2018年10月23日火曜日

【信仰書あれこれ】簡潔ながら深いキリスト教入門書


ペトロ・ネメシェギキリスト教とは何か』(1977年、女子パウロ会)をとりあげます。


「生きる意味を求める人に! イエススの生涯と死と復活の教えるものは、『神は愛であり、愛を信じる者は永遠に滅びない』という一語に尽きる。簡潔ながら、深くキリスト教の真髄をとらえた書」(本書のカバーそで)です。本書ではイエスを「イエスス」と表記します。

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キリスト教は常に追求すべきもの
  • キリスト教徒たちは、キリスト教が何であるということを一応知ってはいます。しかしなお、キリスト教とはいったい何であるか、キリスト教の本質とは何であるか、自分にとってキリスト者であるということの意味は何かとは、つねに新たに問い続けなければならない問題なのです。……キリスト教は子どもでさえ理解することができるほど単純な本質のものでありながら、最もすばらしい学者が生涯をかけて追及しても、なお知り尽くすことができないほど無限の深みを持ったものだからです。(5~6頁)

普遍的なキリスト教理解
  • 本書はキリスト教に関する単に主観的な解釈を書いたものではなく、キリストに由来し、全世界に広がっている普遍的な教会……のキリスト教理解を述べようとしています。なぜなら、キリスト者たちの信仰は、およそ個人的な企てではなく、はじめにイエススを信じた弟子たち、彼らの跡を継ぐ信徒たち、世界中の普遍的な教会をなしている「神の民」の信仰に自分の心を合わせるということだからです。(7頁)

キリスト教に関する正しいアプローチ
  • キリスト教の真髄は、キリストと呼ばれているイエススその人のうちにあります。ですから、もしだれかが、キリスト教とは何であるかということを知りたければ、イエススがだれであるかということを探り、なぜ人々はこのイエススをキリストと呼んでいるのかということを調べ、このイエスス・キリストが何をなしたのか、その身の上に何が起こったのかということを調べてみる必要があります。(8頁)

神の恵みと人間の決断
  • 結局、信じることは神の恵みによることです。けれども、それは同時に人間自身の決断でもあります。イエススの言葉を聞いても、奇跡を見ても、聖霊の光を受けても、「信じます」と決断しなければ、信仰は生じません。ですから、信仰者とは、両手を開いて抱きしめようとしておられる神の腕の中にとびこんで、抱きついていく人と言えます。(73頁)

秘跡は心からそれを信じなければ無意味
  • 真心からの信仰なしに、形式的、あるいは偽善的に秘跡を受けても、それは人間を救うものでは決してありません。新約聖書全体が信仰こそ救いの源であるということを強調しています。人間は信じるときにのみ、自分だけに頼る高慢を捨て、人をゆるしている神の愛に、自分のすべてをゆだねるのです。そのときにこそ、人間の心が自分を神の子とする神の恵みを受け入れるように開かれるのです。(110~111頁)

神の恵みの働き方
  • 自分が洗礼を受けることを神が望んでおられると知らなかった人々にとっても、キリストと聖霊を通して働く神の恵みの神秘的な業のおかげで、改心と救いは可能です。すなわち、だれの心にも神がよしとされたときに働く聖霊のささやきに従って、万物の根底に限りない慈しみがあることを信じ、愛のために良心的に生きようと決心し、その決心を自分の生活の中に実現しているすべての人は、救いへの道を歩んでいると言うべきです。しかし、神はやはり、人々がイエスス・キリストにおける神の限りない愛の啓示を信じ……キリストの愛と喜びの証人として、他の人々を失望から解放し、希望と喜びと愛へ導くように努めるということを望んでいるのです。(113~114頁)

互いに赦し合うことの絶対的な大切さ
  • 次のことを決して忘れてはなりません。つまり、神からゆるしを受けることの条件は、互いにゆるし合うことだということです。イエススは繰り返し、「もし人の罪をゆるすなら、あなたたちの天の父も、あなたたちをゆるしてくださる。しかし、人をゆるさないなら、あなたたちの父も、あなたたちの罪をおゆるしにならない」(マタイ6:14、15)と強調しました。……毎日、「われらの罪をゆるしたまえ」と、神に祈っている人であってはじめて、心から自分を傷つけた人の罪をゆるすことができるのです。(124頁)

