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羽仁もと子の植村正久への感謝
- 植村に対する羽仁夫人の尊敬や追慕の心は、(彼女の)『著作集』第14巻「半生を語る」の中に記されている。「先生は……数年に渡って、毎週一度私たちの家で熱心な集まりをしてくださった。……私たちはそのおかげで、本当に唯み名を崇めるために自分たちはあるのである、唯み国を来たらせるために働くのである、ということが初めて真実、自分のいのちになったのである」。自由学園創立の動機もここにあったであろう。(50~51頁)
植村正久の働きの広さ
植村正久と説教
- 説教がただ文学としての価値を目安として読まれるべきものではないこと、もちろんであります。しかし、偉大な説教には文学としても不朽の価値を有するものが少なくありません。したがって文学的価値が高いということは、その説教者が文化人としても優れた功績をあげた人である、ということになります。そして植村先生は、明治から大正にかけて、我が国における最大文化人の一人であります。(228頁)
- ある日曜の朝、この富士見町教会で私も伺った説教の初めに、「今朝は他のことを話すつもりで来たのであるが、先ほど礼拝に出て来た人の顔を見て、まったく別の違った話をする気になった」という意味のお断りがあったこともあります。そういう時は、一匹の迷える羊を思う牧者としての熟誠が自ずからほとばしり出た説教となったのであります。(231頁)
- 1899年の『福音新報』には、説教者の心得とすべき一文が載っております。それは、リチャード・バックスターという英国清教主義牧師のことを書いた短い文章です。「彼の講壇に上るや、前進の能力と同情とを悉く注ぎだし、自らも燃ゆるばかりの熱心になりて、而して後に聴衆をも燃ゆるばかりの熱心とならしめんことを願えるという。彼自ら己が説教の状態とその目的を真率に語って曰く、……I preached as never sure to preach again, And as a dying man to dying men.……もう二度と説教する機会があるまいと思って、死にかけた人が死にかけた人たちに対してするように説教した、……先生もこの覚悟を持って命がけの説教をした方であったと思います。(231~233頁)
- バックスターに関する文章の続きはこうです――「今日の教会において、甚だ嘆かわしく思わるるは、講壇の調子の衰えたることなり。美わしき説教や面白き説教はこれあらん。されど真に人の心に迫った悔改を促し、そのうなだれたる霊を励まし、憂い悲しめる者に限りなき慰藉を与うる力あるものは稀なり。その原因は要するに説教者自ら熱する所なく、特に主張せんとする思想を懐かず、深く罪悪と戦いてこれを悔改する経験乏しく、基督の恩寵に生活するの味わいを知らざる者多きにありと言わざるべからず。(233頁)
植村正久については十巻近い著作集や全集も出ていますが、手ごろなもののとしては、『日本の説教2 植村正久』(2003年、日本キリスト教団出版局)や斎藤勇編『植村正久文集』(岩波文庫)があります。
JELA理事
森川博己