2018年11月8日木曜日

【信仰書あれこれ】確かな生き方のために


岩島忠彦著『いのちへの招き――確かな生き方のために』(1995年、海竜社)をとりあげます。

以前に本欄で著者の説教集を2冊とりあげました。『説教集 みことばを生きる』と『説教集 福音の記憶』です。本書も著者が教会で話した内容を書籍化したものですが、その特徴を著者は次のように記しています。
「私はここでお話しすることが、誰にとっても通じることであり、大切なことであると考えています。(中略)ここで私は、自分の頭と心と体で経験し、納得したこと以外のことについてお話しするつもりはありません」。(4~5頁)
以下では、「信仰がわが身に実現するために」と題された部分をご紹介します。

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神を信仰する人間がとるべき基本姿勢を著者は、イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊操』の「原理と基礎」という部分から説明します(丸数字は著者が便宜的に付加)。
  • ①人は主なる神を賛美し、敬い、これに仕え、それによって自分の霊魂を救うために造られたのである。②そして地上にあるその他の事物(もの)は、人のために、また人が造られた目的を全うするための助けとして、造られたのである。③したがってこの目的を全うする上に、助けとなる限りその事物を用い、妨げになる限りこれを棄てねばならない。④そのため、人は、すべての事物に対して、それが自由意志にゆだねられ、禁じられていない限り、偏らない心を持つようにすることが必要で、すなわち、我々は、病気よりも健康を、貧困よりも富貴を、侮辱よりも栄誉を、短命よりも長寿を望むというようなことをせず、⑤その他万事において、ただ我々が創造された目的に一層よく導くものだけを望み、選ぶようにすることが大切である。(本書259~260頁) 

著者は上記の原理を、信仰する人間すべての「共通の鉄則」だとし、「神・人間・地上にあるその他のもの」という三者の関係を軸に論を展開します。①については、こんな感じに。
  • 「人」というのは自分以外にないわけです。みんなそれぞれ自分が「人」なのです。「私は」と考えてみないといけません。……自分は何のために造られたかということですが、まず自分自身で勝手に決めるようにはなっていないということです。(260~261頁)
  • 私という人間は神からの定義によって存在しているのです。世界の秩序も、自分の存在も、自分の心の構造も、あらゆることは自分の設計によるのではありません。ですから、それに則って自分を使わないと、自分を生かすことができません。(261頁)
  • 造られたということは、なにも昔に造られたというわけではなく、今もそうだと言われているわけです。神が自分を支えているのです。だからいつも造られ続けているのです。そのとき、自分が何を目的に、ここに存在するのかというと、この世のものを目的にすることはできなくなっているのです。(261頁)
  • アウグスチヌスは「神は私たちの重力」という言い方をしています。自分がどんな状態であれ、「神は私の重力」であるから、「私はそこに憩うまでは決して安らぐことがない」と。……どこにあってもその力は働く、常にそこに向かうところのそれは、実はこの世のものではない、……と。ですから、それ(=神)を賛美し、敬い、それに仕える、という言い方をしています。(261頁)
  • 小さな自己満足とか、いろいろな些細な喜びとか、虚栄とか、生活の奢りとか、そういうもので自分を満たしきることはできない。……一生ずっと、自分のパートナーにできるものは神様しかいない。そこに自分の生きる焦点を合わせない限り、本物になれないように人間はなっているのです。(262頁)
  • そういうところに焦点を合わせた時、自分が生きていることに喜びを感じるようになります。生きていることに平和を感じることができるようになります。結局、本来の秩序というものに溶け込み、自由を感じることができるようになると思います。(262頁)
  • 「神を賛美し、敬い、これに仕える」。自分の存在が神に波長を合わせていくようになるならば、その存在自体が神への「賛美」になっていきます。なにも教会へ行って賛美歌を歌わなくてもいいわけです。(262頁)
  • あるいは、「敬う」とは、奢った人間であったらだめだ、ということです。俺は何かできるのだとか、自分がいなければ駄目だとか、そんなことではありません。必ず神を思っていることが敬うということです。人は、自分は空しいものだという、根本的に地べたに跪いている姿勢を持っているときに初めて、自分が何であるかがわかる、つまり神に向かっているということなのです。(262頁)
  • さらに「仕える」とは、そこに気づいて実際の生き方として、仕えるという言葉に代表される「行動」に移っていって初めて、本物だということなのでしょう。(263頁)
  • 人は「自分の救いを全うするために」生まれた。人は救われる必要があるのです。けれど救われるというのは、自分自身の無秩序、無軌道から、本来の姿に辿りつくこということ、それ自体が救いです。(263頁)

本書135~219頁(洗礼・堅信・ゆるしの秘跡)は、著者の近著『キリストへの道』(2017年、女子パウロ会)に転載されています。本書が入手困難になったためでしょう。私としては、最終章(221~269頁)こそ転載してほしかったところです。

JELA理事
森川博己

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