの黙想を引用します。

◇◆◇

生きることは建てること(9~10頁)
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7・24)
  • (前半略)主イエスは、人の生には決定的な要素というものがあることを示している。機会は全ての人に平等に与えられている。ここに出て来る二種類の人たちも、主のことばを聞く機会を平等に与えられている。しかし、それぞれ異なった選択をしており、それが決定的なものになっている。このことはまた、教会に集う人々についても言える。同じ教会に出席し、同じ説教を聞き、同じ聖書を持っていながら、各人各様の選択をする。そして、それが人生に決定的なものをもたらすのである。……聖書は全体を通して、すべての選択の中で、主イエス・キリストに対する選択の態度ほど重要なものはないと強調している。これは、今の世における生だけでなく、来るべき世における生をも決定する。それゆえ、自分の、主に対する態度がどうなっているかを、時間をかけて省みなければならない。私たちは、主のことばを聞いて信仰を働かせ、みことばに服従してそれを行う者となっているだろうか。

確信(13~14頁)
「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(Ⅱテモテ1・12)
  • もし私が営業に携わるとするなら、二つのことで非常に明確に確信を持つことにしたい。まず、自分が販売しようとする商品の価値について確信を持たなければならない。次に、その商品に対する需要があることを確信しなければならない。……優秀なセールスマンにとって本質的に重要なことは、商品価値とか、サービス内容の価値、またそれに対する需要のあることについての強い確信を持つことである。キリスト者の生活についても同様である。「確信していること」が出発点となる。周知のように、初代教会のキリスト者たちは、自分たちの提供しているものの絶大な価値に強い確信を持っていた。……したがって、私たちがまず、より豊かな、満ち足りたキリスト経験に入ることが、何をおいてもしなければならない緊急事である。それは、より豊かないのちにあずかるためばかりでなく、キリスト経験の尊い価値を確信し、他の人々にそれを伝授するためである。もろもろの罪の赦しということを別にしても、日々の実際生活で他の人々に分かち与えるに価する何かを、私たちは持っているであろうか。初代教会において、それはまさにキリスト経験そのものであった。この経験は完全に心を満足させるものであり、驚異的な価値のあるものであったので、初代のキリスト者たちは、キリストご自身を高く掲げて宣べ伝えたのである。

この本は、以前に紹介したO・ハレスビーの『みことばの糧』と並んで、毎日のデボーションに特別に有益なものだと思います。

JELA理事
森川博己

2018年11月17日土曜日

【信仰書あれこれ】東北のマザーのいのちのことば

佐藤初女著『いのちのことば 心の道しるべ137言』(2011年、東邦出版)をとりあげます。

著者はカトリック信者で、1983年に「弘前イスキヤ」、92年に「森のイスキヤ」を開設。迷い、疲れ、救いを求めて訪れる人に食事を供し、寄り添うことで多くの人々の再生のきっかけになりました。

本書に掲載された137の言葉の中から、いくつかをご紹介します。括弧の数字は本書内の通番です。

◇◆◇

苦しいのは、自分が刷新されているから(33)
  • かつて大きな苦しみの中にあった時、神父様にお話ししたら、「苦しみなくては刷新ははかれません。その苦しみを乗り越えた時に、恵みはやってくるのですよ」と励ましてくださったことがありました。以来、苦しい時は「私は今、刷新されているんだ」と思うと、ずいぶん楽になるような気がします。

 悲しさだけに囚われないで(46)
  • たとえば肉親を失うということは、それは悲しいことです。でも、その悲しさだけに囚われないで、その人が生前にどのように望んで、どのように生活した人であるのか、そのように自分も生きるというのが慰めにもなり、力にもなります。

  相手ではなく、自分と向き合う(49)
  •  悩んでいる人や心に傷を負って苦しんでいる人は、本当のところでは苦しみを真っ向に受けとめないで、逃げているように思うのです。もし相手に腹が立つなら、まずは腹を立てている自分を認めること。心が苦しんでいるなら、悲しいというという自分をそのまま受け入れることです。自分を見つめることもせず、相手に原因を探しても、何の解決にもならない。そして感じることを抑えてしまうと、必ず無理が出てきます。

