2019年12月20日金曜日

【続・信仰書あれこれ】ナウエンと読む福音書

ヘンリ・ナウエン著『ナウエンと読む福音書――レンブラントの素描と共に』(マイケル・オラーリン編、小渕春夫訳、2008年、あめんどう) をとりあげます。

表紙折り返し部分に本書の内容が次のように記されています。
キリスト教スピリチュアリティの指導者、著作家として知られ、多くの愛読者を持つヘンリ・ナウエンが、イエスの生涯、その誕生、宣教活動、受難、復活、聖霊降臨までの福音書の世界を案内。多くの著作から選りすぐった黙想で織りなすイエスのストーリーは、その独自の霊的な洞察を通して、思いもしなかった新鮮な福音の世界に導いてくれる。ナウエンの生涯に重要な霊感を与えたレンブラントの素描も併せて収録。」

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ナウエンはカトリック司祭でしたが、以下の部分を読めば、彼が教派を超えて多くの読者を獲得している理由がわかります。信仰共同体(=教会)について示唆に富む、真摯な考察を展開しています。関連聖句は、マタイによる福音書16章13~20節。新共同訳聖書では「ペトロ、信仰を言い表す」と題された部分です。
  • あなたがイエスに、「あなたは救い主、生ける神の子です」と言うことができるなら、イエスもまたあなたに、「あなたは岩、わたしはこの上にわたしの教会を建てよう」と言うことができます。……私たちを捕らわれの身から解放するために、救い主――油注がれた者――として神が私たちの間に来られたことに同意するとき、神は私たちの内に堅固な核を認め、私たちを信仰共同体の土台としてくださいます。私たちが「岩」であるかどうかの質が明らかになるのは、救いといやしが必要であることを告白するときです。私たちの神への依存がよくわかるほど謙遜になったときに、共同体を築く者となるのです。(91頁)
  • イエスとシモン・ペトロとの間のこの対話が、ローマ教皇の役割を説明するときだけに使われるのは、とても悲しいことです。それは、このやり取りが私たち全員のためでもあることを見逃すかもしれないからです。私たちすべては救いの必要があることを告白せざるをえない存在です。ですから私たちは、皆が堅固な核となることを受け入れるべきです(91~92頁)
  • では、御国の鍵はどうなるでしょう。何よりもそれは、イエスを救い主と告白するすべての人のものです。そうすることでそれは、神の御名で結ばれたり、解かれたりする信仰共同体のものになります。もし、キリストの体が信徒たちで形造られるなら、そのメンバーでなされる決断は、御国にかかわる決断です。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる<マタイ16:19>とイエスが語られたとおりです。(92頁)
  • こうした思索は、今日の聖ペトロの座の祝日に思い浮かびました。それは、何人かと食卓を囲んでいるときでした。彼らは、教会があまりに権威主義的であると思えて、カトリック教会から去った人たちでした。今後、ますます重要になることは、教会とは、司教がいたり、教皇がいたりする、単に「あちら」にあるのではなく、主の食卓を囲んだ「ここ」にあるということの認識です。(92頁)

本書は2002年に、米国のカトリック出版協会による「スピリチュアリティ」「グラフィック」の2部門で第一位を受賞しています。

本シリーズでは、ナウエンの著作のうち、『あわれみ』 『イエスの御名で』 『すべて新たに』の三冊を紹介しています。ほかに、ぜひお読みになることをお勧めしたいのは、『いま、ここに生きる』と『今日のパン、明日の糧』です。

JELA理事
森川 博己

2019年12月13日金曜日

【続・信仰書あれこれ】耳をすまして


シスター・ウェンディー・ベケット著『耳をすまして――ほんとうにたいせつなこと』(2002年、新教出版社) をとりあげます。

英語原書タイトルの意味は、「芸術作品を通して祈りを学ぶ子どもの本」。登場する漢字すべてに振り仮名がふってあります。

カバー裏表紙に以下の言葉が並んでいます。
「信じること、愛すること、ゆるすこと……人生の中でとても大切なテーマを美しい12枚の絵画の中にさがしましょう/こどもと大人が共に、新しい『発見と対話』ができる一冊です/『鑑賞眼にしろ、解説の的確さにしろ、これほどの才能は稀だ』ザ・タイムズ紙 評」

