昨年の3月に「一冊だけ手もとに置けるとしたら」という題で、『聖書のことば』(宮本武之助著) をとりあげました。同じ質問を今、自らに問うなら、躊躇なく『ローマ書講解説教Ⅰ~Ⅲ』(竹森満佐一著、1962~72年、新教出版社) を挙げるでしょう。
今年の1~5月に、十種類近くある竹森氏の講解説教を順番に読了し、6月から再び、『ローマ書』に目を通しています。信仰書に限らず、読んでから数か月後に同じ本を再読するのは、私には初めての経験です。
本書は、日本基督教団・吉祥寺教会で竹森牧師が何年かにわたって行った礼拝説教を信徒が忠実にメモし、その記録を書籍化したものです。キリストの福音をまっすぐに伝えようとする著者の情熱が伝わってくる名説教集です。
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以下に、本書の二つの分冊から、律法・割礼・洗礼と神の福音との関係に触れた箇所を一部ご紹介します。
<第一分冊> ローマ書3章1~8節
- 神がまったく自由に、御自身のお考えからユダヤ人に律法をお与えになったのであります。ところがそのことが、何か自分の特権のように思って、それに対する責任はあまり考えなくなったということです。……律法を受けたことが特権であるのなら、これを謙遜に受けて、その恵みを知るべきであったのに、そうはしないで、それをただ自分の誇りの材料にしたことに問題があるのであります。律法や割礼が与えられたのに何の役にも立たないのか、とまるでそれが神の責任であるように言うわけであります。(中略)このようなことは、今日の信仰者の場合も起こりうることであります。キリスト教の信者でも、信仰が弱くなるといろいろな点で不平を言うようになって、「洗礼を受けても、自分は少しも変わりはしない」というような愚かなことを、得意そうに話したりするものであります。……自分の方に用意しておくべき信仰のことは忘れてしまって、洗礼を受けたのだから神は何とかしてくれそうなものではないか、というような、まるでふてくされて居直ったような言い方であります。……これらすべてのことに共通なことは、神の約束ということであります。律法であれ割礼であれ洗礼であれ、それらを生かすものは神の約束であります。神が救いの約束をしてくださったからこそ、これらのことは意味があるわけであります。その約束の内容は、約束する者が定めるのであります。それを受ける者が、これを信仰を持って受け、これを恵みとして受けるのでなかったなら、全く空しくなることは、イスラエルの長い歴史が証明しているとおりであります。そして、今日の信仰者の生活の中でも、絶えず経験していることであります。(242~44頁)
<第二分冊> ローマ書4章9~12節
- 洗礼は何のためにあるのでしょうか。割礼を受けると同じような意味で、洗礼さえ受ければ救いは受けられる、と考えるのは間違いでしょう。洗礼は、ここの言葉で言えば「信仰によって受けた義の証印」<11節>でありましょう。キリストの恵みを受けたことが確認されるのであります。しかし、もしそれが内容を失ったらどうでしょうか。信仰が忘れられて、洗礼を受けているから自分はアブラハムの子である、と考えたらどうでしょうか。そうなれば、洗礼も割礼と同じように我々に益をもたらすことはなく、かえって害を与えることになりましょう。我々を支える信仰が日ごとに新しいものとなる時に、洗礼は、神の確かな契約のしるしとなるのであります。(48頁)
本書は現在、少し値が張るものの、オンデマンド版として入手できます。各説教の冒頭には、とりあげる聖書箇所の言葉がすべて記されていて、電車内で立って読書することの多い私には、とてもありがたい作りです。
JELA理事
森川 博己
森川 博己
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