2020年3月27日金曜日

【続・信仰書あれこれ(最終回)】一生読むに堪える信仰書

今から50年ほど前のことです。音楽評論家の故・吉田秀和が、ある新譜レコード(リヒテルが演奏したバッハの「平均律クラヴィーア曲集」)を「一生聴くに堪える演奏」と評しました。曲自体とても魅力的なのですが、一つ一つの曲を慈しむかのように奏でる繊細なピアノの響きは、何度聴いても飽きのこない、まさに不朽の調べです。

そんな昔のことを思い出しつつ、自分にとって「一生読むに堪える信仰書」は何だろうと考えたところ、答えは即座に与えられました。竹森満佐一著『ローマ書講解説教 Ⅰ~Ⅲ』(1962~1972年、新教出版社)がそれです。

何種類かある竹森氏の説教集に接したことがないのは、ある意味で不幸ですが、これから繰り返しそれが読めると考えれば、幸福の極みです。少しでも多くの方に、竹森満佐一の不朽の説教集をひもといていただければと思う次第です。

ローマ書講解説教 Ⅲ』のあとがきに、竹森氏は次のように記しています。「この説教は、一死刑囚のために書くことが動機であった。それが、その人の処刑後も続いたのである。今、これを完成して、その人から受けた数多くの手紙を通してその交友のことなどが思い出されて、感慨もひとしおである。東京の一隅の教会での説教が、極限状況に置かれた人々にも等しく福音として受け取られたことは、言いようのない感動を誘うものである。」(413頁)

第一分冊・第二分冊については本シリーズで触れたので、きょうは第三分冊の、「ローマの信徒への手紙15章14~21節」の説教から少しご紹介します。

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「説教」と「お説教」
  • 福音を語るのは、いわゆるお説教をすることではありません。説教とお説教……の区別で最も重要なものは、説教する人自身が、自分のためにも福音を聞いていることです。誰よりもまず自分が福音を聞きながら、その福音を語るのです。そうでないと、説教する人は、居丈高になって話をしているが、聞いているほうから言えば、まことに空しく感じられるのです。それが福音なら、あなたが第一に聞いたらどうか、と言いたくなるのです。神の言の権威と、説教者の権威が混同されては、興ざめどころではなくなりましょう。(334頁)

自分を見失わない伝道者の道
  • 我々は何のために伝道するのでしょう。……伝道は、信者を造り、教会を大きくしていくことであるというのは、決して間違ったことではありません。ただ、そういう言い方には、誤りやすい危険があることも事実であります。……間違いの少ない伝道者の道は、キリスト・イエスに仕えることなのです。ひとりの人に仕えるように、キリストというご主人に、どのようにして仕えるかによって、正しく伝道者になれるかどうかが定まるのであります。
    このことを目標とし、これから外れなければ、伝道者としての道を誤ることはありません。しかし、礼拝とか説教とか言っても、キリスト・イエスに僕として仕える姿勢が正しくできていなければ、その伝道は、結局は失敗に終わります。その説教も、力を失うときがくるものです。(336頁)

伝道の最終目標
  • 伝道は人を神のもとへ連れて行くことでありましょう。しかし、ただ神の話を聞かせるのではありません。話を聞かせるのは、ひとつの方法にすぎないのです。その人に、神を知ってもらうことも大切ですが、少し奇妙な言い方ですが、神にその人を知ってもらうのです。あるいは、その人に、神に知られたことを知らせる、と言ってもいいかもしれません。さらにはっきり言えば、その人を神に献げるのです。(中略)伝道は、人間を立派にするのが目的ではありません。人間を社会の役に立つものにするのが主要なことではありません。そうではなくて、その人を神のものにすることであります。自分が伝道しようとする人が、神のものになり切ったとき、その伝道は成功したとも、完了したともいうことが言えましょう。(336~338頁)

「信仰書あれこれ」は2018年1月にスタートし、2019年3月までに100件の記事を書くことができました。少し休憩したあと、2019年7月からは「続・信仰書あれこれ」と銘打って再開し、本日までで20件の記事を提供しました。

2018年10月末で自分がJELA事務局長を退任するにあたり、記念植樹のつもりで取り組んだ試みです。お読みくださる皆さんの励ましを感じながら、ここまで書き続けることのできた幸いを神様に感謝いたします。皆さん、これからも、主と共なる喜びと希望に満ちた日々をおすごしになりますように!

