2018年4月27日金曜日

【信仰書あれこれ】わかって、わからないキリスト教

渡辺善太(1885-1978)著『わかって、わからないキリスト教』(1975年、ヨルダン社)をとりあげます。1960~70年代に著者が銀座教会で行った説教をほぼそのまま書き起こしたようで、臨場感豊かです。

以下では、81歳の時の説教「選びの意味転換」のエッセンスをご紹介します。

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本論に入る前に、著者の議論の前提を以下に要約しておきます。
「日本人はキリスト教を信じる時に、自分の力でそれを選んだという意識が強いが、自分で決めたと思っている限り、捨てることも簡単。日本人クリスチャンが洗礼を受けながら長続きしないのには、このことが関係している。要するに、真のキリスト教が分かっていない。自由主義神学も同じで、自分が満足しない教えは捨てるし、合理的だと思える部分だけを受け入れる。つまり、聖書を心から信じて、その前に頭を垂れて聞き従うということをしない」。

以下、本論です。
  • 「自己反省の始まらない信仰」というのは偽物なんだ。(中略)教会へ行って洗礼を受けるようになるまでには、「多くの目に見えない関係していたことが」ずうっとわかってくる。こうなってくると、俺が選んだとは思うが、誰が、ということなく準備がせられていた、ということに気づく。これが信仰による反省です。で、ことに自分自身の過去の生活が反省されてくる。あんなこと、こんなこと、喧嘩したこと、恨んだこと、……そういうことがあったからこそ、徐々に信仰に近づくようになったのだなあと思われるようになる。ここに、そう、「俺が選んだ」という絶対的な自力の宗教の「転換」が現われている。(中略)この翻りができないと、教会もわからない、説教もわからない、牧師も分からない。(52~57頁)
  • 反省の「極」、選びということの「極」が、「神は……天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選び……」(エペソ1:3から)。ここまでいく。もう「母の胎内から」、じゃない。私というものがおよそ存在しなかった時から、神の御旨には私があった。天地が創造される以前から、キリストにおいて私を選んでおいてくださった――これがキリスト教で言う本当の「選び」というものです。ここから下がってきて、何のために選びたもうたか、すなわち神の選びの目的ということに考えがいく。そしてそこに使命感が生まれてくる。……この使命の「ために」選ばれたんだ、という「使命感」が出てくる。(58~59頁)
  • 神によって、私は選ばれた。人の誉れを求めるためじゃない。こういう人々のね、本当の満足は内なる満足です。死ぬ間際まで本当に心の奥底から使命に尽くしたという喜びだ。……人にはわからないが俺はあの神様に選ばれた、それで私は存在しているんだ。それで私は毎日の仕事をしているんだ。どうです。本当にこの自覚が内に持てたら――(61頁)
  • この選ばれたという信仰は、もう一度翻らなきゃいけない。選ばれたからその選びを実現するという、この翻りがあって初めて「選び」が起こる。「選ばれて選ぶ」。パウロはキリストに言ってるでしょう。「キリストこれを得させんとて我をとらまえたまえるなり」(ピリピ3:2)。捉えられて取る。選ばれて今度は選ぶ。すなわち他力と自力が完全に一つになる、とでもいうことになるのです。選びにおいて選びとる。今日やったことに満足しない。もう明日は新しく選びとる。……昨日の繰り返しじゃない、去年の繰り返しじゃない。やることは同じように見えても内容がまるで違い、自覚が違うんだ。……選ばれて選びとる、捉えられて取る、知られて知る――これが聖霊の業です。(62頁)
  • 聖霊の業はたくさんありますが、第一に聖霊は、信仰に入るまで、私どもが知らないうちに私どもを導いておいでになる。同時にまた、今の選びがわかってのち、聖霊は我らの内に働きたもう。「神は御心をなさんために汝らの内に働き、汝らをして志を立て、業を行わしめたまえばなり」(ピリピ2:13)。……聖霊が私どもの内に働きたもうて、他動的に、ではない、私どもの意志を奮起さしめたまいて、私どもをして御心を行わしめたもう。……聖霊というと、気狂い(*差別語でしょうが、原文のまま引用)のようになることと思うと、そうじゃない。静かに静かに、神が私どもの内に働きたもう。その御心を行わんために私どもの内に志を立て、これを行わしめたもう。こうなってくると、「選び」ということが第三段階になってきて、選ばれて選ぶ、捉えられて捉える、知られて知るという本当の意味の一致が起こって、渾然と「ひとつ」になる。これが選びという意味の転換です。どうか、最近に洗礼をお受けになった方、四十年、五十年信仰生活におられる方、私どもをも含めて一同、この福音の心底の理解ができて、そして社会的政治的な一切のことへの目が開かれるように。まず根源的には、このことが経験されるようにしたいと思います。(62~64頁)
著者の説教は、『銀座の一角から』(ヨルダン社)『日本の説教者9 渡辺善太(日本基督教団出版局)』や、ヨベルから出ている著作集などから読むことができま

