渡辺善太著『宗教座談』(1939年、新生堂)をとりあげます。
本書は、1934年以降に『三田福音』、『福音』、『福音新報』という当時のキリスト教雑誌に埋め草的コラムとして書かれた二十のエッセイをまとめたものです。
以下では、最初に掲載された「私の好きな牧師」を紹介します。表現意図や使用語彙を可能な限り尊重しつつ、原文の旧漢字・歴史的仮名遣を現代表記・表現に改めて引用します。
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牧師に対する最大の要求
- 私の考えでは、牧師に対する最大の要求は、教会の集会のうち主位にある、日曜礼拝において、本当に私の霊魂を恩寵の感激に連れ込んでくれる説教を聴かしてほしいことである。このことは私の知己の中で種々の専門を持っている人が、ほとんど例外なしに言うことである。日曜の朝こちらが敬虔なる思いを用意して、礼拝に出席して、そこで、直接には恩寵に連絡のない講演的説教を聴かされたり、説明的、講義的の事柄を聴かされたりすると、実際うんざりしてしまう。(1~2頁)
牧師が語るべきこと
- 結局牧師は……我々の信仰の本質の問題について語ればよいということになる。そうすれば、それを聴いた人はそれによって一週間分の霊的活力を与えられて、これをそれぞれの自分の専門の領域に応用していくから、専門でないことをしゃべってうんざりされるよりも、はるかに効果的だということになる。(2頁)
牧師自身の祈りの生活の重要性
- 真に聴衆を恩寵の感激に入らしむるということは、普通のことではできない。少なくとも牧師自身がその密室で真に与えられ、そして恵まれた経験から発するものでなくてはならぬ。……自分は本当に平凡だという謙虚な自己認識を持った牧師にして、初めてその密室の霊交にたえることができる……。牧師にしてこの種の説教ができれば、真の意味において神の国の建設に貢献できると思う。すなわち自分の説教の聴衆全体が、自分の説教から霊的活力を得て、それぞれの専門に応用するとすれば、牧師自身が社会的事業に駆け回っているよりも、より多くの社会的貢献をなしえるということになるだろうと思う。(3頁)
心に響く説教を生み出すもの
- 私は説教を聴くと、まずその説教の内容とか組み立てとかいうより、その説教者から溢れ出る霊力の如何ということにすぐに注意させられる。よく人の説教を聴いて、内容もよく、組み立ても立派であっても、ちょっとも(心に)響かない、(心に)触れないということがある。……こういう場合に痛切に感じることは、その説教者の密室生活の欠如ということである。今日までは「講壇より街頭へ」と叫ばれてきたが、今日はこれを逆にして、「街頭より密室へ」と叫ばなければならない時代であるように思う。(4頁)
霊的深さと思索の深さ
- 深い思索をいけないということではない。真に人が恩寵に浸る生活を送っていれば、その人の全能力、ことに頭脳は深く深く「考える」ようになって来るものと思う。そうならないのは、何かその密室生活に間違った点があるのではないかと思われる。(4~5頁)
- 私は私の牧師に専門的な哲学の知識を持ってもらいたいとは、さらさら思わない。しかし深く考え、徹底して哲学してもらいたいと思う。いったい、霊交の体験の一つの結果は、人生に対する態度が真面目になるとともに、人生の事実に対して、真に深い洞察を持つようになるということである。哲学するということは、この意味において霊的体験の当然の結果である。説教の中で、人生の事実に対してあまりにもこれを単純に片付け、独断的に断定する浅薄さには、私はたまらない嫌悪感を感ずる。(5頁)
信徒が自らを霊的に養える手立てを牧師は与えなければならない
- 信者が養われるということは、教会の集会や、説教だけでは十分ではない。自分自身で養わるべき方法と材料を教会の指導者が与えてやらねばならない。……聖書……から霊的の力を得て、自分の活動の源泉にするというには、かなりの修養がいる。この意味において教会で、真の意味における聖書研究会がもたれ、そこで真の聖書の味わい方の手ほどきが与えられるならば、信者にたとえ集会の当日、用事のために出席できないことがあったとしても、自身の聖書の味読によって、その信仰生活を持続していくことができる。(6~7頁)
本書の単行本はネットでも入手困難のようですが、『渡辺善太全集 第5巻』(1966年、キリスト新聞社)に所収されています。
また、以前に本欄で、渡辺善太氏の説教集『わかって、わからないキリスト教』をとりあげています。併せてお読みいただけると幸いです。
JELA理事
森川博己
森川博己
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