2019年12月10日火曜日

【続・信仰書あれこれ】使徒信条によるキリスト教入門


隅谷三喜男著『私のキリスト教入門――使徒信条による』(1983年、日本YMCA同盟出版部)をとりあげます。

著者は1932年のクリスマスに受洗し、その五十周年を記念して本書を公刊しました。学生・青年向けに、自分の信仰告白として書いたということです。

一般信徒である著者は、本書の内容が神学的に問題なきようにするため、当時の東京神学大学教授・熊沢義宣氏から原稿の大半についてチェックを受けたと記しています。

◇◆◇

使徒信条というのは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に始まり、「~永遠の生命を信ず」で終わる、キリスト教会が長年唱えてきた信条の一つで、正統的キリスト教信仰の核心を表したものです。

以下では、「天地創造の神」と「全能の神」に関する説明の一部をご紹介します。

天地創造の神
  • 使徒信条が「天地の造り主を信ず」と告白しているときに、何よりも注意しなければならないことは、天地創造のプロセスを信じると言っているのではない、ということです。たとえば、一日と言っても、それは我々の生活における一日の意味ではなく、「主(神)にあっては千年は一日のようであり、一日は千年のようである」<ペテロⅡ3:8>と言われるように、我々の一日とは違った次元で語られているのです。(20頁)
  • 天地創造の信仰というのは、人間を含めてすべてのものを存在させ、これを支えている神への信仰であって、神がどういう手続き、どういう順序で天地万物を造り上げたかというようなことを信じることではないのです。……信仰とは本質的に神の支配への信頼関係であって、世界や人類の生成を説明しようとするものではないのです。そういう説明をしようとすると、それは人間が考えた世界観になってしまうわけです。(21頁)
  • 神の創造は<無からの創造>だということです。それは言い換えれば、この世界、人類は、その根源から神によって造られ、神の支配のもとにあるという信仰の告白です。存在するもの自体に存在の根拠はない、ということです。そこから、被造物を神としようとするすべての偶像崇拝が拒否されることにもなるのです。(26頁)


全能の神
  • 全能の父なる神というときには、本来、神とその被造物とは非連続のものですが、それにもかかわらず、神は私たち人間に対して関係を持たれるのだ、という信仰の告白なのです。この越えがたい溝を超えることができる神、それが全能の神なのです。キリスト教の信仰では、それを神の恩寵と表現しています。それゆえ、全能の神とは、たんに何でもできる神というようなことではなく、私たち人間をその悲惨と罪の中から救い出すためには、不可能なことをも可能とする神である、という告白です。(31頁)
  • 全能とは、したいことは何でもできるということではなく、神と人間との……断絶の関係を回復するためには、不可能を可能とする神の力であり、人格的世界における全能であることを学びました。したがって、イエス・キリストが<主>として我々に対して持つ権威も、生殺与奪は意のままということではなく、まず何よりも、人間が神に背いて犯している罪を裁く権威なのです。キリストは「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」<ヨハネ9:39>と言われます。しかし、より重要なことは、その罪を赦す権威です。(42~43頁)


著者は労働経済学の泰斗であり、その専門的立場から著した『近代日本の形成とキリスト教』(新教新書) のような著書もあります。

JELA理事
森川 博己
 
◆◇◆

【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2019年12月5日木曜日

【続・信仰書あれこれ】55歳からのキリスト教入門


小島誠志著『55歳からのキリスト教入門――イエスと歩く道』(2018年、日本キリスト教団出版局)をとりあげます。

著者あとがきに次のように記されています。「近年、日本の教会では中高年になって受洗される方が増えています。そういう方々を意識して執筆しました。もう一つ願ったことは、長く信仰生活を続けて来られた方々の参考になれば、ということです。筆者の旧著『わかりやすい教理』 の延長線上にこの小著を位置づけることができれば、というのがひそかな願いです。」