著者はカトリック司祭で上智大学神学部教授を長らく務めました。著作には、聖母文庫「キリスト教信仰案内講座」シリーズや、編集・解説を担当する創文社「キリスト教古典叢書」シリーズがあります。

JELA事務局長
森川 博己

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【信仰書あれこれ】誰もが後世に残せる最大のもの



本作品は、明治27(1894)年に箱根で行われたキリスト教徒夏期学校において、内村鑑三が青年信徒向けに話した講話です。『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』と並んで、内村の最も有名な作品の一つでしょう。

本作品の「改版に付する序」で著者は次のように振り返ります。
「本講演は明治27年、すなわち日清戦争のあった年、すなわち今より31年前、私が33歳の壮年であった時に、海老名弾正君司会のもとに、箱根山上、芦ノ湖のほとりにおいてなしたものであります。(中略)この小著そのものが私の『後世への最大遺物』の一つとなったことを感謝します。……過去30年間生き残ったこの書は今よりなお30年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。(本書8~9頁)

講演内容のいくつかを以下に引用します。ちなみに引用文の後のページは、冒頭に記した教育出版の本のそれです。文章は内村鑑三全集からとられていて、妙なところにカタカナが登場したりしますが、そのまま引用します。

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清い欲
  • 私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかな天国に往き、私の予備校を卒業して天国なる大学校に入ってしまったならば、それでたくさんかと己の心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起こってくる。すなわち私に50年の命を与えてくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、この我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。……何も後世の人が私を褒めたってくれいというのではない。私の名誉を残したいというのではない。ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである。すなわち英語でいうMementoを残したいのである。(16~17頁)
  • 有名なる天文学者のハーシェルが20歳ばかりの時に彼の友人に語って「わが愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々の生まれた時よりも世の中を少しなりともよくして往こうではないか」と言うた。……我々が死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つ事業を成し遂げて、できるならば我々の生まれた時よりもこの日本を少しなりとも善くして逝きたいではありませんか。(18~19頁)

神の国のために金を儲け使う
  • 金を儲けることは己のために儲けるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神が我々の中に起こらんことを私は願う。そういう実業家が今日わが国に起こらんことは、神学生の起こらんことよりも私の望むところでござります。(中略)金は後世への最大遺物の一つでござりますけれども、遺しようが悪いとずいぶん害をなす。それゆえに金を溜める力を持った人ばかりではなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。(27~30頁)

誰もが遺せる最大の遺物
  • 事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、モノを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。……私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも残すことができる最大の遺物があると思う。(中略)人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚な生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。(62~63頁)
  • 高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、……すなわちこの世の中はこれは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。(63~64頁)

残り20ページが本講演のハイライトなので、ご自分でお読みになることをお勧めします。本作品は岩波文庫『後世への最大遺物・デンマルク国の話』として手軽に入手できます。

JELA事務局長
森川 博己

2018年10月22日月曜日

【信仰書あれこれ】生けるキリストとの出会いの大切さ


金田福一著『召され行く友に *家庭霊想集6』(1992年、一粒社)をとりあげます。

本書は、著者が末期がんの病床で書きためた短い霊想を集めたものと、死の2年前に行った講演を収録したもので、著者の家庭霊想シリーズの最後の作品です。

以下では、「ルターに学ぶキリストの福音」と題された講演(1990年11月18日 キリスト教浦和集会にて)の一部をご紹介します。

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著者は複雑な家庭環境で育ち貧乏生活を体験しました。福音を伝えたい思いに強くとらわれはするものの、小学校卒の学歴ゆえ神学校に入れませんでした。体も弱く仕事を転々とし、ようやく伝道者として用いられるのは46歳になってからです。2012年2月にガンで天に召されますが、死を間近にした苦しみだけの病床でも、口をついて出るのは「主よ! 感謝します! アーメン!」だったと言います。

