2020年1月14日火曜日

【続・信仰書あれこれ】祈るときに起こること


『祈りのちから』(クリス・ファブリー著、2017年、いのちのことば社フォレストブックス。原題は”WAR ROOM”) をとりあげます。

本書は次のような内容です。「有能な会社員の夫と一人娘。何不自由なく見えるエリザベスは夫婦の問題を抱えていた。一方、祈りの友として若い人の力になりたいと願う老婦人クララ。二人は出会い、クララは『本当の敵』と立ち向かうには『戦いの部屋』が必要だと説く。家族の愛と絆を取り戻す感動のドラマ」(帯記載の文章から)

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本小説には以下のような、祈りの聖書的なとらえ方を示す言葉が次々に登場します。
  • クララが今までの人生経験の中で悟った真実があった。それはたましいの深い部分で私たちが大きく変わるために、神はあえて私たちを惨めな状態に置かれることがあるということだ。自分の力ではにっちもさっちもいかないような絶望的な状況の中に私たちを置くことによって、私たちがどれほど弱く、神がどれほど力のあるお方かを悟るために。(116~117頁)
  • 祈りの目的は、神さまを説得して私たちの望みをかなえてもらうことではなくて、私たち自身の心が変えられること、神のみこころを私たちの望みとし、神のご栄光が現されることなのよ。(147頁)
  • エリザベスにまず言いたかったのは、自分の計画を携えて神の御前に出ても、結局挫折してしまうということ。私たちはまず、すっかり自分を神に明け渡し、心から従う思いをもって祈らなければならないのだ。両手を空っぽにして毎朝神に向かい、自分の欲しいものを願い求めるのではなく、神ご自身を、そして神が私のために用意なさっているものを与えてくださいと祈ることが大切なのだ。(208頁)
  • 長いあいだイエスさまと一緒に人生を過ごすうちにわかったことがあるの。神さまの目的は、私たちをよい気分にさせたり、幸せにすることではないってこと。そうではなくて、神の御子であるイエスさまのように、私たちが聖くなることなの。イエスさまに従って歩んでいるならば、どんな人でも必ず苦しみや痛みの中を通るのよ。神さまが私たちに背負うように命じているのは、発泡スチロールのようなふわふわした十字架ではなくて、ささくれだった粗削りの重い十字架なの。……でもね。一つ確かなことがあるわ。もし神さまに信頼し続けるならば、神さまは必ず私たちを緑の牧場、いこいの水のほとりへと導いてくださるってこと。……たとえどんなひどい嵐の中にいたとしても、たとえ失望、恐れ、怒りのただ中にあっても、平安と安らぎを手にすることができるの。(251~252頁)
  • よくクリスチャンのあいだで、リバイバルについて話題にされるわよね。この社会や文化が神さまの力によって変えていただく必要があるとか、ハリウッドやいたるところにどれほど罪がはびこっているかとか。……長年生きているうちにわかったことは、そのリバイバルがほかの誰でもない、まず自分自身の中で起こらなくちゃいけないんだってこと。(309頁)
  • クララが、人生に起きる全ての出来事は、私たちがほんとうに神を信頼しているかどうかを試すための試験であると言っていたことがあった。(391頁)
  • 自分の敵のためにまず祈ることは大事なことですね。その人の人生に神が介入してくださるように願い求める……私たちはまずそこから始める。するとその祈りの答えとなるような機会がふと訪れるわけです。(397頁)
  • 神さまが関心を寄せるのは、試合に勝つのは誰かということではなく、主にあって私たちが成長することなの。神さまは、試合に勝とうが負けようが、私たちがご自身に近づくことを願っていらっしゃるんだと思う。(400~401頁)
テニスの決勝戦を争う二人が共にクリスチャンであるとき、どちらも「私に勝たせてください」と祈ったのでは、神さまでなくても困りますよね。「勝たせてください」という自己中心の祈りではなく、「全力を発揮できるように助けてください」と祈るべきなのでしょう。

本書は最初に映画が存在し、それを小説にしたものです。映画はDVDで見ることができます。

JELA理事
森川 博己

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2019年12月20日金曜日

【続・信仰書あれこれ】ナウエンと読む福音書

ヘンリ・ナウエン著『ナウエンと読む福音書――レンブラントの素描と共に』(マイケル・オラーリン編、小渕春夫訳、2008年、あめんどう) をとりあげます。

表紙折り返し部分に本書の内容が次のように記されています。
「キリスト教スピリチュアリティの指導者、著作家として知られ、多くの愛読者を持つヘンリ・ナウエンが、イエスの生涯、その誕生、宣教活動、受難、復活、聖霊降臨までの福音書の世界を案内。多くの著作から選りすぐった黙想で織りなすイエスのストーリーは、その独自の霊的な洞察を通して、思いもしなかった新鮮な福音の世界に導いてくれる。ナウエンの生涯に重要な霊感を与えたレンブラントの素描も併せて収録。」