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月23日月曜日

【信仰書あれこれ】私はなぜキリスト者であるか

日本キリスト教団出版局から鍋谷堯爾の訳でO・ハレスビー(ノルウェーの神学者)の『みことばの糧――日々新たに』、『祈りの世界』、『みつばさのもとに――信仰といやし』 といった好著が読めます。ここでは、むかし聖文舎から出ていた『私はなぜキリスト者であるか』(岸千年訳、1955年) をとりあげます。

訳者は序文で、「本書は、ハレスビー博士の体験から生まれたもので、博士の信仰告白の記録といっても過言で」はなく、「翻訳中いくどか博士の真実あふれる信仰へのすすめに胸を打たれた」と記しています。私にとっても自身の信仰体験と重なる部分が多く、興味尽きない一冊です。

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新書版250頁余りの本書は、「うたがい/うたがいから信仰へ/私はなぜキリスト者であるか/キリスト教の神秘的要素/悔い改めの論理/選択/選択したかたがたへ」という七つの章からなります。

キリスト教への疑いに関する説明から話が展開されます。

  • 少し前の時代には……極めて少数の懐疑者だけでした。他は全部キリスト教の真理を信じていて、聖書を神の言葉として、またキリストを神として受け入れていました。……今では、疑いは、教育を受けた者の間にも、その知識が極めて限られている人々の間にも、多くの人が考えているより以上に一般的であります。……私どもが記憶しなければならないことは、以前存在していた聖書やキリスト教に対する大きな信仰も、あまり価値はなかったということであります。それは、たいがいの場合、個人的な救いの経験もなく環境から引き継がれていたもので、したがって、人格的でない伝統的なものでした。……私どもが記憶しなければならないことは、聖書は神の言葉であると主張するだけでは何ぴとも救われはしないということです。この「信仰」が、どれほど個人に関係を持たず無力であったかは、今、はっきりとわかるのです。(1~2頁)


そして、「信仰」を体験的に知ることの大切さが強調されます。

  • 体験だけが、私どもの霊魂を疑いから確かさへと導くことができるのです。……神は生ける実在です。その人たちは神を体験しました。その人たちの持っているものは、平和と喜びと力とを持った体験の保証です。(12~13頁)
  • 私もまた疑いの様々な段階を経てきました。私は、疑いの持つ苦悩を感じました。しかし、また、疑いから抜け出て信仰に行く道、すべての懐疑者に開かれている道を知っています。……疑いを克服するために私の力添えをあなたに差し上げるのに、私は論理的な議論であなたの疑いに出むかいません。……疑いを処理するためにあなたが通らなければならない体験を指摘しましょう。同時に、これらの体験を得るためにあなたが歩まなければならない道筋を示しましょう。(14頁)


