2018年2月26日月曜日

【信仰書あれこれ】日本人クリスチャンの自伝となると

アウグスチヌスの信仰的自伝『告白』 をご紹介したついでに、日本人による同様の書物をとりあげます。内村鑑三『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(松沢弘陽訳、1984年、中央公論社「中公バックス38」 所収)です。

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この本は内村が英語で書いた“How I became a Christian: Out of my diary”の和訳ですが、他にもさまざまな訳があります。新しいところでは2015年に、光文社古典新訳文庫の『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』(河野純治訳) があります。

光文社古典新訳文庫は、『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳) が非常に読みやすかったので、内村のこの本も分かりやすく訳されているのではないかと想像します。以下で引用するのは、中公バックスの松沢訳であることをお断りしておきます。

本書の最後付近に、以下のような記述と内村自身がつけた注が登場します。下線部分は、英語原著ではイタリック体、松沢訳では傍点となっています。

「キリスト教が異教にまさるゆえんは、それが我々に律法を守らせる点にある。キリスト教は異教プラス生命である。キリスト教によって初めて律法 の順守が可能となる。キリスト教は律法を活かす霊である。全ての宗教のうちで、キリスト教だけが内面から働く。それは異教が久しいあいだ涙を流して探し求めて来たものである。それは我々に「善」を示すにとどまらず、同時に、我々を「永遠の善」なる神のもとに導いて、我々自身を善にする。それは我々に道だけでなく、生命を、すなわちレールだけでなく機関車をももたらす。このような働きをする宗教が他にあるだろうか。私はまだ「比較宗教学」では習っていない。*(注)

*(注)ウィリアム・ユァット・グラドストン 氏のキリスト教の定義は次の通り。
  「キリスト信徒の通念に従えば、キリスト教は、信ずべき抽象的教義を示すものではなく、生命の結合によって一体となるべき生ける聖なる人格を示すものである。それは罪のゆえに神から離れた人間を、再び神に結びつけることにある。またそれも、守るべきことを教えるのではなく、人のうちに新たな生命を注ぎ、それに伴う資質や能力を与えるという方法によるのである。」―― ロバート・エルズミア論より」

以上、本書208ページ下段1行目~209頁上段2行目

以前にこの欄でとりあげた『正義と愛』 の著者、故・石原寛弁護士の事務所の一角には、有斐閣の法律学全集の揃い六十数巻とともに、内村鑑三全集も置いてありました。それを目にした時、先生は『余はいかにして~』の上記の個所をどのように読まれただろうと思ったものです。私はここにキリスト教のエッセンスが記されていると考えています。

JELA事務局長
森川 博己

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【信仰書あれこれ】「これは聖書のような本ですか?」

その日、羽田空港のレストランで天ざるを夢中で口に運んでいました。一服して目を上げると、向こう側に座っている客がみな、私を見ているではありませんか。妙だなあと、左隣りに目をやると、王貞治さんが天ぷらうどんをほおばっておられるのでした。20年近く前のことです。王さんを取り囲む数人の男性は、ダイエー・ホークスの選手だったのでしょう。
王貞治氏の直筆サイン

サインがほしいと思ったもののサイン帳の持ち合わせなどあるはずもなく、読んでいる本を手渡しました。王さんは例の特徴ある目で本を矯めつ眇めつ眺めながら「これは聖書のような本ですか?」とお尋ねになり、「ええ、まあ」と緊張気味に答える私に快く署名してくださいました。その本は、アウグスチヌス『告白』(山田晶訳、1968年、中央公論社『世界の名著』第14巻)です。

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『世界の名著』とそのペーパーバック版『中公バックス』は絶版のようですが、つい最近、中公文庫から三分冊の形で山田訳の『告白』が復活 しました。読みやすくて注釈が懇切丁寧な点に不朽の価値が認められたのでしょう。

教父 の中の教父、アウグスチヌスの経歴はリンクで確認していただくとして、この本を読んだことがなくても、次のふたつの言葉はご存知かもしれません。どちらも神学と哲学で頻繁に引用されるものです


  • あなた(=神)は私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。(第1巻第1章)
  • いったい時間とは何でしょうか。誰も私に訊ねない時、私は知っています。訊ねられて説明しようと思うと、知らないのです。(第11巻14章)

王さんのサインのある中央公論社版は小さな文字で上下2段組み500頁弱とかなりの分量ですが、各巻のリード文と各章の見出しを眺めるだけでも、いろいろなことが読み取れます。冒頭と最終部分のそれを以下に記します。


1巻リード文 まず、神を呼び求めた後に、15歳に至る生涯の初めの時期を回顧する。幼年と少年時代の罪を認め、このころ、勉強より遊びや子どもじみた楽しみにふけったことを告白する。

<同巻1章見出し> 神を讃えようとする意志は神自身によって引き起こされる。

13巻リード文 まず、神の善は、ものの産出と完成とのうちに反映していること、三位一体 である神と聖霊 の固有性とは「創世記」巻頭の言葉 のうちに暗示されていることを示し、それから創造された世界の全歴史を、比喩的解釈により、神が教会において人間の聖化と栄光とのために働きたもうことのかたどりとして説明する。

<同巻最終章見出し> 神と人間とが被造物を見る見方は異なる。


時間のある時に、じっくり味わいたい一冊。それがアウグスチヌスの『告白』です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年2月19日月曜日