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ナウエンはカトリック司祭でしたが、以下の部分を読めば、彼が教派を超えて多くの読者を獲得している理由がわかります。信仰共同体(=教会)について示唆に富む、真摯な考察を展開しています。関連聖句は、マタイによる福音書16章13~20節。新共同訳聖書では「ペトロ、信仰を言い表す」と題された部分です。
  • あなたがイエスに、「あなたは救い主、生ける神の子です」と言うことができるなら、イエスもまたあなたに、「あなたは岩、わたしはこの上にわたしの教会を建てよう」と言うことができます。……私たちを捕らわれの身から解放するために、救い主――油注がれた者――として神が私たちの間に来られたことに同意するとき、神は私たちの内に堅固な核を認め、私たちを信仰共同体の土台としてくださいます。私たちが「岩」であるかどうかの質が明らかになるのは、救いといやしが必要であることを告白するときです。私たちの神への依存がよくわかるほど謙遜になったときに、共同体を築く者となるのです。(91頁)
  • イエスとシモン・ペトロとの間のこの対話が、ローマ教皇の役割を説明するときだけに使われるのは、とても悲しいことです。それは、このやり取りが私たち全員のためでもあることを見逃すかもしれないからです。私たちすべては救いの必要があることを告白せざるをえない存在です。ですから私たちは、皆が堅固な核となることを受け入れるべきです(91~92頁)
  • では、御国の鍵はどうなるでしょう。何よりもそれは、イエスを救い主と告白するすべての人のものです。そうすることでそれは、神の御名で結ばれたり、解かれたりする信仰共同体のものになります。もし、キリストの体が信徒たちで形造られるなら、そのメンバーでなされる決断は、御国にかかわる決断です。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる<マタイ16:19>とイエスが語られたとおりです。(92頁)
  • こうした思索は、今日の聖ペトロの座の祝日に思い浮かびました。それは、何人かと食卓を囲んでいるときでした。彼らは、教会があまりに権威主義的であると思えて、カトリック教会から去った人たちでした。今後、ますます重要になることは、教会とは、司教がいたり、教皇がいたりする、単に「あちら」にあるのではなく、主の食卓を囲んだ「ここ」にあるということの認識です。(92頁)

本書は2002年に、米国のカトリック出版協会による「スピリチュアリティ」「グラフィック」の2部門で第一位を受賞しています。

本シリーズでは、ナウエンの著作のうち、『あわれみ』 『イエスの御名で』 『すべて新たに』の三冊を紹介しています。ほかに、ぜひお読みになることをお勧めしたいのは、『いま、ここに生きる』と『今日のパン、明日の糧』です。

JELA理事
森川 博己

2019年12月13日金曜日

【続・信仰書あれこれ】耳をすまして


シスター・ウェンディー・ベケット著『耳をすまして――ほんとうにたいせつなこと』(2002年、新教出版社) をとりあげます。

英語原書タイトルの意味は、「芸術作品を通して祈りを学ぶ子どもの本」。登場する漢字すべてに振り仮名がふってあります。

カバー裏表紙に以下の言葉が並んでいます。
「信じること、愛すること、ゆるすこと……人生の中でとても大切なテーマを美しい12枚の絵画の中にさがしましょう/こどもと大人が共に、新しい『発見と対話』ができる一冊です/『鑑賞眼にしろ、解説の的確さにしろ、これほどの才能は稀だ』ザ・タイムズ紙 評」

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もくじの片隅に、筆者から読者に向けたメッセージが記されています。
  • ……こどもに一人で読ませて、邪魔しないことが一番と思います。……どうかこの本の内容を真剣に考えてみてください。わたしたち自身が、愛に満ちて、いつわりのない生き方をしようとしていなければ、この本に書かれていることをこどもたちと話し合うことはできません。……この本で大切なものに出会うのは、こどもだけではないでしょう。大人も、同じように大きな問題を突きつけられると思います。本当によいことや真心が大切なのは、わたしたちの生涯を通じて変わらないことだからです。この本に書いてあることはすべて、9歳のこどもの時だけではなく90歳になっても、まったく同じにあてはまるでしょう。この本を読むすべての方に、神さまの声が届けられますように。(「ご家族ならびに教師の皆様へ」)