体験と教理、あるいは奇跡との関係については、こう説明します。

  • (人々は)キリストに出会った時に体験した事柄の主要な内容を短い言葉で表す必要を感じました。これらの文は、教会の信仰告白と呼ばれています。……この教会の持つ共通の信仰告白が含んでいる教理に注意してください。これらの教理は、個人が受け入れなければならないものとして教会が示しているのではないのです。……教理は、個人がキリストを自分の救い主として体験するとき確信するに至る、キリストに関わりを持っている事柄を言い表すのです。(17頁)
  • 私どもの心は、基礎となる経験を持たない間は万事考えられないものを宣言することは強要せられるように感じるものです。しかし、私どもの心が事実を経験するとすぐさま、私どもの知的な基礎全体が変えられて、矛盾と不合理性とが消え去るのです。(26頁)


信仰の確信を得るために著者自身が踏んだプロセスが、具体的に示される有益な本です。改訂新訳が望まれま

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月18日水曜日

【信仰書あれこれ】森有正のキリスト信仰

現代のアレオパゴス――森有正とキリスト教』(森有正古屋安雄加藤常昭、1973年、日本基督教団出版局』 は、森有正を相手に、加藤常昭(本書発表当時、東京神学大学教授)と古屋安雄 (本書発表当時、国際基督教大学教授)が鼎談形式で話し合い、森有正の信仰を浮き彫りにする本です。

本書から、森有正の興味深い発言をご紹介します。

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プロテスタントの牧師を父に持つ森有正は、中学卒業までの11年間、カトリックの曙星に通わされたそうです。

  • プロテスタントからカトリックになるかという問題で先方から、やいやい言われた時にそうならなかった理由はひとつです。むこうの批判は、プロテスタントは信仰が主観的だから、そういう主観的なものに自分の霊魂の世界を委託していたら、神様が本当にどう思うかわからない。カトリックのように、客観的に神様のおぼし召しと、神様が制定された教会というものに頼って、自分の救いを客観的に全うしなければいけない、というのがむこうの論旨ですよ。……ことにキリスト以来、一貫して続いている教会ということがあるわけですが、これはずいぶんたくさんの人々をゆすぶると思うんですよ。しかし、私は考えたんですが、個人の信仰というのは主観的というけれど、カトリックになるのだって、個人が決心してなるわけでしょう。……感覚的に目に見えているカトリック教会に、自分の一生を託することだって、自分で決心しなければできないことです。それから、魂で信ずる、キリストに自分を委ねるということだって、その点では両方まったく同じで、客観的、主観的という区別はどこにもない。……キリストによって罪が赦される。罪という本質を考えたとき、罪というものが外形的な問題で処理できたりするものでは絶対ないということは、僕の牢固たる確信ですからね。それだから僕は動く必要を感じなかった。……建物とか伝統とか儀式とかによって、客観的だと言っても、そのほうがよっぽどあぶないですよ。(37~38頁)


信仰の確信についてはこう語ります。

  • 結局私は、キリスト教を信じているというのは、……恩寵がその内的権威をもって私どもを強制して信者にしている……私どもは信ぜざるを得ないから信じているという面があると思うのです。信ぜざるを得ないという確証は、「経験」の中で神が我々に与えるわけですよ。それがなかったら、牧師が伝道するなどというのもおかしな話だし……やはり我々の中に、恩寵によって、ともかくキリスト教の神を信じていく以外には自分の生きる道はないんだというところに立たされていないと問題にならないと思います。(77頁)
  • 僕はもう、実際、キリスト教が嬉しくなるということが、本当になくてはならないし、僕にもそれがありますから、そう言うわけですけれども、生まれながらの人間というのは、そういうものを喜ばないものです。なんとなくのんびりして生きたいのに、さあ恩寵だ、さあ十字架だ、それ罪だということになると、みんなしょんぼりしてしまう。けれども、それにもかかわらず、さっき僕が申しあげたように、やはり神様の、ある「権威」に強制されて、ここまで来てるわけですから。それは尊いものだと思うし……。(113頁)