JELA理事
森川 博己

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【関連リンク】 
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

2020年3月18日水曜日

【続・信仰書あれこれ】キリスト者の自由

徳善義和著『自由と愛に生きる――「キリスト者の自由」全訳と吟味』(1996年、教文館)をとりあげます。ルターを知るための必読文献のひとつです。

以下で引用するのは、すべて徳善氏の文章です。

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『キリスト者の自由』の存在意義
  • この小著をもって、宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト教的自由」の理解に全く新しいものをもたらした。……その新しい理解によって、キリスト教そのものに革新をもたらしたのである。……その新しさにおいて、真にキリスト教の使信、信仰の核心に迫り、これを提示しえたからである。しかも、これが……神学的な認識や理論としてではなく、まさに、彼の生と死を賭した、彼の存在をあげてのかかわりからほとばしり出るような激しく、迫りくるものを内に秘めているがゆえに、その革新と核心に貫かれる小著が、衝撃的な力を持ちえたのである。(中略)キリスト教的自由、キリスト者の自由のパウロ的理解を回復し、さらに深めたところに、『キリスト者の自由』のもつ、新しさ、革新性があったと言ってよいであろう(9~13頁)

名詞型の思考から動詞型の思考へ
  • 一般にルターは名詞型の思考ではなく、動詞型の思考をすると私には思えるし、そこに中世の信仰、教会、神学からの宗教改革的転回のひとつの手がかりがあると思われる。「神の義」を名詞としてとらえるのではなく、「神は我々を義とする」という形で動詞的に把握されるという具合である。……そうすると、「私こそいのちであり、復活である」<ヨハネ11・25>とは、……「私こそが生かし、復活させる」という動詞型を含んでおり、それだからこそ「私を信じる者はとこしえに生きる」につながることになる。また、「私こそ道であり、真理であり、いのちである」<ヨハネ14・6>も「私こそが導き、その道を歩ませ、真理に触れさせ、真実とし、生かす」ことを含んでいる。(83~84頁)

律法と福音
  • 誤解してはならないことは、ルターはごく形式的に、律法は旧約聖書のもの、福音は新約聖書のものとはしていないということである。旧約聖書にも新約聖書にも、そのいずれにも、律法の働きをする神の言葉と、福音の働きをする神の言葉との二とおりの神の言葉があるのである。何であれ、人間の罪を告発し、人間を絶望に導く働きをするものは律法であって、「古い契約」でしかない。……たとえば、キリストの十字架――これは本来、福音の中心である――が説かれたとしても、それがイエスを十字架につけた人間の罪の告発しか説かないで終わるとすれば、そのとき、そのような十字架の説教は、単に律法の働きしかしていないことになる。(112頁)

「信仰+愛」ではなく「信仰=愛」
  • 中世に支配的であった考え方は、信仰は、せいぜい教会が教えることが正しいとして知的に承認することにすぎなかった。それでは全く何の力もなく、何の実も結ばないので、信仰だけでは不十分だということになる。そこで、信仰に愛が加わらなくてはならない、愛を加えなくてはならない、ということになった。信仰プラス愛として初めて、信仰の具体的な形が現れてくるというのである。そういう考え方、受け取り方にルターは真っ向から反対している。神が働かれる、そこに、無からの創造として、信仰が結果する。神が徹底的に先行するのであって、神の働きは全てである。そのように働かれる神がおられるから、そのような神を「私は信じます」ということになる。働かれる神とその神への信頼が、信仰というひとつの出来事の両面である。そして、この出来事にすでに愛がある。この出来事が神の愛に基礎づけられているからである。だから、信じる人間は愛する人間、愛に生きる人間である。(155頁)

本書冒頭には、ルターが『キリスト者の自由』を教皇レオ十世に贈った際の、次のような贈呈文が付されています。「(初めから十頁ばかりを省略)私はおそらく恥知らずでございます。誰でもが教えを受けるべきあなた、また、あなたの有害なおべっか使いの何人かがあなたを持ち上げて、王も裁判官も皆あなたから判断を仰がねばならないと言っているほどのあなた、これほど偉大な位の高いあなたに教えようとしているのですから。しかしこの点で私は、教皇エウゲニウス宛の文書における聖ベルナールに従います。この書はすべての教皇が暗記すべきであります。(後略)」(本書46頁)

上の文中の「聖ベルナールから教皇エウゲニウスに宛てた文書」というのは、本シリーズでとりあげた『熟慮について』のことだと思われます。併せてお読みいただけると幸いです。

徳善義和氏の編集になるものとして、本シリーズでは『世界の思想家(5)ルター』も紹介しています。こちらも素晴らしい本です。

JELA理事
森川 博己

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