「本当の幸せ」と題された章でとりあげられる、アレッサンドロ・アローリが1561年に描いた作品「若者の肖像」では、画面中央に大きく描かれた細身の「若者」と、右上隅の窓外に小さく描かれた、後ろ姿の逞しい人物が対比的に説明されます。

身にまとった服・装身具や室内の家具・調度品から裕福そうに見える若者は、うつろな目でこちらを見ています。一方、裸に薄い布をまとっただけの窓外の人物は、周囲の山や海に目をやり、表情は見えないもののゆったりした佇まいです。この二人の特徴を細かく描写したあと著者は、「神さまのもとでありのままの自分になれるまで、わたしたちが本当に幸せになることはありません」(23頁)と締めくくります。

解説ページの中央に、ひときわ大きく赤字で示された祈りの文章があります。そこには、こう記されています。
  • わたしたちの心が自由でいられますように。そして、たくさんの物をもっていることよりも、人にあげることのほうが幸せだと、わかりますように。よくばりになりませんように。そして、物ばかり大切にしないように助けてください。(23頁)

同じ出版社からシスター・ウェンディーの別の本、『心の美術館』と『私たちの間のイエス』 が出ています。前者は、中世の絵画・彫刻から浮世絵や現代美術まで、幅広い作品を扱っています。後者は副題「写本でたどるキリストの生涯」から内容が読み取れるでしょう。

著者は2018年の年末に88歳で亡くなりました。本書略歴欄には、「美術全般、特に絵画に関する専門知識と鑑賞・洞察力は、欧米でも高く評価されている。英国BBCテレビでは、人気美術番組の司会者としても活躍中」と記されています。

JELA理事
森川 博己

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2019年12月10日火曜日

【続・信仰書あれこれ】使徒信条によるキリスト教入門


隅谷三喜男著『私のキリスト教入門――使徒信条による』(1983年、日本YMCA同盟出版部)をとりあげます。

著者は1932年のクリスマスに受洗し、その五十周年を記念して本書を公刊しました。学生・青年向けに、自分の信仰告白として書いたということです。

一般信徒である著者は、本書の内容が神学的に問題なきようにするため、当時の東京神学大学教授・熊沢義宣氏から原稿の大半についてチェックを受けたと記しています。

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使徒信条というのは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に始まり、「~永遠の生命を信ず」で終わる、キリスト教会が長年唱えてきた信条の一つで、正統的キリスト教信仰の核心を表したものです。

以下では、「天地創造の神」と「全能の神」に関する説明の一部をご紹介します。

天地創造の神
  • 使徒信条が「天地の造り主を信ず」と告白しているときに、何よりも注意しなければならないことは、天地創造のプロセスを信じると言っているのではない、ということです。たとえば、一日と言っても、それは我々の生活における一日の意味ではなく、「主(神)にあっては千年は一日のようであり、一日は千年のようである」<ペテロⅡ3:8>と言われるように、我々の一日とは違った次元で語られているのです。(20頁)
  • 天地創造の信仰というのは、人間を含めてすべてのものを存在させ、これを支えている神への信仰であって、神がどういう手続き、どういう順序で天地万物を造り上げたかというようなことを信じることではないのです。……信仰とは本質的に神の支配への信頼関係であって、世界や人類の生成を説明しようとするものではないのです。そういう説明をしようとすると、それは人間が考えた世界観になってしまうわけです。(21頁)
  • 神の創造は<無からの創造>だということです。それは言い換えれば、この世界、人類は、その根源から神によって造られ、神の支配のもとにあるという信仰の告白です。存在するもの自体に存在の根拠はない、ということです。そこから、被造物を神としようとするすべての偶像崇拝が拒否されることにもなるのです。(26頁)