教会で罪を説くことの重要性を強調します。

  • 神様の義というものは、人間の心の中に隠れているものを明らかにさせるものであるという、罪の問題ですね。この問題は、キリスト教が倦まず弛まずやらなければならないと思いますよ。すべての問題がゆきづまった時に、その根底に罪があるということは、これは例外なくそうなんですから。罪がなければ、人間として問題は何もないわけですから。それは、私は非常に確信していることです……なぜ社会問題がもつれ、病気が起こるともつれるかというと、やっぱり本当に人間というのは、己を欲して他人を滅ぼそうとする罪の本質があるわけですからね。家庭の不和にしても何にしてもそうなのだし……神様が存在することを嫌がるという、そういう人間の「罪」の本質というものを、何らかの形で明らかにしていただく、それ以外に人間を救う道はないと思います……で結局、「神様の恩寵」と「人間の罪」の認識ということはひとつのことなのだから、片一方がなければ片一方はわからないわけですから……。(114~115頁)
  • キリスト教の福音の本質が、人間の罪の赦しであるということが、自分の、それこそ私の言葉を使っていえば、「経験」の面に形として(そのような人には)現われていないわけですよ。だから、絶えず観念の面をフワフワ飛んでいるからだめなんです。なぜキリストが十字架についたか、ということがはっきりしないわけですよ。なんか、人間を愛する偉大な理想のためにキリストが十字架についた、なんで考えてるのでしょう(そのような人は)。(122~123頁)


本人の著作以外に、関屋綾子著『一本の樫の木――淀橋の家の人々』 や、た栃折久美子著『森有正先生のこと』(1983年、筑摩書房) も森有正の人となりに触れる興味深い本で

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月16日月曜日

【信仰書あれこれ】ファンダメンタリストに対する適切な助言

ドイツの神学者ヘルムート・ティーリケは、1963年の半年間に北米各地を訪れ、大学教授・学生・牧師・ジャーナリスト・テレビ関係者等と興味深い対話をしました。『現代キリスト教入門――福音的信仰の核心』(佐伯晴郎訳、1972年、ヨルダン社) でそのエッセンスが読めます。

率直に意見を表明し質問を投げかけてくる学生たちとの議論が特別に印象深かったようですが、その中のファンダメンタリストたちに対して、著者が感じた大きな責任について記した部分をご紹介します。

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ファンダメンタリストは、「自由主義神学に対抗して起こった、アメリカを中心とする、極めて保守的なプロテスタント信者。逐語霊感説に立って聖書の無謬を信じ、進化論や、聖書の歴史的批評的研究に反対する」(本書13頁の訳注から森川が自由に引用)人々です。

ファンダメンタリストの素朴な、しかし信仰を議論する上で無視できない「信念」について、著者は危惧を示し、助けの手を差し伸べようとしています。
・この国のファンダメンタリストたちは、キリスト教信仰の本質を保持しようと望んでおり、……この国の教会の、もっとも信頼性の高い、自己犠牲をいとわぬメンバーなのだ。しかし私は彼らが、思いあがった啓蒙主義者 たちから頭ごなしに批判され、その結果ひじょうに不当に扱われているのを、悲痛な思いで見せつけられてきた。そこで私は、どうすれば、これらのファンダメンタリストたちを助けることができるか、いろいろと考えた。(本書10頁)