 限界を超えた行動こそ、魂に響く(65)
  •  「奉仕」や「犠牲」というのは、自分を苦しめることではありません。誰にでもできることを超えて、相手のために行動するということです。

 大きなことはできなくても、小さなことならできる(75)
  • たとえば自然災害が起きた時。大きく考えたら、私たちにできることは何もないわけです。それでも、まず自分に何ができるかを考えたいと私は思うんです。それは小さなことに思えても、できることからやる。

 「友のために命を捨てるほど尊い愛はない」(104)
  •  とても疲れていた時にお客さんが来て、今日は具合が悪くてと言っても聞こえていない様子でした。仕方がないのでずっと話を聞いて、晩ごはんも食べてもらって、次の日は会の準備で青森まで行かないといけなくて。そんな状態で弘前から汽車に乗っていた時のこと、「友のために命を捨てることほど尊い愛はない」という聖句の文字が、電車の窓から入ってきたんです。周りの人には見えていないようでした。とても不思議なことでした。――後日、この話をしたら神父さまは、「不思議というのは神の働きなんだよ」とおっしゃいました。
佐藤初女さんの別の本『いのちをむすぶ』(2016年、集英社)も紹介しておきます。初女さんの珠玉の言葉とともに、岸圭子さんが撮ったきれいな写真が多数、見事な配置で掲載されています。プレゼントするなら、こちらのほうが喜ばれるかもしれません。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】私の好きな牧師

渡辺善太著『宗教座談』(1939年、新生堂)をとりあげます。

本書は、1934年以降に『三田福音』、『福音』、『福音新報』という当時のキリスト教雑誌に埋め草的コラムとして書かれた二十のエッセイをまとめたものです。

以下では、最初に掲載された「私の好きな牧師」を紹介します。表現意図や使用語彙を可能な限り尊重しつつ、原文の旧漢字・歴史的仮名遣を現代表記・表現に改めて引用します。

◇◆◇

牧師に対する最大の要求
  • 私の考えでは、牧師に対する最大の要求は、教会の集会のうち主位にある、日曜礼拝において、本当に私の霊魂を恩寵の感激に連れ込んでくれる説教を聴かしてほしいことである。このことは私の知己の中で種々の専門を持っている人が、ほとんど例外なしに言うことである。日曜の朝こちらが敬虔なる思いを用意して、礼拝に出席して、そこで、直接には恩寵に連絡のない講演的説教を聴かされたり、説明的、講義的の事柄を聴かされたりすると、実際うんざりしてしまう。(1~2頁)

 牧師が語るべきこと
  •  結局牧師は……我々の信仰の本質の問題について語ればよいということになる。そうすれば、それを聴いた人はそれによって一週間分の霊的活力を与えられて、これをそれぞれの自分の専門の領域に応用していくから、専門でないことをしゃべってうんざりされるよりも、はるかに効果的だということになる。(2頁)

 牧師自身の祈りの生活の重要性
  •  真に聴衆を恩寵の感激に入らしむるということは、普通のことではできない。少なくとも牧師自身がその密室で真に与えられ、そして恵まれた経験から発するものでなくてはならぬ。……自分は本当に平凡だという謙虚な自己認識を持った牧師にして、初めてその密室の霊交にたえることができる……。牧師にしてこの種の説教ができれば、真の意味において神の国の建設に貢献できると思う。すなわち自分の説教の聴衆全体が、自分の説教から霊的活力を得て、それぞれの専門に応用するとすれば、牧師自身が社会的事業に駆け回っているよりも、より多くの社会的貢献をなしえるということになるだろうと思う。(3頁)

 心に響く説教を生み出すもの
  •  私は説教を聴くと、まずその説教の内容とか組み立てとかいうより、その説教者から溢れ出る霊力の如何ということにすぐに注意させられる。よく人の説教を聴いて、内容もよく、組み立ても立派であっても、ちょっとも(心に)響かない、(心に)触れないということがある。……こういう場合に痛切に感じることは、その説教者の密室生活の欠如ということである。今日までは「講壇より街頭へ」と叫ばれてきたが、今日はこれを逆にして、「街頭より密室へ」と叫ばなければならない時代であるように思う。(4頁)