◇◆◇

以下では、「永遠の命について」と題された章の一部をご紹介します。
  • ある高齢の信徒の方が、あるとき牧師である私に、ふと漏らしました。「死ねるから、大丈夫!」。……今あるこの命を生きることも楽ではないのです。次々に襲ってくる試練があります。体の不調も。自分の中にあるゆがみや屈折、他者を傷つけたり傷つけられたり。しかし、「死ねるから、大丈夫!」。やがて終わらせていただけるのです。永遠の命とは、この命がいつまでも続くことではありません。(37頁)
  • イエス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」<ヨハネ17:3>。この「知る」という言葉は、知識として何かを知るという意味ではありません。人と人とが出会って、交わりをもって「知る」という意味の言葉です。永遠の命というのは、イエス・キリストによって救われ神の子とされた者が、救い主のとりなしによって神に結ばれ神に出会い交わる、そういう生の中に入れられることです。(37~38頁)
  • 永遠の命というのは、終わりのない命というよりは(それも否定はされませんが)、神と御子イエス・キリストとの交わりに中に入れられることなのです。神と向き合うこの交わりの中で人間は、初めてかけがえのない人格として見出されている自分を知るのです。……この交わりは死後に始まるというようなものではなく、信仰によって今ここで始まっているものなのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」<ヨハネ5:24>。(38~39頁)
  • 永遠の命とは、私たちの所有する何かではありません。私たちが所有する終わらない命、というものではありません。永遠の命とは、永遠なる神と関わる命のことなのです。永遠なる神と交わる命のことなのです。(39頁)


本シリーズでは、小島誠志氏が著した以下の三冊も紹介しています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

2019年11月22日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信じている事柄をはっきりさせる

『イエスは生きておられる――私たちの信仰告白』(J.ツィンク+R.レーリヒト著、1975年、新教出版社)をとりあげます。

訳者あとがきによると、原書は「キリスト者が信じている事柄」という題で、読者一人ひとりがそれぞれの力量に応じて本文と対話し、自分の信じている事柄を、より一層明快に把握するのに役立ててほしい、というのが著者の願いだそうです。

教会学校の中学科でも学べるように、やさしい言葉づかいで訳されています。

◇◆◇

教会は己を捧げることによって生きる
  • おのれやその現状を守ったり、数をふやしたりすることが、教会の目標であってはなりません。教会は、拡がり、そして、変わり、真理に味方し、暴力に抵抗し、正義と平和とに貢献すべきです。……教会は、権力や制度をたよりにすることはゆるされません。教会は、規制する力をもたずに人と人とを結び合わせ、そして、しいたげられる者の側に立つのです。教会は、不正な扱いを受けて苦しむ時があることを覚悟しなければなりません。そして、他の人びとの上に不正が加えられる時には、雄々しく、苦しみをともに担うのでなければなりません。(25~26頁)

変化は神の霊によってもたらされる
  • もしもわたしたちが、神の霊の働きを抜きにして、聖書を解釈する場合には、わたしたちは、だれにも役立たない死文と化した伝承か、きのうの思想か、きょうの思いつきを代弁するにすぎません。聖書の真理は、それがわたしたちと世界を変革するときに、そのときだけ働くのです。根底から変革し更新することは、わたしたち人間にはできません。そのことは神の霊だけができることです。(28~29頁)

失敗から立ち直るための告白
  • わたしは信じませんでした。わたしは、わたしの自由を濫用し、そして、わたしの良心にそむきました。わたしは、いたずらに憂え、そして、妬み、恩を忘れ、疑いをいだき、失望し、不遜で、独善的でした。わたしは愛しませんでした。わたしは過ちを犯しました。わたしは、快適な道をたどりました。わたしは、大勢に順応し、そして、犠牲になることを避けました。わたしは、キリストに似る者となるまいとして、そして、キリストの道をたどることを恐れました。わたしは、目標を見失い、そして、望みをなくしました。わたしは、自分をえらい者のように思いました。わたしは、時間と能力を浪費し、不正を大目に見、苦しみと孤独とを見すごし、そして、人びとをなげやりにしました。神が幸いを賜ったのに、わたしは感謝をしませんでした。(85~87頁)

    著者の一人であるイェルク・トゥインクの別の作品、『祈りを求めて』を本シリーズでとりあげています。こちらもお楽しみください。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    2019年11月15日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】信仰生活における習慣の大切さ


    『眠りの神学――J.ベイリー説教集』(大塚野百合訳、1970年、日本基督教団出版局・アルパ新書2) をとりあげます。

    原書(1962年)タイトルは“Christian Devotion”であり、神学的観点による「眠り」の説教集ではありません。

    ◇◆◇

    習慣の大切さを説いた説教の一部を以下にご紹介します。

    習慣は霊的歩みを確かなものにする
    • 最も偉大な聖徒たちさえも、霊的に渇くことがあると嘆いています。それは闇と疑いの時期であり、霊が死んでしまったような時期なのです。……すぐれた聖徒たちは、率先してキリスト教的なしきたりを厳守するよう、自ら鍛錬してきたのです。このように規則的にする習慣をつけて、それから一歩もはずれないように努力してきたのです。(107頁)
    • 私たちの内に霊的な火が燃えており、何にも増して神との交わりを願うときは、私たちに規則は必要ないでしょう。しかし、このような時にこそ、規則を作るべきなのです。……そうしておけば、神を求める思いが弱まり、霊的な火がくすぶるようになったとき、私たちが行っていた鍛錬が私たちを正しい道に導き、右にも左にも寄らず、まっすぐにその道を歩ませてくれるのです(107~108頁)