ルターと聖書だけが慰めの少年時代
  • 自分の幸いだけしか求めない人間は、自分に打ち克つことはできない、自分の弱さを引きずりながらでも、他に仕えようとして生きるならば、自分の罪も赦され、自分の罪も克服されてゆくのだ、そういうことを私は身をもって教えられました。そういう悩み多い少年の日に、ルターだけが慰めでした。文学も好きでした。音楽も好きでした。けれども私の心の底に一番深く慰めを与えてくれたものは、聖書とルターでした。……ルターは信仰義認ということだけがとりあげられていますけれども、その大前提となっていることは、キリストが復活した、キリストが生きておられる、生けるキリスト、ということです。(144~145頁)

私のところに来てくださったイエス
  • なぜ私を守ってくださらないのですかと、神様を恨んだことがどれだけあるかわかりません。しかしイエス様に近寄っては物騒、つかまっては大変だと思いました。そういう私のところに、イエス様は来てくださいました。来てくださったということは、罪があるまま、何の値打ちのないまま、何度となく裏切る、ユダは立ち返らなかったが、私は泣いて立ち返りました。そういう人間をひと言もお叱りにならないで、イエス様は受け容れてくださいました。(146頁)
  • イエス様に出会って、イエス様が来てくださって、愛の中に、贖いと罪の赦しの中に入れられて、罪は終わりましたか。いいえ、人間の罪は死ぬまで残ると私は思っています。特に愛の欠落は罪の根源です。しなければならないことをなし得ない罪、またいつの間にか傲慢になります。自己義認、自己満足、そういう罪は死ぬまで残ると思います。イエス様の愛と支配の中で罪認識は深化するのではないか、深められるのではないか、それが罪の潔めではないか、それがルターの考えであったと思います。(147頁)
  • 生けるキリストとの出会い、それはもうルターの信仰と思想の根底にある重大な問題です。キリストが生きておられる、そのキリストと会わなくてどうしますか。今日の日本のキリスト者にとって根本的な問題は、やはり生けるキリストとの出会い、そのことが教会において、集会において起こっているのか、もしその出会いが無いならば、その信仰は何なのでしょう。……その信仰は自力に過ぎないのです。生けるキリストに会わなければ、自己を義としてやまない、自我と主観の円周から脱出することができないからです。生けるキリストに出会わなければ、自己自身から解放されない、自由になれない、私はそのことを私の体験からあえて申し上げます。(157~158頁)

イエスに出会った後の状態
  • イエス様に出会いますと、イエス様は自我の円周の中に暮らしていた私たちを、その殻を破って引っ張り出してくださいます。それが新しき我、霊的な我、義とされた我であると思います。そしてそのように迎えられ抱かれた新しく生まれ出たキリスト者は、まだ残れる自分の罪、肉的な、まだ悪習慣の残っている自分、あるいは周囲の悪影響で逆戻りしようとしてやまない、そういう罪への可能性の残っている自分という者を、客観的に見ることが始まります。それが罪と義の同義体験です。それを言い換えますならば、自己の客観化であると言うことができます。さらに言い換えますと、神様が自分をご覧になる目で厳しく、まだ残っている自分の肉性、肉的な自分というものを批判し弾劾することができ、教えることができるのです。(149頁)
  • 神様の目をもって、まだ残っている自分を鋭く見ることができる、鋭く悔い改めさせることができるその厳しさ、己に対する厳しさ、それが謙遜なのです。(152頁)

「霊想集」の中に収められた数行ごとの霊想は、いずれも心にビンビン響く内容です。著者が書かれたものはいずれも、信仰的に大切な事柄を歯に衣着せぬ形で提示してくれる点で貴重です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年10月17日水曜日

【信仰書あれこれ】すべてを新たにしてくれる生き方


ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに――スピリチュアルな生き方への招待』(日下部 拓訳、2009年、あめんどう)をとりあげます。

訳者あとがきが本書の意義を簡潔に示しています。
「どんな分野であれ、真のプロフェッショナルは、難しい専門用語を多用して聞き手を煙に巻いたりせず、シンプルな表現と分かりやすい例えで、その分野の内容を誰にもわかるように説明できるものです。その意味でナウエンは、霊性=スピリチュアリティに関する真のプロだと申せましょう。(米国で1981年に)初版が発行されてから、(この訳書が出る2009年で)すでに28年の歳月が経っていますが、ナウエンのメッセージは、発行された時の新鮮さを今なお持ち続けています。」(100頁)