 霊的深さと思索の深さ
  •  深い思索をいけないということではない。真に人が恩寵に浸る生活を送っていれば、その人の全能力、ことに頭脳は深く深く「考える」ようになって来るものと思う。そうならないのは、何かその密室生活に間違った点があるのではないかと思われる。(4~5頁)
  •  私は私の牧師に専門的な哲学の知識を持ってもらいたいとは、さらさら思わない。しかし深く考え、徹底して哲学してもらいたいと思う。いったい、霊交の体験の一つの結果は、人生に対する態度が真面目になるとともに、人生の事実に対して、真に深い洞察を持つようになるということである。哲学するということは、この意味において霊的体験の当然の結果である。説教の中で、人生の事実に対してあまりにもこれを単純に片付け、独断的に断定する浅薄さには、私はたまらない嫌悪感を感ずる。(5頁)

 信徒が自らを霊的に養える手立てを牧師は与えなければならない
  •  信者が養われるということは、教会の集会や、説教だけでは十分ではない。自分自身で養わるべき方法と材料を教会の指導者が与えてやらねばならない。……聖書……から霊的の力を得て、自分の活動の源泉にするというには、かなりの修養がいる。この意味において教会で、真の意味における聖書研究会がもたれ、そこで真の聖書の味わい方の手ほどきが与えられるならば、信者にたとえ集会の当日、用事のために出席できないことがあったとしても、自身の聖書の味読によって、その信仰生活を持続していくことができる。(6~7頁)

本書の単行本はネットでも入手困難のようですが、『渡辺善太全集 第5巻』(1966年、キリスト新聞社)に所収されています。

また、以前に本欄で、渡辺善太氏の説教集『わかって、わからないキリスト教』をとりあげています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】

2018年11月12日月曜日

【信仰書あれこれ】古いものと新しいもの

森有正著『古いものと新しいもの 森有正講演集』(1975年、日本基督教団出版局)をとりあげます。

この欄では以前、森有正+加藤常昭+古屋安雄の鼎談『現代のアレオパゴス』を紹介しました。今回のものは、著者が全国5か所で行った講演集です。

以下では、1970年10月25日に青山学院で行われた講演「経験について」の一部をご紹介します。

◇◆◇

真実の「経験」がないことによる問題
  • 「経験」というのは、ある一つの現実に直面いたしまして、その現実によって私どもがある変容を受ける、ある変化を受ける、ある作用を受ける、それに私どもは反応いたしまして、ある新しい行為に転ずる、そういう一番深い私どもの現実との触れ合い、それを私は「経験」という名で呼ぶのですけれど、敗戦は決していわゆる本当の意味で敗戦としては経験されなかった。……大部分の国民にとってこの敗戦が本当の敗戦としての「経験」になっていなかったということ、このことについて今日いろいろな冷厳な事実が出て来て、私どもを非常にとまどわせ、多くの処置を誤らせた、ということがあると思います。このことは決して忘れてはならないと思います。(16~17頁)

 「私」とは、真実の「経験」の総体のこと
  •  その経験ということに、ある時目覚めた時に、その経験の全体が自分なのだ、それが一人の人間というものの意味なのだ、つまり、私が経験を持っていることを本当の意味で感じる、あるいは経験を持っていることを経験すると言うのはおかしいけれども、私どもの現実が実は私の経験そのものである。そして私自体である。私の言う現実は経験によって見られた事実で、主観的な現実では全然ありません。ここにマイクがある。それだけではこのマイクは私とは何の関係もないもので、ここで私がマイクを使用することによって私の経験のうちに入っているわけです。(28頁)

言葉を正しく用いるには、それが示す実体を自分で「経験」することが不可欠
  •  私どもは正直という言葉も、愛という言葉も、エゴイズムという言葉も、小学生のころから全部知っているわけです。しかし、それが何を意味するかということは、私どもの前にその実体が現れた時に分かるわけです。私どもは……平和という言葉を使うし、正義という言葉も使うし、いろいろな言葉を使うけれども、それを付ける実体を私どもは持っていますか。問題はそれですよ。……私どもは小学校の時から教わった数千、数万の言葉を定着させることのできる経験の実体というものを、私どもが持っているかどうかという問題です。それに結びつけられたものを持っていないで言葉だけをもてあそびますと、どんなことでも言えるし、どんなことでもできるわけです。その時出て来るものは限りない混乱です。(47~48頁)