全能の神
  • 全能の父なる神というときには、本来、神とその被造物とは非連続のものですが、それにもかかわらず、神は私たち人間に対して関係を持たれるのだ、という信仰の告白なのです。この越えがたい溝を超えることができる神、それが全能の神なのです。キリスト教の信仰では、それを神の恩寵と表現しています。それゆえ、全能の神とは、たんに何でもできる神というようなことではなく、私たち人間をその悲惨と罪の中から救い出すためには、不可能なことをも可能とする神である、という告白です。(31頁)
  • 全能とは、したいことは何でもできるということではなく、神と人間との……断絶の関係を回復するためには、不可能を可能とする神の力であり、人格的世界における全能であることを学びました。したがって、イエス・キリストが<主>として我々に対して持つ権威も、生殺与奪は意のままということではなく、まず何よりも、人間が神に背いて犯している罪を裁く権威なのです。キリストは「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」<ヨハネ9:39>と言われます。しかし、より重要なことは、その罪を赦す権威です。(42~43頁)


著者は労働経済学の泰斗であり、その専門的立場から著した『近代日本の形成とキリスト教』(新教新書) のような著書もあります。

JELA理事
森川 博己
 
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【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2019年12月5日木曜日

【続・信仰書あれこれ】55歳からのキリスト教入門


小島誠志著『55歳からのキリスト教入門――イエスと歩く道』(2018年、日本キリスト教団出版局)をとりあげます。

著者あとがきに次のように記されています。「近年、日本の教会では中高年になって受洗される方が増えています。そういう方々を意識して執筆しました。もう一つ願ったことは、長く信仰生活を続けて来られた方々の参考になれば、ということです。筆者の旧著『わかりやすい教理』 の延長線上にこの小著を位置づけることができれば、というのがひそかな願いです。」

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以下では、「永遠の命について」と題された章の一部をご紹介します。
  • ある高齢の信徒の方が、あるとき牧師である私に、ふと漏らしました。「死ねるから、大丈夫!」。……今あるこの命を生きることも楽ではないのです。次々に襲ってくる試練があります。体の不調も。自分の中にあるゆがみや屈折、他者を傷つけたり傷つけられたり。しかし、「死ねるから、大丈夫!」。やがて終わらせていただけるのです。永遠の命とは、この命がいつまでも続くことではありません。(37頁)
  • イエス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」<ヨハネ17:3>。この「知る」という言葉は、知識として何かを知るという意味ではありません。人と人とが出会って、交わりをもって「知る」という意味の言葉です。永遠の命というのは、イエス・キリストによって救われ神の子とされた者が、救い主のとりなしによって神に結ばれ神に出会い交わる、そういう生の中に入れられることです。(37~38頁)
  • 永遠の命というのは、終わりのない命というよりは(それも否定はされませんが)、神と御子イエス・キリストとの交わりに中に入れられることなのです。神と向き合うこの交わりの中で人間は、初めてかけがえのない人格として見出されている自分を知るのです。……この交わりは死後に始まるというようなものではなく、信仰によって今ここで始まっているものなのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」<ヨハネ5:24>。(38~39頁)
  • 永遠の命とは、私たちの所有する何かではありません。私たちが所有する終わらない命、というものではありません。永遠の命とは、永遠なる神と関わる命のことなのです。永遠なる神と交わる命のことなのです。(39頁)


本シリーズでは、小島誠志氏が著した以下の三冊も紹介しています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川 博己

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2019年11月22日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信じている事柄をはっきりさせる

『イエスは生きておられる――私たちの信仰告白』(J.ツィンク+R.レーリヒト著、1975年、新教出版社)をとりあげます。

訳者あとがきによると、原書は「キリスト者が信じている事柄」という題で、読者一人ひとりがそれぞれの力量に応じて本文と対話し、自分の信じている事柄を、より一層明快に把握するのに役立ててほしい、というのが著者の願いだそうです。

教会学校の中学科でも学べるように、やさしい言葉づかいで訳されています。

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教会は己を捧げることによって生きる
  • おのれやその現状を守ったり、数をふやしたりすることが、教会の目標であってはなりません。教会は、拡がり、そして、変わり、真理に味方し、暴力に抵抗し、正義と平和とに貢献すべきです。……教会は、権力や制度をたよりにすることはゆるされません。教会は、規制する力をもたずに人と人とを結び合わせ、そして、しいたげられる者の側に立つのです。教会は、不正な扱いを受けて苦しむ時があることを覚悟しなければなりません。そして、他の人びとの上に不正が加えられる時には、雄々しく、苦しみをともに担うのでなければなりません。(25~26頁)

変化は神の霊によってもたらされる
  • もしもわたしたちが、神の霊の働きを抜きにして、聖書を解釈する場合には、わたしたちは、だれにも役立たない死文と化した伝承か、きのうの思想か、きょうの思いつきを代弁するにすぎません。聖書の真理は、それがわたしたちと世界を変革するときに、そのときだけ働くのです。根底から変革し更新することは、わたしたち人間にはできません。そのことは神の霊だけができることです。(28~29頁)

