2019年11月15日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信仰生活における習慣の大切さ


『眠りの神学――J.ベイリー説教集』(大塚野百合訳、1970年、日本基督教団出版局・アルパ新書2) をとりあげます。

原書(1962年)タイトルは“Christian Devotion”であり、神学的観点による「眠り」の説教集ではありません。

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習慣の大切さを説いた説教の一部を以下にご紹介します。

習慣は霊的歩みを確かなものにする
  • 最も偉大な聖徒たちさえも、霊的に渇くことがあると嘆いています。それは闇と疑いの時期であり、霊が死んでしまったような時期なのです。……すぐれた聖徒たちは、率先してキリスト教的なしきたりを厳守するよう、自ら鍛錬してきたのです。このように規則的にする習慣をつけて、それから一歩もはずれないように努力してきたのです。(107頁)
  • 私たちの内に霊的な火が燃えており、何にも増して神との交わりを願うときは、私たちに規則は必要ないでしょう。しかし、このような時にこそ、規則を作るべきなのです。……そうしておけば、神を求める思いが弱まり、霊的な火がくすぶるようになったとき、私たちが行っていた鍛錬が私たちを正しい道に導き、右にも左にも寄らず、まっすぐにその道を歩ませてくれるのです(107~108頁)

習慣は感情から自分を守ってくれる
  • 毎日または毎週同じことを繰り返すということは、私たちを守ってくれることになります。……もし私に規則がなく、私の足のためにまっすぐな道を作ってくれなければ、私はのべつ幕なしに自分に言わねばなりません。「今日は教会に行く気がしない」とか、「今朝は祈る気がしない」と。その結果私は、教会にも行かず祈りもしないのです。(109頁)
  • 祈る気がしない時こそ、私はいっそう、祈りによって強められる必要があるのです。信者の集いに出たくない時こそ、私はそれらの人との交わりが、私をその中から連れ出してくれることを必要としているのです。聖餐を受けたくないと思うときこそ、キリストの体と血を食することによって、私の感情が変えられる必要があるのです。(109~110頁)

集会参加を軽んじる習慣は信仰の減退につながる
  • かつてシカゴの有力な市民が、有名な伝道者であるドワイト・L・ムーディー を自分の書斎に迎えたとき、言ったのです。「教会の外にいても、その中にいると同じように、立派なキリスト者になれると思うんですが」と。するとムーディーは、何も言わず、やおら燃えている暖炉の火のそばに行き、真っ赤な石炭を一個火箸でつまみ出して、燃えるままにしておきました。その二人は黙って、その石炭がくすぶって火が消えてしまうのを眺めていたのです。「わかりました」とその紳士は言い、その次の日曜には教会に出かけたのです。(112頁)
  • 今もなおキリストは、私たちと共に安息日に教会に来たもうのです。主はここに、今いまし、私たちが教会に行くのは、主に会うためなのです。それゆえ、ある人たちの習慣のように、集会をやめることはしないで、主の良き習慣に従いましょう。(114頁)


ジョン・ベイリーは、『朝の祈り 夜の祈り』 の著者として有名です。本書『眠りの神学』の末尾にはベイリーの従姉による長い手記が付されていて、著者がいかに真剣な祈りの人であったかがわかります。

JELA理事
森川 博己

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2019年10月29日火曜日

【続・信仰書あれこれ】ルッターの根本思想

日本におけるルター研究の開拓者である佐藤繁彦の『羅馬書講解に現れし ルッターの根本思想』(1932年、ルッター研究会、限定350部)をとりあげます。

本書は、著者が京都帝国大学文学部に提出した博士論文に大幅に修正追加を施したものです。そして、著者の研究生活の収穫であるのみならず、その信仰生活の所産であると序文に記されています。

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以下では、序説で示されるルター神学の要点をいつくかご紹介します。漢字仮名については原文の旧表記を現代表記に改めましたが、マルチン・ルターについては、「ルター」ではなく、原文通りの「ルッター」で引用します。

神の超在と内在
  • スコラ神学は、神によって定められた普通の秩序を、神が破壊する異常な出来事においてのみ神の全能を見ようとしたが、ルッターは、世界の普通の進行において、神の最大の奇跡を見たのである。かく、ルッターは、神の超在を説くよりも、世界における神の内在を説き、そこに神の活ける活動を見ようとしたのである。(6~7頁)