 言葉の意味内容を「知る」ということ
  •  私どもは本当にいい行為を見た場合に、これが善だということが分かるわけですよ。その時に昔から何億人かの人々が使っている善という言葉を、それに付ける。その時、私自身の経験として、私自身の行為において、善というものを知ったことになるわけです。善ということの定義は何だろうか、といってカントや何かを読んでも、善ということは絶対に分からない。一つの善に、私どもの生涯において、これが善だと私どもが呼んだものに出会った時に、初めてそれが私どもに対して生きた信仰になる、生きた経験になる、また人に向かってそれが説明できるようになる。(49頁)

上記の部分は、「信仰」を考える上でも意味があります。つまり、読んだり聞いたりしただけの教義や教理を一方的に振りかざすだけでは何の力もなく、その実体に触れた言葉だけが(信仰する)自分にとっても、(証しをする)他人に対しても説得力がある、ということでしょう。生きるキリストとの出会いによって、信仰の実体は与えられるはずです。

著者が説く「経験」を理解するために有益で入手しやすい本として、『思索と経験をめぐって』(森有正著、1976年、講談社学術文庫)があります。ここには、本講演「経験について」の全文と、「経験」の真の意味を理解する助けとなる「霧の朝」「変貌」「木々は光を浴びて」等の論稿が収められています。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】 

2018年11月8日木曜日

【信仰書あれこれ】デボーションのための好著


O・ハレスビー著『みことばの糧――日々新たに』(鍋谷尭爾訳、2000年、日本キリスト教団出版局、原著1932年)をとりあげます。

著者は本書の出版意図を次のように説明します。
「ここにもう一冊の『みことばの糧』(デボーションの本)を送り出すことは、……私の家庭礼拝の経験から言えば、この種の本は時々、取り替える必要があるからです。何年も毎日、同じ本を使ったならば、しばらく休ませると良いでしょう。そうすればもう一度使い始めた時、新鮮さをおぼえるに違いありません」。(3頁)

異なる二日間に同じ聖書箇所から語られる内容を、以下にご紹介します。

◇◆◇

1月9日(19~20頁)
  • <聖句> この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。(ヨハネ7・17)
  • <説明> 今日ほど、ノルウェーで、多くのクリスチャンがいた時代はありませんでした。それと同時に、これほどの不信仰者のいる時代もありませんでした。わずか数十年前までには、聖書が神のことばであることを疑う人は少数でした。ところが、今日では、知的な人であろうと無学な人であろうと聖書が神のことばであることを疑う人は多いのです。……以前には疑問を持つ人が少なかったのを、特別に称賛する必要はありません。それはキリストについての神のことばを個人的に体験することなしに、社会全体がそうであったからです。……しかし、聖書は神のことばであるという一般的な気運に賛同しているからといって、魂が救われるわけではありません。とくに、聖書の権威が疑われるようになると、この立場はもろいのです。これが今日起こっているのです。
     疑いには二種類あります。一方の立場は、良心によって自分の生活が責められる時、自分のあいまいさを弁護します。一方の立場は、自分が疑っていることを悲しみ、あいまいさを断ち切って、静かな動くことのない確信に到達したいと願っている人々です。……これに対してイエスは言われます。「この方の御心を行おうとする者は、誰でも私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」。イエスは神の御心を行おうとする者は、必ず個人的な確信を得ると約束しておられます。問題は、あなたが、今すぐ神の御心を行おうとしているかどうかにかかっています。
 1月12日(22~23頁)
  •  <聖句> 同 上(ヨハネ7・17)
  •  <説明> 多くの、信仰を持たない人たちは、頭が良すぎて信じることなどできない、と考えています。しかし、それは間違っています。信仰は頭の問題ではなく、体験の問題だからです。信じないのは、まだ体験していないからです。イエスはこのような体験を、「この方の御心を行う」と表現しておられます。神の御心を行う人は、確信を得ます。(中略)たとえば、「隣人にしてもらいたいことを、隣人のために行いなさい」という戒めがあります。イエスは、この戒めを行いなさいと命じられます。議論したり、話し合ったり、……するのではなく、ともかく実行するのです。その時、今まで考えなかった新しい経験をするでしょう。まず第一に知ることは、隣人にしてほしいと思うことを、(自分は今まで)隣人にしていないということです。第二に知ることは、それを実践することは不可能であるということです。第三に知ることは、自分のうちにそれを実行する意志がないということです。それはあまりにも労苦を伴う損な行為だからです。こうして、イエスが「あなたは罪人だ」と言われる意味を理解し始めます。何が真理であり、正しいかを知っても、それを実践することをしないからです。
     そこで、神に祈ることから始めようではありませんか。……祈るとは、率直に、信頼を持って神に語りかけることです。自分が疑問を持っていることを、率直に神に語り始めましょう。また、毎日の体験していることや、今、神の御心を行いたいと願っていることも話しましょう。そうすると、短い時間のうちに、疑問に思っていたことが神の御前で明らかになっていることが判ります。また、イエスが、神の前であなたが罪人であると教えられた意味が判り、キリストの十字架が、いかに尊く、信頼すべきものであるかが判ってくるのです。
本書はノルウェー語原著から和訳されたものです。以前に同名の書籍が岸恵以氏の訳で聖文舎から出ていましたが、それはノルウェー語原著を英訳したものをさらに和訳したものでした。