    習慣は感情から自分を守ってくれる
    • 毎日または毎週同じことを繰り返すということは、私たちを守ってくれることになります。……もし私に規則がなく、私の足のためにまっすぐな道を作ってくれなければ、私はのべつ幕なしに自分に言わねばなりません。「今日は教会に行く気がしない」とか、「今朝は祈る気がしない」と。その結果私は、教会にも行かず祈りもしないのです。(109頁)
    • 祈る気がしない時こそ、私はいっそう、祈りによって強められる必要があるのです。信者の集いに出たくない時こそ、私はそれらの人との交わりが、私をその中から連れ出してくれることを必要としているのです。聖餐を受けたくないと思うときこそ、キリストの体と血を食することによって、私の感情が変えられる必要があるのです。(109~110頁)

    集会参加を軽んじる習慣は信仰の減退につながる
    • かつてシカゴの有力な市民が、有名な伝道者であるドワイト・L・ムーディー を自分の書斎に迎えたとき、言ったのです。「教会の外にいても、その中にいると同じように、立派なキリスト者になれると思うんですが」と。するとムーディーは、何も言わず、やおら燃えている暖炉の火のそばに行き、真っ赤な石炭を一個火箸でつまみ出して、燃えるままにしておきました。その二人は黙って、その石炭がくすぶって火が消えてしまうのを眺めていたのです。「わかりました」とその紳士は言い、その次の日曜には教会に出かけたのです。(112頁)
    • 今もなおキリストは、私たちと共に安息日に教会に来たもうのです。主はここに、今いまし、私たちが教会に行くのは、主に会うためなのです。それゆえ、ある人たちの習慣のように、集会をやめることはしないで、主の良き習慣に従いましょう。(114頁)


    ジョン・ベイリーは、『朝の祈り 夜の祈り』 の著者として有名です。本書『眠りの神学』の末尾にはベイリーの従姉による長い手記が付されていて、著者がいかに真剣な祈りの人であったかがわかります。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年10月29日火曜日

    【続・信仰書あれこれ】ルッターの根本思想

    日本におけるルター研究の開拓者である佐藤繁彦の『羅馬書講解に現れし ルッターの根本思想』(1932年、ルッター研究会、限定350部)をとりあげます。

    本書は、著者が京都帝国大学文学部に提出した博士論文に大幅に修正追加を施したものです。そして、著者の研究生活の収穫であるのみならず、その信仰生活の所産であると序文に記されています。

    ◇◆◇

    以下では、序説で示されるルター神学の要点をいつくかご紹介します。漢字仮名については原文の旧表記を現代表記に改めましたが、マルチン・ルターについては、「ルター」ではなく、原文通りの「ルッター」で引用します。

    神の超在と内在
    • スコラ神学は、神によって定められた普通の秩序を、神が破壊する異常な出来事においてのみ神の全能を見ようとしたが、ルッターは、世界の普通の進行において、神の最大の奇跡を見たのである。かく、ルッターは、神の超在を説くよりも、世界における神の内在を説き、そこに神の活ける活動を見ようとしたのである。(6~7頁)

    神の働きかけへの人間の服従
    • ルッターの神観には、人間の思索もしくは願望が、問題となりえなかったことは、明らかだ。ルッターは、実在する神が、人間に対していかなる態度をとるかを一切とした。……ルッターの神観は、神の働きかけを中心とする神観であったのである。例えば、ルッターの『小教理問答』を見ても神は創造の神であり、維持の神であり、支配の神であって、人間は全くただこの恩寵の神に感謝し服従する以外、何らの可能性を持ちえないのである。この思想は、ルッターの神観の根本的特徴を示すものであって、神に服従することが彼の宗教であり、かく服従することも、人間のためではなくして、全くただ神のためであるのが、彼の宗教だったのである。(15頁)