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もくじの片隅に、筆者から読者に向けたメッセージが記されています。
  • ……こどもに一人で読ませて、邪魔しないことが一番と思います。……どうかこの本の内容を真剣に考えてみてください。わたしたち自身が、愛に満ちて、いつわりのない生き方をしようとしていなければ、この本に書かれていることをこどもたちと話し合うことはできません。……この本で大切なものに出会うのは、こどもだけではないでしょう。大人も、同じように大きな問題を突きつけられると思います。本当によいことや真心が大切なのは、わたしたちの生涯を通じて変わらないことだからです。この本に書いてあることはすべて、9歳のこどもの時だけではなく90歳になっても、まったく同じにあてはまるでしょう。この本を読むすべての方に、神さまの声が届けられますように。(「ご家族ならびに教師の皆様へ」)

「本当の幸せ」と題された章でとりあげられる、アレッサンドロ・アローリが1561年に描いた作品「若者の肖像」では、画面中央に大きく描かれた細身の「若者」と、右上隅の窓外に小さく描かれた、後ろ姿の逞しい人物が対比的に説明されます。

身にまとった服・装身具や室内の家具・調度品から裕福そうに見える若者は、うつろな目でこちらを見ています。一方、裸に薄い布をまとっただけの窓外の人物は、周囲の山や海に目をやり、表情は見えないもののゆったりした佇まいです。この二人の特徴を細かく描写したあと著者は、「神さまのもとでありのままの自分になれるまで、わたしたちが本当に幸せになることはありません」(23頁)と締めくくります。

解説ページの中央に、ひときわ大きく赤字で示された祈りの文章があります。そこには、こう記されています。
  • わたしたちの心が自由でいられますように。そして、たくさんの物をもっていることよりも、人にあげることのほうが幸せだと、わかりますように。よくばりになりませんように。そして、物ばかり大切にしないように助けてください。(23頁)

同じ出版社からシスター・ウェンディーの別の本、『心の美術館』と『私たちの間のイエス』 が出ています。前者は、中世の絵画・彫刻から浮世絵や現代美術まで、幅広い作品を扱っています。後者は副題「写本でたどるキリストの生涯」から内容が読み取れるでしょう。

著者は2018年の年末に88歳で亡くなりました。本書略歴欄には、「美術全般、特に絵画に関する専門知識と鑑賞・洞察力は、欧米でも高く評価されている。英国BBCテレビでは、人気美術番組の司会者としても活躍中」と記されています。

JELA理事
森川 博己

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2019年12月10日火曜日

【続・信仰書あれこれ】使徒信条によるキリスト教入門


隅谷三喜男著『私のキリスト教入門――使徒信条による』(1983年、日本YMCA同盟出版部)をとりあげます。

著者は1932年のクリスマスに受洗し、その五十周年を記念して本書を公刊しました。学生・青年向けに、自分の信仰告白として書いたということです。

一般信徒である著者は、本書の内容が神学的に問題なきようにするため、当時の東京神学大学教授・熊沢義宣氏から原稿の大半についてチェックを受けたと記しています。

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使徒信条というのは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に始まり、「~永遠の生命を信ず」で終わる、キリスト教会が長年唱えてきた信条の一つで、正統的キリスト教信仰の核心を表したものです。