 訳者あとがきにノルウェーの宗教的課題と著者の背景が簡潔に記されています。
「ノルウェーは今日まで国教会制度であるため、絶えず精神的刷新と霊的覚醒運動を必要とした。信徒説教者ハンス・ニルセン・ハウゲ<1771~1824年>はそのような意味で、今日まで大きな影響を及ぼしており、ハレスビーもまた、その流れに立つ神学者である」。(367頁)
 JELA理事
森川博己

 ◆◇◆

【関連リンク】

【信仰書あれこれ】確かな生き方のために


岩島忠彦著『いのちへの招き――確かな生き方のために』(1995年、海竜社)をとりあげます。

以前に本欄で著者の説教集を2冊とりあげました。『説教集 みことばを生きる』と『説教集 福音の記憶』です。本書も著者が教会で話した内容を書籍化したものですが、その特徴を著者は次のように記しています。
「私はここでお話しすることが、誰にとっても通じることであり、大切なことであると考えています。(中略)ここで私は、自分の頭と心と体で経験し、納得したこと以外のことについてお話しするつもりはありません」。(4~5頁)
以下では、「信仰がわが身に実現するために」と題された部分をご紹介します。

◇◆◇

神を信仰する人間がとるべき基本姿勢を著者は、イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊操』の「原理と基礎」という部分から説明します(丸数字は著者が便宜的に付加)。
  • ①人は主なる神を賛美し、敬い、これに仕え、それによって自分の霊魂を救うために造られたのである。②そして地上にあるその他の事物(もの)は、人のために、また人が造られた目的を全うするための助けとして、造られたのである。③したがってこの目的を全うする上に、助けとなる限りその事物を用い、妨げになる限りこれを棄てねばならない。④そのため、人は、すべての事物に対して、それが自由意志にゆだねられ、禁じられていない限り、偏らない心を持つようにすることが必要で、すなわち、我々は、病気よりも健康を、貧困よりも富貴を、侮辱よりも栄誉を、短命よりも長寿を望むというようなことをせず、⑤その他万事において、ただ我々が創造された目的に一層よく導くものだけを望み、選ぶようにすることが大切である。(本書259~260頁) 

