2019年10月24日木曜日

【続・信仰書あれこれ】認知症と信仰


聖書を読んで想う』(渡辺正雄著、2005年、新教出版社)をとりあげます。

著者は科学史の分野で開拓的な業績をあげたクリスチャン科学者。驚きと喜びの源泉である聖書を伝えるべく、長年にわたり自宅を開放して「聖書を読む会」を主宰されました。本書は、その準備ノートから興味深い項目を拾い上げ書籍化したものです。

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以下では、「『ボケ老人』考」と題された部分を紹介します。「ボケ」は今では認知症と言われるのが普通でしょうが、ここでは、原文のまま引用します。

  • ボケてしまったら、せっかく一生懸命に学んできた生命の御言葉である『聖書』のエッセンスが何であったか、全く分からなくなってしまうのではないか。地上の命を終えるときにこそ最も強く呼び求めるべき救い主のお名前さえ忘れてしまうのではないか。いや、さらに、救い主を呼び求めるべきだということすら、私たちの意識から消え去ってしまうのではないか。我々は『聖書』から信仰によって救われると教えられてきたのだが、ボケてしまって、信仰まで朦朧としてしまったら、救われる可能性はなくなってしまうのではないか。(148~9頁)
  • 思うに、ここで本当に問われているのは、実は、死の床での私の信仰如何ではなくて、今日、只今現在の私の信仰如何なのだということに気づくべきではあるまいか。……キリストへの信仰が救いの条件なのであるから、もはや信仰を告白できなくなったボケ老人は救いから外れてしまっていると考えるのか。死者(もはや自分で信仰告白することなどできない者)をも生かすことのできるキリストの力は、お前がボケただけでお前にはもう効力を発揮できなくなってしまうほどに、それほど限られたものと考えるか。(149頁)
  • この問題は、それゆえ、今の時点でキリストを正当に信じるかどうかの問題に帰着するのである。将来ボケた時にどうかの問題ではなくて、キリストの救いは、ボケた者にも死んだ者にも、人間の側のあり方如何に左右されることなく、百パーセント有効に働くということを、今、信じるか否かの問題なのである。私たちはパウロと共に、「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38~39)との信仰を、今、告白しようではないか。そして、この「死も生も」の中に当然「ボケも」が含まれているのである。(149~150頁)
  • 次に、我々の周囲におられるボケ老人についてならば、「ルカによる福音書」5章18~26節……に見られるように、主イエスは、当人の信仰ではなしに、この人を主イエスのもとに運んできた「彼らの信仰を見て」この人を救われたのであった。このことを特に銘記しておくべきである。(150頁)
  • 私たちは、ボケるかもしれない将来のことを案じるのではなしに、死者をも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じようではないか。心が死んでしまった者をさえも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じることが第一なのではあるまいか。(150~51頁)

渡辺氏のキリスト教関連著作で読みやすいものに『キリストに出会う』(丸善ライブラリー)、『科学者とキリスト教』(講談社ブルーバックス)などがあります。また、一般書としては『日本人と近代科学』(岩波新書)、『文化としての近代科学』(講談社学術文庫)などがあります。

JELA理事
森川 博己
 
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