逐語霊感説の問題点と歴史的批評的研究の利点を、ファンダメンタリストたちの気持ちに配慮しつつ明快な論理を駆使して説くくだりは、すべての信仰者に有益なものでしょう。

  • 彼(=神)は、人間のペンや筆の運びを指導するようなことで、満足される方ではありません。このことこそ、実は、逐語霊感説を唱えた人々が考えたことでしたが、それを現代風に言うと、天のサイバネティックスという、夢か幻のような考えになります。つまり神は、自動速記機械を操る人と同じことになるのです。(中略)このような考えの別の面が、私たちにとって非常に危険なものとなります。それは、ここから生まれてくる、聖書に対する律法主義的な態度であります。もし私たちが、あらゆる場合において、とにかくここに<文字を持ってこのように書いた>方は神ご自身であるという絶対的理由によって、何かを強制され、意味のよく分からない聖書テキストについては、ただひとつの解釈だけを聞かされたり、比喩的に教えられたりするとすれば、いったいどのようにして私は、この聖書から、神の自由な恩寵について、また私たちはもはや幼稚な子どもではない(エペソ4:14 )ということについて、聞くことができるでしょう。(21~22頁)
  • 自ら人間の歴史の中に入って来られた神は、それにより、まったく確かに、歴史に関する歴史学的な作業を、きよめてくださったということになります。「言葉は肉体となった」とか、「主は僕のかたちを取って、私たちの中に入って来られた」と言いながら、同時に、「そんなに近くに寄って、この人間となった神を眺めてはいけない! お前たちは受肉を調べたり、その歴史を研究したりしてはならない! おまえたちは、この神を、信仰をもって受け取るか、それとも、不信仰によって絶交するか、そのいずれかである」などと言うことは、まったく無理な話であります。(26頁)


歴史的批評的取り組みを著者は全面的・無反省に認めるのではなく、研究者自身の姿勢が問題になることを指摘します。

  • 人間のすべての業には、や自己過信がしみこんでいるが、歴史学だけは例外であるなどということになれば、それはとんでもないことです。知覚する理性とともに反省する理性がある<決して自由奔放な合理主義だけがあるわけではない>のとまったく同じように、信仰から発する歴史の考察――それは神のへりくだった姿を究め、神の和解の業を、感謝を持って記録します――もありうるのです<したがって、すべてのものを相対化する歴史主義だけがあるわけではない>。(27頁)
  • もしも私が、機械的な逐語霊感説に固執するとしたら、私は、歴史学的な問題を信仰の領域から追い出し、それを、信仰なき世界に任せることになります。そして、思想史においてわずかでも学んだ人は、信仰なき世界が、この神の歴史をどのように取り扱うか、教会の「門の外で」いったい何が起こるかについて、よく知っています<ヘブル13:12 >。(27頁)


キリスト教的真理の究明にあたり、著者が重視し強調したいことはパスカルの言葉とされる「船が確実に港に着くことを知ってさえおれば、船中で嵐に会うのは素晴らしいことである」(37頁)に要約されます。

信徒である私たちと共に船中でイエスが眠っておられるのだから、嵐(=ブルトマンらの歴史的批評的聖書解釈)におたおたする必要はないと、著者は次のようにファンダメンタリストを励まします。

  • 自分たちの信仰が脅かされているとだけ思うような人<そうであればあるほど、彼らは神学的課題に対してますます消極的になりますが>には、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを知っている」(ローマ8:28)という聖句でお答えすることができましょう。(60頁)


本書は専門用語が多く翻訳がこなれていないことから、理解しにくい部分もありますが、「教理の拘束性」「奇跡の意義」「真の信仰と偽りの信仰」「異言を主張する人たちとの出会い」「永遠の御国における不信仰者の運命」「倫理と『予定』の関係」「教会の政治参加」などに興味のある人には得るところの多い本です

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月11日水曜日

【信仰書あれこれ】『使徒言行録』理解の助け

聖書理解の助けになる本として、ポール・L・マイヤー著『最初のクリスチャン』(山田直美訳、1996年、日本基督教団出版局) をとりあげます。訳者あとがきによると、著者は訳書出版当時、米国の大学で古代史を教えています。父は、ルーテル・アワー創始者のウォルター・A・マイヤー。

本書は、新約聖書の『使徒言行録』 にそって、キリスト教が世界に広がる初期の様子をわかりやすく、かつ興味深く記した本です。歴史学・考古学などの情報も豊かに盛り込まれています。

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この本の特徴は、専門的な知識・視点に十分配慮しつつも、学術論文のような堅苦しさを感じさせずに、キリスト教の根が形作られる過程を生き生きと描いていることです。