著者は上記の原理を、信仰する人間すべての「共通の鉄則」だとし、「神・人間・地上にあるその他のもの」という三者の関係を軸に論を展開します。①については、こんな感じに。
  • 「人」というのは自分以外にないわけです。みんなそれぞれ自分が「人」なのです。「私は」と考えてみないといけません。……自分は何のために造られたかということですが、まず自分自身で勝手に決めるようにはなっていないということです。(260~261頁)
  • 私という人間は神からの定義によって存在しているのです。世界の秩序も、自分の存在も、自分の心の構造も、あらゆることは自分の設計によるのではありません。ですから、それに則って自分を使わないと、自分を生かすことができません。(261頁)
  • 造られたということは、なにも昔に造られたというわけではなく、今もそうだと言われているわけです。神が自分を支えているのです。だからいつも造られ続けているのです。そのとき、自分が何を目的に、ここに存在するのかというと、この世のものを目的にすることはできなくなっているのです。(261頁)
  • アウグスチヌスは「神は私たちの重力」という言い方をしています。自分がどんな状態であれ、「神は私の重力」であるから、「私はそこに憩うまでは決して安らぐことがない」と。……どこにあってもその力は働く、常にそこに向かうところのそれは、実はこの世のものではない、……と。ですから、それ(=神)を賛美し、敬い、それに仕える、という言い方をしています。(261頁)
  • 小さな自己満足とか、いろいろな些細な喜びとか、虚栄とか、生活の奢りとか、そういうもので自分を満たしきることはできない。……一生ずっと、自分のパートナーにできるものは神様しかいない。そこに自分の生きる焦点を合わせない限り、本物になれないように人間はなっているのです。(262頁)
  • そういうところに焦点を合わせた時、自分が生きていることに喜びを感じるようになります。生きていることに平和を感じることができるようになります。結局、本来の秩序というものに溶け込み、自由を感じることができるようになると思います。(262頁)
  • 「神を賛美し、敬い、これに仕える」。自分の存在が神に波長を合わせていくようになるならば、その存在自体が神への「賛美」になっていきます。なにも教会へ行って賛美歌を歌わなくてもいいわけです。(262頁)
  • あるいは、「敬う」とは、奢った人間であったらだめだ、ということです。俺は何かできるのだとか、自分がいなければ駄目だとか、そんなことではありません。必ず神を思っていることが敬うということです。人は、自分は空しいものだという、根本的に地べたに跪いている姿勢を持っているときに初めて、自分が何であるかがわかる、つまり神に向かっているということなのです。(262頁)
  • さらに「仕える」とは、そこに気づいて実際の生き方として、仕えるという言葉に代表される「行動」に移っていって初めて、本物だということなのでしょう。(263頁)
  • 人は「自分の救いを全うするために」生まれた。人は救われる必要があるのです。けれど救われるというのは、自分自身の無秩序、無軌道から、本来の姿に辿りつくこということ、それ自体が救いです。(263頁)

本書135~219頁(洗礼・堅信・ゆるしの秘跡)は、著者の近著『キリストへの道』(2017年、女子パウロ会)に転載されています。本書が入手困難になったためでしょう。私としては、最終章(221~269頁)こそ転載してほしかったところです。

JELA理事
森川博己

◆◇◆

【関連リンク】  

2018年11月2日金曜日

【信仰書あれこれ】神より神へ

以前に、ペトロ・ネメシェギ著『キリスト教とは何か』を本欄で紹介し、大変評判がよかった(と勝手に推察します。<笑>)ので、同じ著者の別の本をとりあげます。『神より神へ』(1968年、聖パウロ女子修道会、ユニヴァーサル文庫71)です。

書名についてこんなエピソードが記されています。著者は幼少の頃、夏休みに叔父の家によく行き、家の正門の前にそびえたつ巨大な菩提樹に心を魅かれました。そして、枝が天に向かって幾重にも伸びている一方で、太い根が何本も地に張っていることに気づきます。その大切な記憶とともに成人した後、オリゲネスの書物に「父なる神は根である」という言葉を発見します。「天にまします我らの父よ」として、以前は神というと上に向かうことばかり考えていたのに、神が万物の根でもあり、すべての出発点でもあると知らされるのです。そこで、根より大空へ、つまり「神より神へ」という表現で我々の存在を表わすことがふさわしいと書名に採用したようです。(本書1~3頁を森川が自由に要約)