    隠されたる神
    • 神は霊であるが、世界は肉であるから、世界における神の活動は必然、隠されることになるのである。ルッターには、この場合、「隠される」ということは、「霊的」ということであったのである。霊的な神の霊的なわざは必然、肉である世界に隠されるわけであるが、同様に、肉である人間にも隠されるわけである。ここで、「肉」に対立するものとして、すなわち、「人間の念」に対立するものとして、「信仰」が問題になるのである。ゆえに、「被覆」は、「啓示」の前提であるばかりでなく、信仰の前提でもあるのである。そは、「信仰」は信仰の対象が被覆されるときのみ、可能であるからである。ルッターは被覆の仮象の奥に真実を見るのが信仰だと解しておる。我らの肉の念は、すぐ被覆に眩惑されるのであるが、「信仰」は、よく、神の意志が何であるかを「被覆」の下に読むのである。(17頁)

    人を悔い改めに導くもの
    • ルッターの『羅馬書講解』に現れた悔改観を見ると、そこには、人間の意識的努力とは無関係に、すべてにおいてすべてを働く神が、人間の心のうちに悔い改めを生ぜしめる者として、描かれておるのである。人間が、一般に、真の意志を有することは否定され、霊的生活が問題になる時には、全ては、神の創造的な力にかかることが力説されておるのである。ゆえに、……人間が自発的になし得る「悔い改め」は、ルッターの全く関知せざるものであって、ルッターは、神の愛と恵みのみが、人間を悔い改めに導くことを明らかにするのである。(26~27頁)

    神のために神を求める
    • 神を求めるとき、自己のために神を求めるのと、神のために神を求めるのとは、全く違ったことであるということを、ルッターは発見した。自己のために神を求めることは、それがいかに敬虔に見えても、所詮、「自己追求」であって、ただ「対象」が、「最高のもの」に代わっただけで、同時に、自己追求が最も高尚化されたことにすぎないのである。……ルッターは、神を求めることと自己を求めることとの間には、贖われ難い対立を見た。神を求めることは、自己を否定することでなければならない。これが、ルッターの考えであった。(35頁)

    本書には『ローマ書講解に現れしルッターの根本思想』(1961年、聖文舎)という現代表記版があります。

    私はルッター研究会版を2013年10月に入手してすぐ、時間を忘れて読みふけりました。宗教改革500周年(2017年)を数年後に控え、ルター神学の豊かさに触れる貴重な経験でした。

    JELA理事
    森川 博己




    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年10月24日木曜日

    【続・信仰書あれこれ】認知症と信仰


    『聖書を読んで想う』(渡辺正雄著、2005年、新教出版社)をとりあげます。

    著者は科学史の分野で開拓的な業績をあげたクリスチャン科学者。驚きと喜びの源泉である聖書を伝えるべく、長年にわたり自宅を開放して「聖書を読む会」を主宰されました。本書は、その準備ノートから興味深い項目を拾い上げ書籍化したものです。

    ◇◆◇

    以下では、「『ボケ老人』考」と題された部分を紹介します。「ボケ」は今では認知症と言われるのが普通でしょうが、ここでは、原文のまま引用します。

    • ボケてしまったら、せっかく一生懸命に学んできた生命の御言葉である『聖書』のエッセンスが何であったか、全く分からなくなってしまうのではないか。地上の命を終えるときにこそ最も強く呼び求めるべき救い主のお名前さえ忘れてしまうのではないか。いや、さらに、救い主を呼び求めるべきだということすら、私たちの意識から消え去ってしまうのではないか。我々は『聖書』から信仰によって救われると教えられてきたのだが、ボケてしまって、信仰まで朦朧としてしまったら、救われる可能性はなくなってしまうのではないか。(148~9頁)
    • 思うに、ここで本当に問われているのは、実は、死の床での私の信仰如何ではなくて、今日、只今現在の私の信仰如何なのだということに気づくべきではあるまいか。……キリストへの信仰が救いの条件なのであるから、もはや信仰を告白できなくなったボケ老人は救いから外れてしまっていると考えるのか。死者(もはや自分で信仰告白することなどできない者)をも生かすことのできるキリストの力は、お前がボケただけでお前にはもう効力を発揮できなくなってしまうほどに、それほど限られたものと考えるか。(149頁)
    • この問題は、それゆえ、今の時点でキリストを正当に信じるかどうかの問題に帰着するのである。将来ボケた時にどうかの問題ではなくて、キリストの救いは、ボケた者にも死んだ者にも、人間の側のあり方如何に左右されることなく、百パーセント有効に働くということを、今、信じるか否かの問題なのである。私たちはパウロと共に、「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38~39)との信仰を、今、告白しようではないか。そして、この「死も生も」の中に当然「ボケも」が含まれているのである。(149~150頁)
    • 次に、我々の周囲におられるボケ老人についてならば、「ルカによる福音書」5章18~26節……に見られるように、主イエスは、当人の信仰ではなしに、この人を主イエスのもとに運んできた「彼らの信仰を見て」この人を救われたのであった。このことを特に銘記しておくべきである。(150頁)
    • 私たちは、ボケるかもしれない将来のことを案じるのではなしに、死者をも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じようではないか。心が死んでしまった者をさえも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じることが第一なのではあるまいか。(150~51頁)