著者はユーモア感覚のある人で、その一端は次のような記述からわかります。
・『使徒言行録』の第二章のペトロの説教を読むと、そこに現れている劇的なまでの彼の変貌ぶりには誰もが驚かされる。確かにペトロは以前も、時折、その大胆さを示すことがあった。――イエスが「岩」と名付けていたように、実際、彼は信頼される面もあった。だが、全般的にはいろいろと問題の多い岩であった。ガリラヤ湖の波や、カイアファの屋敷での女中のからかい、そして受難日のイエスの審問に出合うと、「岩」はゼリー状になってしまう。……(本書33頁)

・牢の中のペトロは、明らかに過剰なまでの警備に固められていた。(中略)ところが、アグリッパがペトロを引き出そうとしていたまさにその前の夜、まさかと思われたそのペトロの逃亡が、起きてしまったのである。……天使が現われて、手の鎖を外し、分厚い鉄の門を含めて必要な牢の戸はすべて開けたものの、ペトロがなかなか目を覚まさないので手こずったらしい様子が、ルカによって記されている。だが、ペトロを責めないで欲しい。ゲッセマネ以来、重大局面で眠り込んでしまうのは彼のいつもの癖となっていた。(68頁)

『使徒言行録』と同時代の資料をわかりやすく引用しているのも本書の長所です。例えば、こんな説明が見られます。
・最も尊敬されていたローマの歴史家の一人、コルネリウス・タキトゥスは、紀元64年のローマにおけるネロの最初の大がかりなキリスト教徒の迫害について、次のように述べている。(タキトゥスの本からの引用は省略)注目すべきは、もちろん、「おびただしい数の」ローマ人のクリスチャンが処刑されたという箇所である。ラテン語のmultitudo ingensは、はっきりした数を示しはしないが、タキトゥスは他の個所では、少なくとも千に近い、数百という意味で使っている。また、クリスチャンをひどく嫌っていた彼が、わざわざその数を水増しするなど考えられないので、古代史の研究者たちは大体、タキトゥスの言葉を額面通りに受け取っている。(36頁)

本書の主要なテーマは、教会が誕生したペンテコステの出来事と、キリスト教初期の偉大な宣教者パウロの働きです。この本を読むことによって、これらのことが深く学べることでしょう。

著者は、本書以外に『最初のクリスマス』『最初のイースター』という本(訳者は山田直美さん)を出していて、こちらも読み応えのあるものでないかと想像します

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月10日火曜日

【信仰書あれこれ】ナイチンゲールが看護婦たちに語ったこと

フロレンス・ナイチンゲール は、生涯に一万数千の手紙を書いたそうです。これらとは別に、聖トマス病院にあった看護婦訓練学校の学生宛てに14通の長い書簡を送っています。

14通のうち8通が『新訳・ナイチンゲール書簡集――看護婦と見習生への書簡)(小玉香津子・薄井坦子他編訳、1977年、現代社) に載っています。書簡全体を貫く主題は「看護と科学と宗教(信仰)とのつながり」です。

彼女の深いキリスト信仰に触れられる部分を、以下に何か所か引用します。

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・看護のような仕事においては、忙しくて、もう頭も手もいっぱいといったときに、もし神と隣人とに対する真剣な目標を心の中に持っていないとなれば――たとえうわべは隣人に尽くしているように見えても――決して彼らのためにも、神のためにも尽くしてはいず、もっぱら自分のためだけで終
わっているといった事態が、いともたやすく起こりうるのです。(8頁)

・キリストにとっては、神がすべてでした。しかし私たちは、時に神を見失ってしまいます。一日を病棟で忙しく気を使いながら過ごして疲れきった後でも、「父よ、私の霊を御手に委ねます」という気持ちで心を休めることができますか。また気がかりな患者のことを夜の闇の中で思いながら、「神よ、私を見守っていてくださるように、彼らを見守ってください」と祈れますか。また朝になれば、神のものなる病人の世話を通して、神に仕える一日がまた与えられたと、心をはずませて起き上がることができますか。(38頁)