◇◆◇

究極的な源泉
  • 神の言葉と秘跡の二つは、私たちがキリスト者として生活する上の根本的源泉であります。しかし、こう言っただけでは、私たちはまだ究極的源泉にまで遡ってはいません。神の言葉や秘跡が、私たちの生命の源泉となるのは、それらを通してキリスト自身が私たちに出会うからです。……私たちはみな、「キリストから出発し、キリストへ向かっています」。キリスト者は自分の生活のすべてがキリストから出ることを深く理解していなければなりません。しかし、……最も究極的な源泉は、父なる神であります。……父なる神は慈しみ深い愛の永遠の決定により、この世を作り、その中心にキリストを置き、私たちをキリストの兄弟とし、この世のいっさいのものを唯一のかしらであるキリストのもとにまとめられるのです。(3~4頁)

キリストが与える最大の賜物
  • キリストが私たちに与えられている最大の賜物は、聖霊ご自身であります。「聖霊の賜物を受ける」という表現が聖書の翻訳によく見られますが、それは原文を正しく訳したものではありません。「聖霊という賜物」と訳すべきです。聖霊こそ賜物なのです。恵みには神と区別された賜物ももちろんありますが、主要な賜物は聖霊ご自身です。聖霊は心の中に太陽のように現存し、聖霊を受けた人の心は徐々に照らされます。蝋に印が刻まれるのと同じように、聖霊は人間の心の奥底にご自身の本性を刻み込まれるのです。私たちの心を徐々にキリスト化していくこと、これこそ復活したキリストの最大の賜物である聖霊の働きです。聖霊の勧めに従って考え、感じ、行動し、それに反するすべての思いを遠ざけることは、私たちキリスト者に課せられた使命であります。(17頁)

本来的な信仰
  • 信仰は、人間が自分のすべてを、啓示する神にゆだねる、全面的な自己奉献であるときにのみ、信仰のあるべき姿をとります。……全面的な自己奉献を伴わない信仰は、長続きしません。そして少なくとも何らかの形で神との出会いを望まないならば、信仰は全然成り立ちません。そこから、一口に信仰と言ってもどれほどの段階があるかということが分かります。信仰は一定の教義を受け入れるか受け入れないかという頭の問題だけではありません。人は頭だけではなく心で信じます。信仰は人の心の中でますます深められていくべきものです。(28~29頁)

聖霊の光による信仰
  • 人間理性だけを働かせて信仰に至ることはできません。このことを聞いて驚く人がいるかもしれませんが、キリスト教の教えによりますと、神の啓示を信ずるためには、キリストを通して与えられる恵み、信仰の光と言われている聖霊の恵みがどうあっても必要です。……福音書の中でいろいろな表現をもってはっきり教えられています。ヨハネ福音書の六章に、「父によって引き寄せられる人でなければ、誰ひとり私のところに来ることはできない」(6・44)というキリストの言葉が書かれています。また、パウロはコリント前書で、「聖霊によらなければ、誰もキリストは主であると言うことができない」(12・3)と言っています。……信ずることが正しいことであり、神が私たちに期待しておられることだと、私たちは聖霊の光を受けて理解するのです。(35~36頁)

信仰は毎日のこと
  • キリストはご自分が信仰(される)に値することを、十字架上でご自分の命を犠牲にし、私たちに近づくために復活することによってお示しになられました。私たちはキリストにおいて示された神の誠実さに全き信頼を置いて、信仰の暗闇の中に飛び込んでいきます。それは一生に一度限りのことではなく毎日のことです。私たちは朝ごとに、「主よ、私は今日も信じます」と言わなければなりません。(39頁)

全10章の中の「源泉」と「信仰」の章から一部を引用しました。他は「真心からキリストに従って」「聖体」「キリストの十字架」「復活」「喜び」「聖霊」「愛」「永遠の生命」という章立てです。いずれも大変に読みごたえがあります。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

【信仰書あれこれ】科学・哲学・信仰

村上陽一郎著『科学・哲学・信仰』(1977年、第三文明社、レグルス文庫73)をとりあげます。

著者は科学哲学の泰斗であり、カトリック信者です。自分の専門領域とキリスト教との関係について何冊か著しています(『近代科学と聖俗革命』『科学史からキリスト教をみる』など)。その中で本書は、もっとも一般向けではないかと思います。

