2019年8月21日水曜日

【続・信仰書あれこれ】かけがえのない一冊


昨年の3月に「一冊だけ手もとに置けるとしたら」という題で、『聖書のことば』(宮本武之助著) をとりあげました。同じ質問を今、自らに問うなら、躊躇なく『ローマ書講解説教~Ⅲ』(竹森満佐一著、1962~72年、新教出版社) を挙げるでしょう。

今年の1~5月に、十種類近くある竹森氏の講解説教を順番に読了し、6月から再び、『ローマ書』に目を通しています。信仰書に限らず、読んでから数か月後に同じ本を再読するのは、私には初めての経験です。

本書は、日本基督教団・吉祥寺教会で竹森牧師が何年かにわたって行った礼拝説教を信徒が忠実にメモし、その記録を書籍化したものです。キリストの福音をまっすぐに伝えようとする著者の情熱が伝わってくる名説教集です。

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以下に、本書の二つの分冊から、律法・割礼・洗礼と神の福音との関係に触れた箇所を一部ご紹介します。

<第一分冊> ローマ書3章1~8節
  • 神がまったく自由に、御自身のお考えからユダヤ人に律法をお与えになったのであります。ところがそのことが、何か自分の特権のように思って、それに対する責任はあまり考えなくなったということです。……律法を受けたことが特権であるのなら、これを謙遜に受けて、その恵みを知るべきであったのに、そうはしないで、それをただ自分の誇りの材料にしたことに問題があるのであります。律法や割礼が与えられたのに何の役にも立たないのか、とまるでそれが神の責任であるように言うわけであります。(中略)このようなことは、今日の信仰者の場合も起こりうることであります。キリスト教の信者でも、信仰が弱くなるといろいろな点で不平を言うようになって、「洗礼を受けても、自分は少しも変わりはしない」というような愚かなことを、得意そうに話したりするものであります。……自分の方に用意しておくべき信仰のことは忘れてしまって、洗礼を受けたのだから神は何とかしてくれそうなものではないか、というような、まるでふてくされて居直ったような言い方であります。……これらすべてのことに共通なことは、神の約束ということであります。律法であれ割礼であれ洗礼であれ、それらを生かすものは神の約束であります。神が救いの約束をしてくださったからこそ、これらのことは意味があるわけであります。その約束の内容は、約束する者が定めるのであります。それを受ける者が、これを信仰を持って受け、これを恵みとして受けるのでなかったなら、全く空しくなることは、イスラエルの長い歴史が証明しているとおりであります。そして、今日の信仰者の生活の中でも、絶えず経験していることであります。(242~44頁)

<第二分冊> ローマ書4章9~12節
  • 洗礼は何のためにあるのでしょうか。割礼を受けると同じような意味で、洗礼さえ受ければ救いは受けられる、と考えるのは間違いでしょう。洗礼は、ここの言葉で言えば「信仰によって受けた義の証印」<11節>でありましょう。キリストの恵みを受けたことが確認されるのであります。しかし、もしそれが内容を失ったらどうでしょうか。信仰が忘れられて、洗礼を受けているから自分はアブラハムの子である、と考えたらどうでしょうか。そうなれば、洗礼も割礼と同じように我々に益をもたらすことはなく、かえって害を与えることになりましょう。我々を支える信仰が日ごとに新しいものとなる時に、洗礼は、神の確かな契約のしるしとなるのであります。(48頁)

本書は現在、少し値が張るものの、オンデマンド版として入手できます。各説教の冒頭には、とりあげる聖書箇所の言葉がすべて記されていて、電車内で立って読書することの多い私には、とてもありがたい作りです。

JELA理事
森川 博己

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2019年8月1日木曜日

【続・信仰書あれこれ】ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉

土居健郎・森田明=編『ホイヴェルス神父――信仰と思想』(聖母文庫、2003年)をとりあげます。

編者のひとりである土居健郎氏は、「甘えの構造」で有名なクリスチャン精神分析学者です。以前のこのシリーズで、同氏の講演集『甘え・病い・信仰』をとりあげています。


JELA理事・森川博己


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本書は、ヘルマン・ホイヴェルス神父と親交のあった何名かの方たちによる思い出、神父自身の多様で気の利いた言葉の数々、そして、日本に長く滞在された神父の日本人に対する考え方、の三部構成になっています。


以下では、神父自身の興味深い言葉のほんの一部をご紹介します。
  • 19世紀のある思想家は永遠の存在は退屈であると言ったが、それは愛を知らないからである。愛は退屈しない。(70頁)
  • 世の中の宗教は救いの宗教である。しかしなぜ救いの宗教であるかを、キリスト教だけが知っている。Schelerは面白いことを言った。「ギリシャ・東洋の理想は賢人である。神の理想は幼児である」。(72頁)
  • 偶像について――エジプト人が本当に牛などを神と考えたわけではない。彼らは象徴的な意味を解していた。しかし次第に象徴を本物と間違えるようになる。かくして心理学的には手段はいつの間にか目的と同一視されるに至る。(95頁)
  • 神を知ることはある程度哲学でも可能、しかし神に向かって出発するのは恩寵による。知ること、信ずること、従うことの間には〔跳び越えねばならぬ〕堀がある。(98頁)
  • 祈りとは神となつかしく交際することです。(101頁)
  • 祈りの基本は――自分の分かる範囲で、子供の心で神に信頼して、「神よあまりひどいことをしないでください」と祈ること。(101~2頁)
  • 宗教くさいのはよくない。下手な美術家のようなものです。いくらおいしいからといって、アイスやプリンばかりいつも食べているのは健康でないのと同じです。(102~3頁)
  • 信仰は教理のかたまりではない。あふれるようなもの、音楽のようにオールラウンドで心の隅々までうるおしてくるものである。(103頁)
  • 信仰は私たちから創るものではない。神のプレゼントです。だからあまり深く考えなくていい。神がなつかしくなればいい。(103頁)

ドイツでキリスト教生活を過ごした神父は、宣教師としてそれを日本の風土の中でどのように伝えるべきか悩まれたようで、以下にその思いが見て取れます。
  • ……日本人の心に紹介されるべきキリスト像に関して、私どもはもっと懸命に研究する必要があるでしょう。それには、ヨーロッパ的装飾(ヨーロッパの垢といった方が正しいかもしれませんが)を洗い落とさねばならないでしょう。ヨーロッパ的習慣と堅く結びついたキリスト教の姿は、多分しばしば日本人の単純直截な思考法や、美的宗教感情に受け入れがたいものがあるのではないでしょうか。真理でも霊でもない贅肉を捨て、啓示をもっと浄化し、人の心に直接射し込む光として備える必要があると思うのです。(136~7頁)

本書冒頭の「神父の人と生涯」(8~20頁)で、神父の盟友だったブルーノ・ビッター氏が次のような事実を記しています。
  • ホイヴェルス神父は1890年8月31日ドイツのウェストファーレン生まれ。来日は1923年の関東大震災のちょうど一週間前。
  • 1975年8月31日、85歳の誕生日にホイヴェルス神父本人からビッター氏が聞いた話によると、53年間の日本での宣教活動の間に神父から洗礼を受けた信者は3000人。神父は誇張してものを言わない人だったので、その数はさらに多い可能性がある。
  • 神父は1977年6月9日正午ごろに日本で永眠。6月14日午後1時から四ツ谷の聖イグナチオ教会で行われた葬儀ミサの参列者は2500人以上。参加者の心を大きく揺さぶるミサであった。
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