ローマ人への手紙の第12章 は「私たちのあり方の原則を述べたものとして、この章より優れたものが他にあろうか」と言われてきた章なのですが、そこに「慈善をする者は快く慈善をすべきである」と書かれています。それは、私たちが看護や親切を行うにも、あたかも自分にとっては何でもないことのように、また、人ではなく神に仕える気持ちでせよ、という意味なのです。「互いに思うことをひとつにし」とあるのは、私たちが他の人と同じ思いと気持ちとを持ち、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」、自分の中から出て他の人の思いの中に入っていく、という意味です。(46頁)

・私たちは自分の名誉などに関わりなく、正しいことは正しいという理由からだけで行うようにしているでしょうか。私たちが自分の心に、ただひたすら「何が正しいか?」、あるいは(同じ質問ですが)「何が神の意志か?」と問うているようであれば、そのとき私たちは、まさに神の「国」に入ろうとしているのです。(62~63頁)

・私たちが神の前に捧げて恥ずかしくないことだけを口にしたり行ったりすること、これが守るべき原則です。私たちは神の前に、陰口やつまらない中傷や、偽りや色恋沙汰や、不正や不機嫌や、悪意や嫉妬心や、愚痴などを捧げることはできません。これらのことから生じてくる害悪のすべてについて、私たちが責任を負っていることを思いなさい。(90頁)

書簡集全体がこのような言葉で溢れています。看護職についておられる方や、将来そのような職を目指している方に特にお勧めします

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月9日月曜日

【信仰書あれこれ】20世紀の宗教書ベストワン

米国のキリスト教月刊誌”Christianity Today ”が2000年代初頭に実施した調査によると、現代の宗教家・宗教思想家の著作で時代を超えて重要だと思えるもののベストワンは、C・S・ルイス『キリスト教の精髄』(柳生直行訳、新教出版社、原書名Mere Christianity) だそうです。

ベスト10については以下をご覧ください。ヘンリ・ナウエン の著作を数多く出版している「あめんどう」代表の小渕春夫さんがコメントしています。
20世紀の宗教書ベストテン → https://amendo.exblog.jp/2195684/

ちなみに、何年か前からネット配信のみで日本で情報提供している「クリスチャン・トゥディ」は、上記”Christianity Today”と名前が酷似していますが、無関係です。

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ナルニア国物語」 のC・S・ルイスはキリスト教護教家としても有名で、「ナルニア」自体がキリスト信仰を基礎に書かれた作品です。

『キリスト教の精髄』は、1942年にルイスがイギリスのラジオで一般向けに行った講演を本にしたものなので、大変読みやすいです。

ルイスは英国国教会 の信徒ですが、本書の立場について次のように断っています。
「英国国教会に行くべきか、それともメソジスト 、あるいは長老派 、あるいはローマ・カトリック教会 を選ぶべきかといった問題に関しては、本書から答えを期待することはできないだろう。答えが出ていないのは、私が意識的に出すまいとしているからであって……」(3頁)

この本は、ほとんどすべてのクリスチャンが共通に抱いてきた信仰の中味を説明し、弁護するために書かれています。高度に神学的な問題は扱われていません。そういう議論は未信者にとっては弊害しかないと著者が考えるからです。

本書を著すにあたってルイスが特に心配したのは、自分が書いたことが英国国教会に特有の、あるいはルイス独自の考えであって、キリスト教全体に共通したものとは言えないのではないか、という点でした。その危惧を払拭するために、彼は本書の第二部(クリスチャンが信じていること)の原稿を四人の聖職者(英国国教会、メソジスト、長老教会、ローマ・カトリック)に送り、批判を求めたと言います。メソジストの牧師は、信仰について説き方が不十分と言い、ローマ・カトリックの神父は、それほど重要でない贖罪説の紹介にやや深入りしすぎた感があると不満を述べたらしいのですが、その他の点では、書いてあることについて全員の意見が一致したそうです。

このように周到な配慮をしつつも、本書第四部「人格を超えたもの ― 三位一体 論序説」でルイスは、非常に突っ込んだ自説を展開します。その内容は、ルイス独自の思索と経験に裏打ちされたものですが、私は自分の信仰を理解する上で大いに助けになりました。