神の働きかけへの人間の服従
  • ルッターの神観には、人間の思索もしくは願望が、問題となりえなかったことは、明らかだ。ルッターは、実在する神が、人間に対していかなる態度をとるかを一切とした。……ルッターの神観は、神の働きかけを中心とする神観であったのである。例えば、ルッターの『小教理問答』を見ても神は創造の神であり、維持の神であり、支配の神であって、人間は全くただこの恩寵の神に感謝し服従する以外、何らの可能性を持ちえないのである。この思想は、ルッターの神観の根本的特徴を示すものであって、神に服従することが彼の宗教であり、かく服従することも、人間のためではなくして、全くただ神のためであるのが、彼の宗教だったのである。(15頁)

隠されたる神
  • 神は霊であるが、世界は肉であるから、世界における神の活動は必然、隠されることになるのである。ルッターには、この場合、「隠される」ということは、「霊的」ということであったのである。霊的な神の霊的なわざは必然、肉である世界に隠されるわけであるが、同様に、肉である人間にも隠されるわけである。ここで、「肉」に対立するものとして、すなわち、「人間の念」に対立するものとして、「信仰」が問題になるのである。ゆえに、「被覆」は、「啓示」の前提であるばかりでなく、信仰の前提でもあるのである。そは、「信仰」は信仰の対象が被覆されるときのみ、可能であるからである。ルッターは被覆の仮象の奥に真実を見るのが信仰だと解しておる。我らの肉の念は、すぐ被覆に眩惑されるのであるが、「信仰」は、よく、神の意志が何であるかを「被覆」の下に読むのである。(17頁)

人を悔い改めに導くもの
  • ルッターの『羅馬書講解』に現れた悔改観を見ると、そこには、人間の意識的努力とは無関係に、すべてにおいてすべてを働く神が、人間の心のうちに悔い改めを生ぜしめる者として、描かれておるのである。人間が、一般に、真の意志を有することは否定され、霊的生活が問題になる時には、全ては、神の創造的な力にかかることが力説されておるのである。ゆえに、……人間が自発的になし得る「悔い改め」は、ルッターの全く関知せざるものであって、ルッターは、神の愛と恵みのみが、人間を悔い改めに導くことを明らかにするのである。(26~27頁)

神のために神を求める
  • 神を求めるとき、自己のために神を求めるのと、神のために神を求めるのとは、全く違ったことであるということを、ルッターは発見した。自己のために神を求めることは、それがいかに敬虔に見えても、所詮、「自己追求」であって、ただ「対象」が、「最高のもの」に代わっただけで、同時に、自己追求が最も高尚化されたことにすぎないのである。……ルッターは、神を求めることと自己を求めることとの間には、贖われ難い対立を見た。神を求めることは、自己を否定することでなければならない。これが、ルッターの考えであった。(35頁)

本書には『ローマ書講解に現れしルッターの根本思想』(1961年、聖文舎)という現代表記版があります。

私はルッター研究会版を2013年10月に入手してすぐ、時間を忘れて読みふけりました。宗教改革500周年(2017年)を数年後に控え、ルター神学の豊かさに触れる貴重な経験でした。

JELA理事
森川 博己




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2019年10月24日木曜日

【続・信仰書あれこれ】認知症と信仰


『聖書を読んで想う』(渡辺正雄著、2005年、新教出版社)をとりあげます。

著者は科学史の分野で開拓的な業績をあげたクリスチャン科学者。驚きと喜びの源泉である聖書を伝えるべく、長年にわたり自宅を開放して「聖書を読む会」を主宰されました。本書は、その準備ノートから興味深い項目を拾い上げ書籍化したものです。

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以下では、「『ボケ老人』考」と題された部分を紹介します。「ボケ」は今では認知症と言われるのが普通でしょうが、ここでは、原文のまま引用します。

