2019年9月27日金曜日

【続・信仰書あれこれ】地獄と神の愛

山田晶著『アウグスチヌス講話』(講談社学術文庫、1995年) をとりあげます。

本書は、ある教会のうちとけた小さな集まりの中で著者が話した内容をまとめたものです。「アウグスチヌスと女性」「神の憩い」など、興味をそそられる話題ばかりです。

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以下では「煉獄と地獄」と題された章の一部をご紹介します。地獄の存在と神の愛との関係に触れた部分です。

  • 神は無限にあわれみ深いものであるから、地獄などを作るはずはない。だから地獄のことが語られるのは方便にすぎない、という説があります。しかしそういう考え方は、神のあわれみというものを、人間の腹にあてがって考えているのではないかと思います。ですから、そういう仕方で神のあわれみが表象される場合には、神の持っていられるもう一つの側面、非常に厳しい側面、またその厳しさに裏付けられた神の真実の愛、そういう側面が消えてしまうのではないか。すべてのものを包容するなどと言いながら、そこに観念的でセンチメンタルな要素が入ってくるのではないか。「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」になっているのではないか。本当の意味でリアルな神の愛は、何もかも無条件に赦すようなものではなくて、ある者たちは容赦なく地獄へ突き落とすという、そういう厳しさを含んだものではないか。それは、人間の愛の観念を超越する側面を有する愛ではないか。それを神の愛が小さいとか、ケチだとか、そんなふうに取るのは根本的にまちがいで、そのような厳しさに裏付けられた愛こそは、真実の愛だと思うのです。(94~5頁)
  • 地獄にゆくか否かは、犯した罪が人間の眼から見て大きいか小さいか(たとえば殺人か万引きか)によって決まるのではなくて、当人が自己の罪を悔い改めているか否か、それも、人々の前にその悔い改めを表明しているか否かではなくて、神様の前に悔い改めてそれを神様の前に表明しているか否かにかかっています。そのことの典型的な例として、……十字架上に、イエスのかたわらにおいて自分の罪を告白し、イエスから赦されて死んだ盗賊をあげることができます。恐らく彼は、国法から言えば、大罪人であったでしょう。イエスのとなりに十字架にかけられるまでは、自分の罪について考えたこともなかったかもしれません。憎悪と復讐のかたまりであったかもしれません。それが、イエスのかたわらで、不思議にも、素直になり自分の罪を悔い改め、赦しを乞いました。それに対してイエスは、即刻に完全な赦しを与え、天国にイエスと「共に生きる」栄光の生を保証しました。ここにこそ、神の無限のあわれみが現れます。これに対し、同じ十字架につけられながら、イエスを罵ったもう一人の盗賊は、恐らく地獄にゆくでしょう。それは、イエスが彼を地獄に落とすのではなくて、たとえイエスがどんなに彼を救ってやりたくても、自分自身の罪の重さによって堕ちてゆくのですから、どうにも救いようがないのです。(101~2頁)
  • この世は既に地獄であるとはなぜ言わないか。そこです。この世は苦しいことに満ちている。さながら煉獄である。しかし地獄であるとは言わない。なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。しかしもし我々がこの世の中で絶望したら、その時この世は地獄になる。我々がこの世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として把えることができるならば、この世は煉獄となる。そのように苦しみを受け取るならば、苦しみの中に希望が出てくるからです。あるいは、逆かもしれない。すなわち、希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。(107~8頁)

山田晶氏はアウグスチヌス研究の権威であり、本シリーズでは同氏訳による『告白』もとりあげています。また、山田氏以外の訳で、『教えの手ほどき』 というアウグスチヌスの作品も本シリーズで紹介しています。

JELA理事
森川 博己

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