2018年の今も古びない本書の内容は、以下のようなものです。

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執筆の動機
  • 霊的な生き方を解説した素晴らしい本は数多くありますが、短時間で読むことができ、かつ霊的な生き方とは何かを説明するだけでなく、「実際に自分がそんな生き方を始めてみたい」と思わせる冊子があっても悪くないと感じていました。そんな気持ちから、この本を書くことにしたのです。ここにまとめた思索の数々は、私自身だけではなく、すでに多くの人たちによって述べられていますが、この本で一つにまとめることで、「生活は目いっぱいにもかかわらず、心は満ち足りていない」と感じている方たちのお役に立てればと願い、また祈ります。(9頁)

対象読者
  • 本書はまず、スピリチュアルな生き方をもっと深めたいという強い衝動を認めながらも、実際にどうすればよいか、どの方向に進むべきかを見失って困っている人たちのために書きました。それはすでにキリストを知ってはいても、その知識を頭から心へと、しっかり定着させたいと強く望んでいる人たちのことです。(12頁)

内容と構成
  • 本書での考察を三部に分けました。第一部では、思い煩いというものが、いかに日々の生活に破壊的作用を及ぼすかを述べます。第二部では、私たちを金縛りにする思い煩いに対し、新しい生き方、すなわち、神の霊によってすべてが新しくされる生き方をイエスが提示し、このことにどう応じられたかを示したいと思います。最後の第三部では、私たちを縛りつける思い煩いの縄目を少しずつゆるめさせ、神の霊によって新たに作り変えていただくための具体的な修練を、いくつか述べることにします。(14~15頁)

思い煩いの本質とイエスの招き
  • 今日において思い煩うとは、忙しく過ごし、多くの心配を抱えながらもつまらなさを覚え、恨みを抱き、抑うつ感に圧しつぶされ、しかもひどく孤独であるということです。
    (中略)イエスは、私たちが本来いるべき場所へと連れ戻そうとしてくださいます。けれども、そのスピリチュアルな生活へと招く声は、自分の居場所のなさ、思い煩う姿を正直に告白し、そのことで日常生活がバラバラであることを認めることができて初めて、聴き取ることができます。その時こそ、真にいるべき場所への私たちの願望が深まります。(34~36頁)

神の国と神の義を求める
  • 思い煩うばかりの私たちへのイエスの応答は、……「生活の重心を変えなさい、注意を向ける中心を移動しなさい、そして優先順位を変えなさい」ということです。……この、心の持ち方を変えることこそが、すべてのことを変えるのです。たとえ、すべて見た目には変わらないようであってもです。これこそが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」<マタイ6・33>という言葉の意味することです。……私たちの心を神の国に置くとは、私たちの内にあり、間におられる神の霊に導かれる生活を、私たちの日々の考え、口に出す言葉、すべての行いの中心に据えることです。(41~43頁)

イエス的「真理」
  • イエスは聖霊を送ってくださり、そのことを通して、神と共にあるまったき真理へと導いてくださいます。ここで真理というのは、思想、概念、あるいは教理のことではなく、真実な関係という意味です。真理へと導き入れられるとは、イエスが御父との間に持っておられる関係へと、私たちも導き入れられること、つまり聖なる婚姻の関係に入ることです。(54頁)

本欄でこれまでにとりあげたナウエンの作品は『あわれみ――コンパッション――ゆり動かす愛』と『イエスの御名で――聖書的リーダーシップを求めて』です。他にも多数の作品が日本語で読めます。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年10月16日火曜日

【信仰書あれこれ】聖書の味わい方


高橋重幸著『聖書を味わう』(2010年、オリエンス宗教研究所)をとりあげます。

この本は三部に分かれていますが、第一部の聖書をグループで学ぶための手引き部分が有益なのでご紹介します。

なお、著者はカトリックの厳律シトー会(トラピスト)司祭です。1950年代半ばから10年近くローマに留学し、グレゴリアン大学と教皇庁立聖書研究所で神学と聖書学の修士号を取得。新共同訳聖書の翻訳・編集にも携わっておられます。