  • ボケてしまったら、せっかく一生懸命に学んできた生命の御言葉である『聖書』のエッセンスが何であったか、全く分からなくなってしまうのではないか。地上の命を終えるときにこそ最も強く呼び求めるべき救い主のお名前さえ忘れてしまうのではないか。いや、さらに、救い主を呼び求めるべきだということすら、私たちの意識から消え去ってしまうのではないか。我々は『聖書』から信仰によって救われると教えられてきたのだが、ボケてしまって、信仰まで朦朧としてしまったら、救われる可能性はなくなってしまうのではないか。(148~9頁)
  • 思うに、ここで本当に問われているのは、実は、死の床での私の信仰如何ではなくて、今日、只今現在の私の信仰如何なのだということに気づくべきではあるまいか。……キリストへの信仰が救いの条件なのであるから、もはや信仰を告白できなくなったボケ老人は救いから外れてしまっていると考えるのか。死者(もはや自分で信仰告白することなどできない者)をも生かすことのできるキリストの力は、お前がボケただけでお前にはもう効力を発揮できなくなってしまうほどに、それほど限られたものと考えるか。(149頁)
  • この問題は、それゆえ、今の時点でキリストを正当に信じるかどうかの問題に帰着するのである。将来ボケた時にどうかの問題ではなくて、キリストの救いは、ボケた者にも死んだ者にも、人間の側のあり方如何に左右されることなく、百パーセント有効に働くということを、今、信じるか否かの問題なのである。私たちはパウロと共に、「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38~39)との信仰を、今、告白しようではないか。そして、この「死も生も」の中に当然「ボケも」が含まれているのである。(149~150頁)
  • 次に、我々の周囲におられるボケ老人についてならば、「ルカによる福音書」5章18~26節……に見られるように、主イエスは、当人の信仰ではなしに、この人を主イエスのもとに運んできた「彼らの信仰を見て」この人を救われたのであった。このことを特に銘記しておくべきである。(150頁)
  • 私たちは、ボケるかもしれない将来のことを案じるのではなしに、死者をも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じようではないか。心が死んでしまった者をさえも生かしたもうイエス・キリストを、今、信じることが第一なのではあるまいか。(150~51頁)

渡辺氏のキリスト教関連著作で読みやすいものに『キリストに出会う』(丸善ライブラリー)、『科学者とキリスト教』(講談社ブルーバックス)などがあります。また、一般書としては『日本人と近代科学』(岩波新書)、『文化としての近代科学』(講談社学術文庫)などがあります。

JELA理事
森川 博己
 
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2019年9月27日金曜日

【続・信仰書あれこれ】地獄と神の愛

山田晶著『アウグスチヌス講話』(講談社学術文庫、1995年) をとりあげます。

本書は、ある教会のうちとけた小さな集まりの中で著者が話した内容をまとめたものです。「アウグスチヌスと女性」「神の憩い」など、興味をそそられる話題ばかりです。

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以下では「煉獄と地獄」と題された章の一部をご紹介します。地獄の存在と神の愛との関係に触れた部分です。