    渡辺氏のキリスト教関連著作で読みやすいものに『キリストに出会う』(丸善ライブラリー)、『科学者とキリスト教』(講談社ブルーバックス)などがあります。また、一般書としては『日本人と近代科学』(岩波新書)、『文化としての近代科学』(講談社学術文庫)などがあります。

    JELA理事
    森川 博己
     
    ◆◇◆

    【関連リンク】

    2019年9月27日金曜日

    【続・信仰書あれこれ】地獄と神の愛

    山田晶著『アウグスチヌス講話』(講談社学術文庫、1995年) をとりあげます。

    本書は、ある教会のうちとけた小さな集まりの中で著者が話した内容をまとめたものです。「アウグスチヌスと女性」「神の憩い」など、興味をそそられる話題ばかりです。

    ◇◆◇

    以下では「煉獄と地獄」と題された章の一部をご紹介します。地獄の存在と神の愛との関係に触れた部分です。

    • 神は無限にあわれみ深いものであるから、地獄などを作るはずはない。だから地獄のことが語られるのは方便にすぎない、という説があります。しかしそういう考え方は、神のあわれみというものを、人間の腹にあてがって考えているのではないかと思います。ですから、そういう仕方で神のあわれみが表象される場合には、神の持っていられるもう一つの側面、非常に厳しい側面、またその厳しさに裏付けられた神の真実の愛、そういう側面が消えてしまうのではないか。すべてのものを包容するなどと言いながら、そこに観念的でセンチメンタルな要素が入ってくるのではないか。「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」になっているのではないか。本当の意味でリアルな神の愛は、何もかも無条件に赦すようなものではなくて、ある者たちは容赦なく地獄へ突き落とすという、そういう厳しさを含んだものではないか。それは、人間の愛の観念を超越する側面を有する愛ではないか。それを神の愛が小さいとか、ケチだとか、そんなふうに取るのは根本的にまちがいで、そのような厳しさに裏付けられた愛こそは、真実の愛だと思うのです。(94~5頁)
    • 地獄にゆくか否かは、犯した罪が人間の眼から見て大きいか小さいか(たとえば殺人か万引きか)によって決まるのではなくて、当人が自己の罪を悔い改めているか否か、それも、人々の前にその悔い改めを表明しているか否かではなくて、神様の前に悔い改めてそれを神様の前に表明しているか否かにかかっています。そのことの典型的な例として、……十字架上に、イエスのかたわらにおいて自分の罪を告白し、イエスから赦されて死んだ盗賊をあげることができます。恐らく彼は、国法から言えば、大罪人であったでしょう。イエスのとなりに十字架にかけられるまでは、自分の罪について考えたこともなかったかもしれません。憎悪と復讐のかたまりであったかもしれません。それが、イエスのかたわらで、不思議にも、素直になり自分の罪を悔い改め、赦しを乞いました。それに対してイエスは、即刻に完全な赦しを与え、天国にイエスと「共に生きる」栄光の生を保証しました。ここにこそ、神の無限のあわれみが現れます。これに対し、同じ十字架につけられながら、イエスを罵ったもう一人の盗賊は、恐らく地獄にゆくでしょう。それは、イエスが彼を地獄に落とすのではなくて、たとえイエスがどんなに彼を救ってやりたくても、自分自身の罪の重さによって堕ちてゆくのですから、どうにも救いようがないのです。(101~2頁)
    • この世は既に地獄であるとはなぜ言わないか。そこです。この世は苦しいことに満ちている。さながら煉獄である。しかし地獄であるとは言わない。なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。しかしもし我々がこの世の中で絶望したら、その時この世は地獄になる。我々がこの世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として把えることができるならば、この世は煉獄となる。そのように苦しみを受け取るならば、苦しみの中に希望が出てくるからです。あるいは、逆かもしれない。すなわち、希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。(107~8頁)

    山田晶氏はアウグスチヌス研究の権威であり、本シリーズでは同氏訳による『告白』もとりあげています。また、山田氏以外の訳で、『教えの手ほどき』 というアウグスチヌスの作品も本シリーズで紹介しています。

    JELA理事
    森川 博己

    ◆◇◆

    【関連リンク】