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祈りの大切さ・神のことばを愛する態度
  • 学問的な研究を積み重ねただけで、神のことばの深みを百パーセント解明することができると考えましたら、それこそ大間違いです。なぜなら、神の語りかけは、人間の知識を遥かに超える「秘儀」であって、信仰だけがそれを正しくとらえることができるからです。……何よりも先に強調しておきたいことは、聖書を味わうためには、まず「神のことばを愛する」という心構えが絶対に必要である、ということです。(11~12頁)

聖書の真の読み方
  • 私たちの聖書朗読が、イエスへと導き、イエスと一致させ、いわばイエスの中に私たちを移しかえ、そこに根づかせる時にのみ、真の「読み方」になるのです。イエスのように、兄弟に仕える者の姿をとらせ、従順を学ばせ、万事において父の御旨を行わせ、父の喜びを私たちに通じるものとする読み方こそ、本物なのです。(26頁)

信徒間の霊的な語らいの不足
  • 神のことばは、交わりによって他の人に伝えられます<一ヨハネ1:3~4>。この交わりは、単なるおしゃべりや表面的な会話、まして自己主張といった類いのものではなく、神から受けた賜物を分かち合い、イエスをそこに臨在させることです。私たちの間では、このような霊的な語らいがあまりに少ないのではないでしょうか。(37頁)

聖書の共同研究のための準備・そこから得られるもの
  • 聖書思想事典』を使って行う共同研究のやり方についてお話しいたしましょう。共同研究のテーマは、最初にごく身近なものから出発すること、たとえば、「食物」<聖書思想事典554~556頁>のような生活と密接したテーマを選ぶことが肝要です。このページを開きますと、まずテーマの一般的な導入があり、続いて、「Ⅰ物質的な食べ物、Ⅱ霊的な食べ物、Ⅲ神の子らの食べ物」という三つの小項目に分かれています。それで参加者は、自分の分担として一小項目を選びます。(40~41頁)
  • 各々は、自分の選んだ担当部分を入念に研究します。……大型のノートを求め、それを開いて、左側のページに、項目に出てくる聖書の参照箇所の本文を全部書き取ります。……そしてそうしながら、心に浮かんだ思想や頭にひらめいたヒントや思いつき、印象、感想などといったものをノートの右ページに書き留めておきます。……こうしてゆっくりと項目を研究していきますと、次第に「食べ物」についての聖書の思想が分かってきます。つまり、食べ物は神の祝福であること、人間はそれを感謝をもって使用する代わりに、飽食とか泥酔とかまたは施しの拒否や貧しい人たちを搾取すること等によって悪用できること、しかし他方では、「食べ物」を分かち合い、人々との交わりを深め、一致を実現するものとして活用できること、そして天の父は私たちの願いに応えてすべての必要なものを自ら整えてくださるので子どものような信頼を御父に対して持つべきこと、などという、希望を養い、警戒を促す聖書思想を理解し、深く分け入ることができるのです。(41~43頁)

聖書の共同研究と分かち合いの意義
  • 私たちが聖書の中に読みとらなければならないことは、神の恵みの深さであり、罪のゆるしを得るためには回心が必要であり、またイエス・キリストが私たちの近くにおられて、神の子としての喜びと平和、教会に対する愛、他の人に奉仕する熱意を注いでくださること、一言で言えば、神と人に自分の全てを注ぎだして、恵みに満ちたキリスト教的生活を送るということです。十字架につけられ、そして三日目に復活されたイエスに結ばれ、このイエスを通して聖書を読むとき、私たちの罪ですら光り輝くものとなり、一切は讃美の源となります。聖書の共同研究と分かち合いは、単なるおけいこ事や学習ではなく、復活された主イエスを中心に、聖書のこの喜ばしいメッセージを生きることだ、と言えるでしょう。(47~48頁)