【信仰書あれこれ】熱意を込めて語られる福音メッセージ

以前に深井智朗氏の『伝道』を紹介しました。今回は、同氏の『信仰のメロディー』をとりあげます。昔ヨルダン社から発行された深井氏の同名の書籍ではありません。

今回ご紹介するのは、キュックリヒ記念財団の季刊誌『乳幼児の教育』に「み言葉を学ぶ」という題で深井氏が連載したものから十数編を選び、認定こども園母の会が編集した小冊子『信仰のメロディー』です。上記財団は、現在は存在しないようです。

聞くところによると「み言葉を学ぶ」は20回連載され、その一部は『希望の力 ― 自由を使いこなすために』(2008年、教文館)として書籍化されているのですが、小冊子『信仰のメロディー』と中身の重なりはないようです。


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本冊子は100頁未満と薄いものの、掲載記事はいずれも力のこもったものです。何よりもわかりすい。例えば、神が人間の世界にどれほど関心を持っていらっしゃるかを説明するくだりを、著者は次のように記してます。

「私の長男がこの夏、アメリカのペンシルバニア州に出かけました。ランカスターという小さな町です。アメリカの南北戦争の歴史などに関心のある方はご存知かもしれませんが、それ以外にはほとんど知られていないような小さな町です。しかしこの小さな町は、長男がそこにひとり旅に出ることによって、父である私の最大の関心事になるのです。私はそこに行きたくなりました。日本にいても、そこの全てを知り、またそこに身を置きたくなる場所になりました。その町の人々を愛したくなります。その町が私にとっての全てになります。/私はクリスマスの出来事というのは、私がこの夏経験したような出来事だと考えました。神が愛するひとり子をこの世に送られた、ということは、神の子がこの世に来たというだけでなく、それ以後、この地上が神の最大の関心事になったということです。」(本冊子10~11頁)

著者自身が自らの体験を語りながら福音と結びつけています。複数の神学者の解釈を並べただけの抽象的で頭が痛くなる議論ではなく、そこに著者の生活が垣間見え、読者が自分の人生に当て嵌めることができるようになっているのです。著者の語るメッセージは、このような挿話の魅力に満ちあふれていて、読者に読みとってほしいことが強く印象づけられます。

本冊子は市販されていません。興味をもたれた方は、以下に連絡されてみてはいかがでしょう。どうしても読みたいという熱意があれば伝わることでしょう。


住所:〒330-0052 さいたま市浦和区本太1-20-10 
電話:048-883-3021/メール:info@hahanokai.ac.jp

JELA事務局長
森川 博己

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2018年2月2日金曜日

【信仰書あれこれ】救いの喜びを救いの経験に押し出されて語る伝道

日本キリスト教団出版局が「信仰生活の手引き」シリーズを五冊出版しました。今日とりあげる『伝道』(深井智朗著、2012年)は、その最初に発売されたものです。

重厚な作品の多い著者にしてはめずらしく、大変読みやすい本です。小学二年生の時に初めて教会に行った時の想い出や、その年のクリスマスに聞いた説教から受けた感動などが、生き生きと描写されています。著者は神学者・大学教授ですが、二十数年間の牧会経験もお持ちです。

以下、心に響いた箇所をいくつかご紹介します。

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まず、伝道の基本姿勢について。
「なぜマイナスがプラスになったのか、なぜ人間の朽ちるべき命が、死から生へと転換するのか、そのような実存的な経験、人生の喜びの経験が最初になければならない……それが伝道を論じることの出発点だ……救いの経験なき、伝道技術論やさまざまなスローガンは空虚なもの……聖書はまさにこの立ち直りの経験、新しい人生の開始、よみがえった人生の価値こそが伝道の始まりであり、力の源泉であったと語っている。」(本書20頁)

自らの反省も込めて、今日の日本の諸教会にはこんな問いかけをします。
「教会は伝道することにおいて、毎週の礼拝での説教において語るべきものを持っているのか……はっきりとそれを自覚しているのか、それを知っているのか、あるいは、語るべきことは知っていても、それに自信が持てないということはないだろうか……教会や説教が、新聞や雑誌の評論と同じような内容を、しかもそれよりも下手な言葉や方法で語って、それを伝道や信仰と言っていることはないか(中略)教会が自らの使命を十分に果たす実力をきちんと持っていることが大切なのです。」(本書31~32頁)

讃美歌93番の歌詞「み神の恵みを想いみれば、嬉しさあまりて、歌とぞなる/つもりにつもれる、み恵みをば、この世に、かの世に、歌い続けん」を引用しつつ著者は、「この救われた喜びを信仰のメロディーにして歌うことこそが伝道……神の恵みが、救いの御業が既にあって、礼拝の喜びがあって、神に祈ることのできる経験があって、その、『つもれる』恵みが、信仰のメロディーとなって必然的に流れだす……私たちの救いの経験に、まず立ち返らねばならないのです。」(本書36頁)と訴えます。

最後に、著者の神学校時代のエピソードが、ある意味で「伝道」の本質を示しているのでご紹介します。

先輩のアルバイトを一日だけ交代したときの話です。東京郊外で漬物を訪問販売するのです。自分なら買わないような高価な漬物だったとあります。訪問販売の経験のない著者には荷が重く、午前中にまわった家はどこも買ってくれなかったといいます。ランチの時にベテラン販売員に「一つも売れません」と嘆いたら、「そうだろうね」という返事。そこで「どうしたら売れますか?」と尋ねたところ、「この漬物、食べてみた?」と逆に聞かれます。食べてはいなかったのです。食べてみると確かにおいしい。値段が高いだけのことはあるのがわかりました。午後に違う家をまわってみたら、今度はいくつか売れたといいます。(本書33~34頁)

以上の経験から著者が学んだのは、紹介しようとするものに確信を、自信を持つ、ということの大切さです。

JELA事務局長
森川 博己

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