以下では、「天地創造の神」と「全能の神」に関する説明の一部をご紹介します。

天地創造の神
  • 使徒信条が「天地の造り主を信ず」と告白しているときに、何よりも注意しなければならないことは、天地創造のプロセスを信じると言っているのではない、ということです。たとえば、一日と言っても、それは我々の生活における一日の意味ではなく、「主(神)にあっては千年は一日のようであり、一日は千年のようである」<ペテロⅡ3:8>と言われるように、我々の一日とは違った次元で語られているのです。(20頁)
  • 天地創造の信仰というのは、人間を含めてすべてのものを存在させ、これを支えている神への信仰であって、神がどういう手続き、どういう順序で天地万物を造り上げたかというようなことを信じることではないのです。……信仰とは本質的に神の支配への信頼関係であって、世界や人類の生成を説明しようとするものではないのです。そういう説明をしようとすると、それは人間が考えた世界観になってしまうわけです。(21頁)
  • 神の創造は<無からの創造>だということです。それは言い換えれば、この世界、人類は、その根源から神によって造られ、神の支配のもとにあるという信仰の告白です。存在するもの自体に存在の根拠はない、ということです。そこから、被造物を神としようとするすべての偶像崇拝が拒否されることにもなるのです。(26頁)


全能の神
  • 全能の父なる神というときには、本来、神とその被造物とは非連続のものですが、それにもかかわらず、神は私たち人間に対して関係を持たれるのだ、という信仰の告白なのです。この越えがたい溝を超えることができる神、それが全能の神なのです。キリスト教の信仰では、それを神の恩寵と表現しています。それゆえ、全能の神とは、たんに何でもできる神というようなことではなく、私たち人間をその悲惨と罪の中から救い出すためには、不可能なことをも可能とする神である、という告白です。(31頁)
  • 全能とは、したいことは何でもできるということではなく、神と人間との……断絶の関係を回復するためには、不可能を可能とする神の力であり、人格的世界における全能であることを学びました。したがって、イエス・キリストが<主>として我々に対して持つ権威も、生殺与奪は意のままということではなく、まず何よりも、人間が神に背いて犯している罪を裁く権威なのです。キリストは「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」<ヨハネ9:39>と言われます。しかし、より重要なことは、その罪を赦す権威です。(42~43頁)


著者は労働経済学の泰斗であり、その専門的立場から著した『近代日本の形成とキリスト教』(新教新書) のような著書もあります。

JELA理事
森川 博己
 
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【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2019年12月5日木曜日

【続・信仰書あれこれ】55歳からのキリスト教入門


小島誠志著『55歳からのキリスト教入門――イエスと歩く道』(2018年、日本キリスト教団出版局)をとりあげます。

著者あとがきに次のように記されています。「近年、日本の教会では中高年になって受洗される方が増えています。そういう方々を意識して執筆しました。もう一つ願ったことは、長く信仰生活を続けて来られた方々の参考になれば、ということです。筆者の旧著『わかりやすい教理』 の延長線上にこの小著を位置づけることができれば、というのがひそかな願いです。」

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以下では、「永遠の命について」と題された章の一部をご紹介します。
  • ある高齢の信徒の方が、あるとき牧師である私に、ふと漏らしました。「死ねるから、大丈夫!」。……今あるこの命を生きることも楽ではないのです。次々に襲ってくる試練があります。体の不調も。自分の中にあるゆがみや屈折、他者を傷つけたり傷つけられたり。しかし、「死ねるから、大丈夫!」。やがて終わらせていただけるのです。永遠の命とは、この命がいつまでも続くことではありません。(37頁)
  • イエス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」<ヨハネ17:3>。この「知る」という言葉は、知識として何かを知るという意味ではありません。人と人とが出会って、交わりをもって「知る」という意味の言葉です。永遠の命というのは、イエス・キリストによって救われ神の子とされた者が、救い主のとりなしによって神に結ばれ神に出会い交わる、そういう生の中に入れられることです。(37~38頁)
  • 永遠の命というのは、終わりのない命というよりは(それも否定はされませんが)、神と御子イエス・キリストとの交わりに中に入れられることなのです。神と向き合うこの交わりの中で人間は、初めてかけがえのない人格として見出されている自分を知るのです。……この交わりは死後に始まるというようなものではなく、信仰によって今ここで始まっているものなのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」<ヨハネ5:24>。(38~39頁)
  • 永遠の命とは、私たちの所有する何かではありません。私たちが所有する終わらない命、というものではありません。永遠の命とは、永遠なる神と関わる命のことなのです。永遠なる神と交わる命のことなのです。(39頁)


本シリーズでは、小島誠志氏が著した以下の三冊も紹介しています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川 博己

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