共同研究の例で引用されるレオン・デュフール師編集『聖書思想事典』(1973年、三省堂)は私も持っていて、いつか共同研究に役立てたいと思っています。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年10月15日月曜日

【信仰書あれこれ】聖なる仕事としての祈り

オズワルド・チェンバーズ著『「祈りの時」を変える黙想』(棚瀬多喜男訳、1997年、いのちのことば社)をとりあげます。

祈りの本は無数にあり私も何冊か持っていますが、私が読んだ中で最も感銘深いのはこの本です。

すべてのページから著者の類いまれな霊性の深さが感じられます。一部を以下にご紹介します。

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祈りが必要だという意識をどれほど強く私たちは持っているのか。
  • 祈らない人が非常にたくさんいます。それは自分が何かを必要としている人間だということを知らないからです。聖霊が私たちの内にいてくださるしるしはこうです。自分が充分に満たされていると思うことができない、本当は空っぽに過ぎない、と知ることです。……私たちを試みる人々や、困難な状況や、理解しがたい問題に私たちはぶつかります。そしてこれらすべてが、必要の意識を呼びさまします。それが、聖霊がそこにおられることのしるしです。(62頁)

私の祈りの動機は何と何か。
  • この前あなたは何について祈ったのか、思い出してみてください。あなた自身の願いごとに思いを集中していたのですか。それとも神ご自身に集中していましたか。御霊の賜物を何か得たいと決めていたのですか。それとも神との深い交わりを求めたのですか。(64頁)

私の思っている答えを神が与えてくださらないとき、私はどのように応答するのか。
  • 祈りの要点は自分の求める答えをいただくということではありません。祈りは神との完全な、全き一致です。もし答えをいただきたいということで祈るなら、私たちは神に対して憤慨したりします。答えは確かに必ず来ます。ただ、いつも私たちの期待しているような形で来るとは限りません。……神の子らは神が祈りに答えてくださることを知りたいと思って祈ったりしません。神はいつも祈りに答えてくださることを確信し、心に安んじているからです。(88~89頁)

私の祈りの結果として、きょう私は神について何を学んだか。
  • 聖霊は私たちを導いて、神の影響を受けやすい場所に連れて行ってくださるだけでなく、個人的に親しいつながりを持てる関係に、私を入れてくださいます。その結果、祈りのたゆまない訓練によって、私が自由意志を用いて決断したことが、全能の神の秩序の中で前もって定めておられたこととなります。……祈りに答えて、神はご自身を啓示されるのです。……神は私たちの祈りに答えるのではありません。私たちの人生におけるイエス・キリストの祈りに答えてくださるのです。祈りによって私たちは神の御心がどういうものであるかを知るようになります。(89~90頁)

美しい祈り
  • おお、主よ。穏やかな、優しさに満ちた、美しい性格が与えられますようにと祈ります。霊的な活力の賜物が与えられること、すべての人に対して、またあなたの御前で、あらゆることに耐える人生が与えられることを求めます。主よ、あなたの優しさと美しさと忍耐をお示しください。私が生きているこの時代のやり方に染まってしまうことのないよう、私を助けてください。おお、主よ。忙しさに取り紛れがちな私を清めてください。ただひとえに、あなたのものとしてください。あなたのために私が清められ、そのようにして、あなたの喜びと御力が私の中に、また私を通して、あなたのご栄光のために、新しく与えられることを祈ります。おお、主よ。あなたの御霊が私に住まいたもうことによって、礼拝する姿勢と美しさと聖潔を私の中につくりだしてください。主よ、私の肉体と霊とに触れてください。そうして、それらが主と一つになることができますように。(182~183頁)

オズワルド・チェンバーズは”My Utmost for His Highest”(訳書名『いと高き方のもとに』いのちのことば社)の著者として有名ですが、他にもいろいろな著作があるようです。それらが翻訳されないのが不思議です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年10月10日水曜日

【信仰書あれこれ】ちいろば先生物語

三浦綾子著『ちいろば先生物語』(1990年、朝日文庫)をとりあげます。1986年1月から1年3か月『週刊朝日』に連載され、単行本として出版されたものを文庫にしたものです。