◇◆◇

本書執筆の意図・立場
  • 信仰という問題について通用しているある種の誤解だけは解いておきたいという願いが、私の中に燃えていた……その一つは、文明史的に見た時のキリスト教と科学の双極化であった。キリスト教を、科学的真理の弾圧者として歴史の中に仕立て上げるという一つの文明史の啓蒙主義的図式は、私にとってはやはり誤解としか思えなかった。……もう一つの誤解は、……人間の営為としての知的活動と信仰との双極化の問題であった。(180~181頁)
  • 私は、何はともあれ、ローマ・カトリック教会の一員である。しかし、その私の私的な信仰の立場は、本書ではできる限り前提として立てることはしなかった。本書は決して一つの信仰の立場を優れたものと断定するものでもなければ、そこへ他人を勧誘するものでもない。私が本書で意図したのは、個人がいかなる信仰を持つにせよ持たないにせよ、その信仰より以前に考えておくべき点を明らかにすることであった。(181~182頁)

ガリレオが太陽中心説に与した宗教的背景
  • ガリレイ事件の印象があまりに強いために近代合理主義と自然科学は、その登場からキリスト教に対する否定の契機を持って始まったという誤解が生まれたと言ってよい。だが第一に、近代科学の礎石を築いた人々が、キリスト教信仰に否定的感情を抱いていた、という例は、ほとんど絶無と言ってよい。例えば当のガリレイ自身がそうである。ガリレイは、カトリック教界の内部に完全に喰い込んでいて、例の異端審問事件の蔭の教皇ウルバヌス八世は、彼のかつての学問上の弟子バルベリーニその人であったほどだが、こうしたガリレイのカトリック教界内での「成功」の一部には、ガリレイ特有の処世術があったことは確かである。(61~62頁)
  • ガリレイは、結局は彼自身を断罪の危険にまで追い込むことになった主著の一つ『天文対話』……を書く動機の一つとして、プロテスタントの世界では一般的になりつつあったコペルニクス体系が、カトリック教界内部でも決して否定されてはいないことを証明しようとしたこと、言いかえれば、宗教改革運動の開始から約百年、ようやくカトリック、プロテスタント両者の教義的な再編成と収拾活動期にあって、当初コペルニクス(彼自身が完全にカトリック教会の一員であった)説がカトリック側から推賞・歓迎されたのに反し、ルターを始めとする多くのプロテスタントがこれを激しく非難・攻撃していた状況が逆転し、アリストテレス的自然学の枠組みに依拠し続けようとするカトリック神学の中でコペルニクス批判が一つの勢力として印象づけられ始めていく一方で、プロテスタント側が、コペルニクス説を旧体制批判に政治的に利用しようとする時代を迎えて、カトリック内部のガリレイが、カトリックを擁護しようとするという目的が、その動機に込められていたと言われる。(62~63頁)

神・自然・人間の関係
  • ヨーロッパ近代の自然科学技術を支える思想の中に、キリスト教の構造が相当部分含まれている……。第一はこの自然が神の作品であり、人間が神の似像≪imago Dei≫として神の理性の模型であることは、人間が少なくともある程度自然の神秘を理解できないはずはない、という確信がそれであった。ケプラー、ガリレイらはもちろん、デカルトライプニッツらの純然たる近代合理主義思想においても自体はまったく変わらなかった。スピノザの「神はすなわち自然である」≪Deus sive natura≫という言葉は、それを語って余りある。(77頁)
  • 第二には、理解された自然という前段の過程の上に立って、人間の住処として与えられた自然をよりよく改良していこうとする支配・制御の感覚であった。そしてこの支配・制御の感覚の中には、第三のキリスト教的な(*森川挿入:開始と終点を持つ直線的な)時間構造も絡んでくる。この第二と第三の局面は、どちらも非常に鋭く「世俗化」を志向するものであって、通常は、ヨーロッパ近代精神がキリスト教の枠組から離脱したことを証明する顕著な現象として受け取られることが多い。しかし……それは必ずしも「離脱」ではなく、構造自体は変わることなく、表層部の交代変化があったとも考えられる現象なのであった。(77~78頁)

理解の助けとして、著者の別の新書『新しい科学論――「事実」は理論をたおせるか』(1979年、講談社ブルーバックス B-373)もお勧めします。初版発行から40年近く経った今でも絶版になっていません。発行時に読んで大変触発された本です。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