2018年9月3日月曜日

【信仰書あれこれ】牧会カウンセリングで大切なこと

三永恭平著『こころを聴く――牧会カウンセリング読本』(1986年、日本基督教団出版局)をとりあげます。

本書は、キリスト教月刊誌『信徒の友』に2年半連載された「信徒のための牧会カウンセリング講座」に加筆訂正したものです。内容的にはカウンセリングにとどまらず、精神分析や文学・哲学など様々な領域から豊富な例を引用し、わかりやすくかつ充実した筆致で論が進められます。

以下、その一部をご紹介します。

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人間には身体的必要や心理・社会的必要を超えて霊的必要があります。

  • 最も基本的、あるいは最高の二―ド……人間が創造され、生かされ、存在を許されている根源としての神との交わりを求め、その神から許され、義とされ、受け容れられ、愛されることよって満たされる魂のニード。(11頁)
  • 人々がこれを直ちに意識するかどうかに関わりなく、これを認め、この霊的次元をしっかりと考慮しカウンセリングをしなければ、人間の問題の本当の解決も、苦悩からの解放も、救いも与えられないでしょう。この点をはっきりと認め、それを根本にすえて、あらゆる人生の諸問題や苦悩に対処し、援助を与えようとするのが、牧会カウンセリングです。(11頁)

牧会カウンセリングは牧師だけの仕事ではありません。

  • 「牧会」という語は、また「魂の配慮」という意味もあり、「牧会カウンセリング」とは、魂への配慮という深い次元をも込めたカウンセリング、というふうに理解すべきです。したがって、それは牧師だけに限定されるべきものではなく、一般の信徒も同じように、その隣人に対して負うべき務めであり、また実際に十分に行うことのできるものでありましょう。(12頁)

「アマチュア」である信徒は、愛し、好きだから一所懸命にするというアマチュア精神を発揮できる点で、より生き生きと牧会カウンセリングに携われる可能性があります。逆に牧師には、「プロ」であるゆえの落とし穴があります。著者は、ボンヘッファーを引用してこの点を指摘します。

  • 「キリスト者、特に説教者は他の人にいつも何かを提供しなければならないと考えているが、『語ることよりも、聞くことの方が、より大きな奉仕でありうる』ことを忘れてしまっている。世の中の多くの人々は聞いてくれる耳を求めているのに、その耳をキリスト者の間で見つけることができない。なぜなら、キリスト者は聞いてあげなければならないところでも、すぐに語ってしまうからである」。(本書54頁。ボンヘッファー著『告白教会と世界教会』<森野善右衛門訳> 355頁からの引用)

カウンセリングと人生相談はアプローチが異なります。

  • いわゆる人生相談においては、人生の問題や悩み事に焦点が置かれてきました。「何が問題なのか」「何を悩んでいるのか」を明らかにし、「それをどう解決していったらよいのか」ということが主として考えられてきました。そのために、それについていろいろと質問したり、その解決方法を学識や経験を通して見つけ出して、相手にそれを教え、アドバイスを与えるという方法が採られてきたのです。(33頁)
  • カウンセリングにおいては、これと非常に違ったアプローチをいたします。まず第一に、それは問題や悩みにではなく、その問題や悩みを持っているその人自身に焦点が置かれます。すなわち、その人はどんな気持ちでいるのだろうか、どんなふうに悩み苦しんでいるのだろうか、どうしたいと思っているのだろうか、というようなその人の心理状態を重視します。そして、それを理解し、受けとめること、それを共感することをもってその第一歩とするのです。……その方が問題そのものの解決よりもはるかに本質的な助けになります。(33~4頁)

本書では、後者の人格中心的アプローチを支えるものとしての「傾聴」が詳しく説かれます。また、ドストエフスキーの『罪と罰』、チェスタートンの『ブラウン神父の秘密』等を材料に、牧会カウンセリングの観点から有益と思われる対話例が豊富に引用されます。

探してでも読むべき一冊です。


JELA事務局長
森川 博己

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