2019年11月22日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信じている事柄をはっきりさせる

イエスは生きておられる――私たちの信仰告白』(J.ツィンク+R.レーリヒト著、1975年、新教出版社)をとりあげます。

訳者あとがきによると、原書は「キリスト者が信じている事柄」という題で、読者一人ひとりがそれぞれの力量に応じて本文と対話し、自分の信じている事柄を、より一層明快に把握するのに役立ててほしい、というのが著者の願いだそうです。

教会学校の中学科でも学べるように、やさしい言葉づかいで訳されています。

◇◆◇

教会は己を捧げることによって生きる
  • おのれやその現状を守ったり、数をふやしたりすることが、教会の目標であってはなりません。教会は、拡がり、そして、変わり、真理に味方し、暴力に抵抗し、正義と平和とに貢献すべきです。……教会は、権力や制度をたよりにすることはゆるされません。教会は、規制する力をもたずに人と人とを結び合わせ、そして、しいたげられる者の側に立つのです。教会は、不正な扱いを受けて苦しむ時があることを覚悟しなければなりません。そして、他の人びとの上に不正が加えられる時には、雄々しく、苦しみをともに担うのでなければなりません。(25~26頁)

変化は神の霊によってもたらされる
  • もしもわたしたちが、神の霊の働きを抜きにして、聖書を解釈する場合には、わたしたちは、だれにも役立たない死文と化した伝承か、きのうの思想か、きょうの思いつきを代弁するにすぎません。聖書の真理は、それがわたしたちと世界を変革するときに、そのときだけ働くのです。根底から変革し更新することは、わたしたち人間にはできません。そのことは神の霊だけができることです。(28~29頁)

失敗から立ち直るための告白
  • わたしは信じませんでした。わたしは、わたしの自由を濫用し、そして、わたしの良心にそむきました。わたしは、いたずらに憂え、そして、妬み、恩を忘れ、疑いをいだき、失望し、不遜で、独善的でした。わたしは愛しませんでした。わたしは過ちを犯しました。わたしは、快適な道をたどりました。わたしは、大勢に順応し、そして、犠牲になることを避けました。わたしは、キリストに似る者となるまいとして、そして、キリストの道をたどることを恐れました。わたしは、目標を見失い、そして、望みをなくしました。わたしは、自分をえらい者のように思いました。わたしは、時間と能力を浪費し、不正を大目に見、苦しみと孤独とを見すごし、そして、人びとをなげやりにしました。神が幸いを賜ったのに、わたしは感謝をしませんでした。(85~87頁)

    著者の一人であるイェルク・トゥインクの別の作品、『祈りを求めて』を本シリーズでとりあげています。こちらもお楽しみください。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    2019年11月15日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】信仰生活における習慣の大切さ


    眠りの神学――J.ベイリー説教集』(大塚野百合訳、1970年、日本基督教団出版局・アルパ新書2) をとりあげます。

    原書(1962年)タイトルは“Christian Devotion”であり、神学的観点による「眠り」の説教集ではありません。

    ◇◆◇

    習慣の大切さを説いた説教の一部を以下にご紹介します。

    習慣は霊的歩みを確かなものにする
    • 最も偉大な聖徒たちさえも、霊的に渇くことがあると嘆いています。それは闇と疑いの時期であり、霊が死んでしまったような時期なのです。……すぐれた聖徒たちは、率先してキリスト教的なしきたりを厳守するよう、自ら鍛錬してきたのです。このように規則的にする習慣をつけて、それから一歩もはずれないように努力してきたのです。(107頁)
    • 私たちの内に霊的な火が燃えており、何にも増して神との交わりを願うときは、私たちに規則は必要ないでしょう。しかし、このような時にこそ、規則を作るべきなのです。……そうしておけば、神を求める思いが弱まり、霊的な火がくすぶるようになったとき、私たちが行っていた鍛錬が私たちを正しい道に導き、右にも左にも寄らず、まっすぐにその道を歩ませてくれるのです(107~108頁)

    習慣は感情から自分を守ってくれる
    • 毎日または毎週同じことを繰り返すということは、私たちを守ってくれることになります。……もし私に規則がなく、私の足のためにまっすぐな道を作ってくれなければ、私はのべつ幕なしに自分に言わねばなりません。「今日は教会に行く気がしない」とか、「今朝は祈る気がしない」と。その結果私は、教会にも行かず祈りもしないのです。(109頁)
    • 祈る気がしない時こそ、私はいっそう、祈りによって強められる必要があるのです。信者の集いに出たくない時こそ、私はそれらの人との交わりが、私をその中から連れ出してくれることを必要としているのです。聖餐を受けたくないと思うときこそ、キリストの体と血を食することによって、私の感情が変えられる必要があるのです。(109~110頁)

    集会参加を軽んじる習慣は信仰の減退につながる
    • かつてシカゴの有力な市民が、有名な伝道者であるドワイト・L・ムーディー を自分の書斎に迎えたとき、言ったのです。「教会の外にいても、その中にいると同じように、立派なキリスト者になれると思うんですが」と。するとムーディーは、何も言わず、やおら燃えている暖炉の火のそばに行き、真っ赤な石炭を一個火箸でつまみ出して、燃えるままにしておきました。その二人は黙って、その石炭がくすぶって火が消えてしまうのを眺めていたのです。「わかりました」とその紳士は言い、その次の日曜には教会に出かけたのです。(112頁)
    • 今もなおキリストは、私たちと共に安息日に教会に来たもうのです。主はここに、今いまし、私たちが教会に行くのは、主に会うためなのです。それゆえ、ある人たちの習慣のように、集会をやめることはしないで、主の良き習慣に従いましょう。(114頁)


    ジョン・ベイリーは、『朝の祈り 夜の祈り』 の著者として有名です。本書『眠りの神学』の末尾にはベイリーの従姉による長い手記が付されていて、著者がいかに真剣な祈りの人であったかがわかります。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】