失敗から立ち直るための告白
  • わたしは信じませんでした。わたしは、わたしの自由を濫用し、そして、わたしの良心にそむきました。わたしは、いたずらに憂え、そして、妬み、恩を忘れ、疑いをいだき、失望し、不遜で、独善的でした。わたしは愛しませんでした。わたしは過ちを犯しました。わたしは、快適な道をたどりました。わたしは、大勢に順応し、そして、犠牲になることを避けました。わたしは、キリストに似る者となるまいとして、そして、キリストの道をたどることを恐れました。わたしは、目標を見失い、そして、望みをなくしました。わたしは、自分をえらい者のように思いました。わたしは、時間と能力を浪費し、不正を大目に見、苦しみと孤独とを見すごし、そして、人びとをなげやりにしました。神が幸いを賜ったのに、わたしは感謝をしませんでした。(85~87頁)

    著者の一人であるイェルク・トゥインクの別の作品、『祈りを求めて』を本シリーズでとりあげています。こちらもお楽しみください。

    JELA理事
    森川 博己

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    2019年11月15日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】信仰生活における習慣の大切さ


    『眠りの神学――J.ベイリー説教集』(大塚野百合訳、1970年、日本基督教団出版局・アルパ新書2) をとりあげます。

    原書(1962年)タイトルは“Christian Devotion”であり、神学的観点による「眠り」の説教集ではありません。

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    習慣の大切さを説いた説教の一部を以下にご紹介します。

    習慣は霊的歩みを確かなものにする
    • 最も偉大な聖徒たちさえも、霊的に渇くことがあると嘆いています。それは闇と疑いの時期であり、霊が死んでしまったような時期なのです。……すぐれた聖徒たちは、率先してキリスト教的なしきたりを厳守するよう、自ら鍛錬してきたのです。このように規則的にする習慣をつけて、それから一歩もはずれないように努力してきたのです。(107頁)
    • 私たちの内に霊的な火が燃えており、何にも増して神との交わりを願うときは、私たちに規則は必要ないでしょう。しかし、このような時にこそ、規則を作るべきなのです。……そうしておけば、神を求める思いが弱まり、霊的な火がくすぶるようになったとき、私たちが行っていた鍛錬が私たちを正しい道に導き、右にも左にも寄らず、まっすぐにその道を歩ませてくれるのです(107~108頁)

    習慣は感情から自分を守ってくれる
    • 毎日または毎週同じことを繰り返すということは、私たちを守ってくれることになります。……もし私に規則がなく、私の足のためにまっすぐな道を作ってくれなければ、私はのべつ幕なしに自分に言わねばなりません。「今日は教会に行く気がしない」とか、「今朝は祈る気がしない」と。その結果私は、教会にも行かず祈りもしないのです。(109頁)
    • 祈る気がしない時こそ、私はいっそう、祈りによって強められる必要があるのです。信者の集いに出たくない時こそ、私はそれらの人との交わりが、私をその中から連れ出してくれることを必要としているのです。聖餐を受けたくないと思うときこそ、キリストの体と血を食することによって、私の感情が変えられる必要があるのです。(109~110頁)

    集会参加を軽んじる習慣は信仰の減退につながる
    • かつてシカゴの有力な市民が、有名な伝道者であるドワイト・L・ムーディー を自分の書斎に迎えたとき、言ったのです。「教会の外にいても、その中にいると同じように、立派なキリスト者になれると思うんですが」と。するとムーディーは、何も言わず、やおら燃えている暖炉の火のそばに行き、真っ赤な石炭を一個火箸でつまみ出して、燃えるままにしておきました。その二人は黙って、その石炭がくすぶって火が消えてしまうのを眺めていたのです。「わかりました」とその紳士は言い、その次の日曜には教会に出かけたのです。(112頁)
    • 今もなおキリストは、私たちと共に安息日に教会に来たもうのです。主はここに、今いまし、私たちが教会に行くのは、主に会うためなのです。それゆえ、ある人たちの習慣のように、集会をやめることはしないで、主の良き習慣に従いましょう。(114頁)


    ジョン・ベイリーは、『朝の祈り 夜の祈り』 の著者として有名です。本書『眠りの神学』の末尾にはベイリーの従姉による長い手記が付されていて、著者がいかに真剣な祈りの人であったかがわかります。

    JELA理事
    森川 博己

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