本書は、本来的なエキュメニズムに貢献するのではないかと私は思っています。次のような記述があるからです。
「分かれている宗派が、教義 においてはともかく、精神において本当に近づきうるのは、それぞれの中心、つまり、各宗派の生んだ真実の子らが住んでいるところにおいてなのであり、このことはまた、各宗派の中心に何かが、いや何者か(訳者注:キリスト)がおられて、そのお方が、あらゆる信仰上の相違、気質の違い、また、かつて互いに迫害したりされたりしたという嫌な思いなど、一切の妨害物を排して、同じ声で語っておられるのだ、ということを示しているように思われる」(9頁)

ルイスの提示する具体例が機知に富んでおり、柳生直行氏の読みやすい訳文と相俟って、本書に不朽の価値を与えています。自らの信仰を省み整理するために有益な一冊でしょう

JELA事務局長
森川 博己

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2018年4月2日月曜日

【信仰書あれこれ】福音を生きる人々から力を得る

神学書や説教の本も悪くないですが、もっと身近で励ましとなるのは、自分と同じような生活を送るキリスト信徒の証しではないでしょうか。

さまざまな人の40近い証しを集めた『美しいものを信じて―兄弟を神のもとへ』(編集・監修フォコラーレ、2017年、サンパウロ)は読みやすく、いろいろなことを教えられます。

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フォコラーレは、友愛による世界の団結を目指した、キリスト教を中心とした国際運動。また、それに参加し運動を促進する団体のことです。現在、日本を含む世界中で約10万人以上の人々がこの運動に参加しています。 ウィキペディア等を参照)

運動は、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの言葉を日常生活で実践すること目指しています。つまり、「私たちが隣人のためを思って言うこと、なすことは、そのまま神のためを思って言うこと、なすことになります。また、私たちが隣人に反感を抱きながら言うこと、なすことは、そのまま神に反感を抱いて言うこと、なすことになります」(本書3頁)という信念です。

掲載されたものの中から、ある男性信徒の証しをご紹介します。(本書4750頁)

男性は帰宅時に横断歩道で車にはねられ、気がついたら病院のベッドの上でした。取り囲む人々の中に、絶望と怖れの面持ちで自分を見つめる親子がいます。信号を見間違えた少女が彼をはねたのでした。その時彼は、「すべては神様の愛」という言葉を思い出し、親子のことを心から哀れに感じ、愛の微笑みを返しました。すると二人は緊張が解けて少し安心した顔になり、ボロボロと涙を流し始めたそうです。

すごいのはこの後です。事故から一週間たっても男性の熱は下がらず、視力もふらつき、片耳の聴力がほぼ喪失状態でした。動くこともできず、何もできない状態です。彼は心の中に、十字架に架けられ苦しんでいるイエスの呼びかけが聞こえてくるようだったと言います。それは、「さあ、勇気を出しなさい。あなたは、私と似た姿になったのですよ。私はみんなを愛しているから、この(十字架の)苦しみを(天の父に)捧げたのですよ。元気を出して、私と一緒に、みんなのために、その苦しみを捧げましょう」。

男性は事故を、こう総括します。「今回の事故を通して、私を強くご自分のもとに引き寄せようとされた、神様の大きな愛を体験しました。元気な時には、知らず知らずのうちに、仕事や活動など、神様以外のものが自分の心の中心になってしまうことがあったかもしれませんが、事故を通して、神様は、ただご自分だけを選ぶようにと、私を引き寄せ、一番大切なものを、改めて私の心に深く刻みつけてくださいました。たとえば仕事も、もちろん神様のためにしていたつもりですが、ともすると、好きな仕事だったので、純粋な神様への愛がなくても喜んでやっていけることだったかもしれません。でも、すべてを取り去られて、神様だけと向かい合うことになった時、私は、仕事でも何でも、『あなたが望まれるなら、それをしたい』と強く感じるようになりました……」(本書50頁

この男性と同じ立場になった時、自分ならどう考えるか、大いに考えさせられました

JELA事務局長
森川 博己

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