「ちいろば」とは、イエス・キリストがお乗りになったロバにからめ、この伝記小説の主人公である故・榎本保郎牧師が「ちいさなロバ」としての自分につけた呼び名です。

週刊誌連載のためか、各章に山場めいた話があり、以前に出て来た事柄が間隔を置いて再登場した時は、以前の分を読んでいない人のために、それを短く説明する工夫が施されており、読みやすいです。

以下では、本書の中で興味深い部分をいくつか引用します。

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中学5年を卒業した保郎は、教師になる夢を目指し、1943年4月に旅順の師範学校に入ります。そこで音楽教育のためのピアノのレッスンを受けるのですが、指の置き方・椅子の座り方が悪いと、保郎は教師に罵声と暴力を浴びせられ、ついていけなくなります。その時に唯一怒鳴られなかったピアノの上手な旧友が次のように言います。
  • 「僕の父は、しがない音楽教師だけどね、音楽で一番大事なのは、音楽が好きだということだ、といつも言うよ。文字通り音を楽しむことだってさ。下手でもいいんだって。楽しんでピアノを弾いていれば、そのうちに自然と椅子にかける姿勢も、指の角度も整うんだって。だから、僕がピアノを弾いている時に、親父は一度も怒鳴ったことないよ。ここの先生は、ありゃ音楽を知らないんだよ。恐怖から音楽好きは生まれやしないものな」(106頁)
考えさせられる部分です。信仰もある面で同じでしょう。聖書の中の話や聖句、あるいは教理を覚えることに汲々として、復活されたイエスとの生きた出会い・交わりがなければどうなるでしょう。真剣な意味で「イエスを楽しむ」ことなしに信仰生活は成り立たない気がします。

榎本牧師は1977年7月27日に52歳の若さで天に召されます。信仰者としての歩みは、8月4日の本葬で語られた、親友・林惠氏(同志社大学神学部時代の同窓生。教師)による説教によく表れていますので、その部分を引用します。
  • ……先生は入信するやたちまち伝道者として召され、神学校在学中すでに世光(せいこう)教会を設立し、洛南の開拓伝道に携わりました。先生の著書名のごとく、その生涯は、主イエスのご用に召された「ちいろば」のそれでありました。そうして、自らのプログラムを持たず、主の引き給う手綱のままに、その馳せ場を忠実に走ったのであります……しかし人間的には先生を崇拝し、祭り上げることをしてはならないと思います。信仰が個人崇拝となり、榎本教となることは、先生の最も警戒されたところであります。先生亡きあとは、先生の教えのごとく、祈りをもって直接聖言(みことば)に聞き、神ご自身に育てていただくことを求め続けたいと思います。(740~41頁)

 榎本牧師は自分と妻和子との血と汗の結晶とも言える世光教会を十数年で去ります。信者に慕われすぎて、「榎本先生がいないと教会に来ない」「大丈夫、ここは榎本先生の教会だから」というような話を彼らがしているのを陰で聞いたからです。それを耳にした榎本牧師の思いは次のようなものでした。
  • ここは榎本牧師の教会やない! イエス・キリストの教会なのだ。自分がいようといまいと、この教会はキリストを信ずる者が礼拝に集まる場所なのだ。自分はもしかして、キリストの前に立ちはだかって、信徒をキリストに真に仕える者へと育てていないのではないのか。(555頁)
そして次のように祈り、数年後に教会を去っていきます。
  • 神よ、世光教会に仕える者として、12年の長い年月、私をこの教会においてくださったことを、心から感謝いたします。神よ、私はこの教会を熱く愛しております。しかしながら、私がこの教会にあることが、信者たちの成長の妨げとなるならば、私を去らせてください。神が行けと言われますならば、どこへでも行けるように私を強めてください。どうか、この教会を私物化する過ちを犯さぬよう、お導きください。(558頁)

以上の他にも、戦争に応召されて出会ったカトリック神学生との邂逅、世光教会の青年の集まり「ヨルダン会」のメンバーだった高校生の端田宣彦(後のフォーク・クルセダーズの一員、はしだのりひこ)のことなど、読みどころ満載です。 

JELA事務局長
森川 博己

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