  • 神は無限にあわれみ深いものであるから、地獄などを作るはずはない。だから地獄のことが語られるのは方便にすぎない、という説があります。しかしそういう考え方は、神のあわれみというものを、人間の腹にあてがって考えているのではないかと思います。ですから、そういう仕方で神のあわれみが表象される場合には、神の持っていられるもう一つの側面、非常に厳しい側面、またその厳しさに裏付けられた神の真実の愛、そういう側面が消えてしまうのではないか。すべてのものを包容するなどと言いながら、そこに観念的でセンチメンタルな要素が入ってくるのではないか。「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」になっているのではないか。本当の意味でリアルな神の愛は、何もかも無条件に赦すようなものではなくて、ある者たちは容赦なく地獄へ突き落とすという、そういう厳しさを含んだものではないか。それは、人間の愛の観念を超越する側面を有する愛ではないか。それを神の愛が小さいとか、ケチだとか、そんなふうに取るのは根本的にまちがいで、そのような厳しさに裏付けられた愛こそは、真実の愛だと思うのです。(94~5頁)
  • 地獄にゆくか否かは、犯した罪が人間の眼から見て大きいか小さいか(たとえば殺人か万引きか)によって決まるのではなくて、当人が自己の罪を悔い改めているか否か、それも、人々の前にその悔い改めを表明しているか否かではなくて、神様の前に悔い改めてそれを神様の前に表明しているか否かにかかっています。そのことの典型的な例として、……十字架上に、イエスのかたわらにおいて自分の罪を告白し、イエスから赦されて死んだ盗賊をあげることができます。恐らく彼は、国法から言えば、大罪人であったでしょう。イエスのとなりに十字架にかけられるまでは、自分の罪について考えたこともなかったかもしれません。憎悪と復讐のかたまりであったかもしれません。それが、イエスのかたわらで、不思議にも、素直になり自分の罪を悔い改め、赦しを乞いました。それに対してイエスは、即刻に完全な赦しを与え、天国にイエスと「共に生きる」栄光の生を保証しました。ここにこそ、神の無限のあわれみが現れます。これに対し、同じ十字架につけられながら、イエスを罵ったもう一人の盗賊は、恐らく地獄にゆくでしょう。それは、イエスが彼を地獄に落とすのではなくて、たとえイエスがどんなに彼を救ってやりたくても、自分自身の罪の重さによって堕ちてゆくのですから、どうにも救いようがないのです。(101~2頁)
  • この世は既に地獄であるとはなぜ言わないか。そこです。この世は苦しいことに満ちている。さながら煉獄である。しかし地獄であるとは言わない。なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。しかしもし我々がこの世の中で絶望したら、その時この世は地獄になる。我々がこの世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として把えることができるならば、この世は煉獄となる。そのように苦しみを受け取るならば、苦しみの中に希望が出てくるからです。あるいは、逆かもしれない。すなわち、希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。(107~8頁)

山田晶氏はアウグスチヌス研究の権威であり、本シリーズでは同氏訳による『告白』もとりあげています。また、山田氏以外の訳で、『教えの手ほどき』 というアウグスチヌスの作品も本シリーズで紹介しています。

JELA理事
森川 博己

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2019年8月21日水曜日

【続・信仰書あれこれ】かけがえのない一冊


昨年の3月に「一冊だけ手もとに置けるとしたら」という題で、『聖書のことば』(宮本武之助著) をとりあげました。同じ質問を今、自らに問うなら、躊躇なく『ローマ書講解説教Ⅰ~Ⅲ』(竹森満佐一著、1962~72年、新教出版社) を挙げるでしょう。

今年の1~5月に、十種類近くある竹森氏の講解説教を順番に読了し、6月から再び、『ローマ書』に目を通しています。信仰書に限らず、読んでから数か月後に同じ本を再読するのは、私には初めての経験です。

本書は、日本基督教団・吉祥寺教会で竹森牧師が何年かにわたって行った礼拝説教を信徒が忠実にメモし、その記録を書籍化したものです。キリストの福音をまっすぐに伝えようとする著者の情熱が伝わってくる名説教集です。

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以下に、本書の二つの分冊から、律法・割礼・洗礼と神の福音との関係に触れた箇所を一部ご紹介します。

<第一分冊> ローマ書3章1~8節
  • 神がまったく自由に、御自身のお考えからユダヤ人に律法をお与えになったのであります。ところがそのことが、何か自分の特権のように思って、それに対する責任はあまり考えなくなったということです。……律法を受けたことが特権であるのなら、これを謙遜に受けて、その恵みを知るべきであったのに、そうはしないで、それをただ自分の誇りの材料にしたことに問題があるのであります。律法や割礼が与えられたのに何の役にも立たないのか、とまるでそれが神の責任であるように言うわけであります。(中略)このようなことは、今日の信仰者の場合も起こりうることであります。キリスト教の信者でも、信仰が弱くなるといろいろな点で不平を言うようになって、「洗礼を受けても、自分は少しも変わりはしない」というような愚かなことを、得意そうに話したりするものであります。……自分の方に用意しておくべき信仰のことは忘れてしまって、洗礼を受けたのだから神は何とかしてくれそうなものではないか、というような、まるでふてくされて居直ったような言い方であります。……これらすべてのことに共通なことは、神の約束ということであります。律法であれ割礼であれ洗礼であれ、それらを生かすものは神の約束であります。神が救いの約束をしてくださったからこそ、これらのことは意味があるわけであります。その約束の内容は、約束する者が定めるのであります。それを受ける者が、これを信仰を持って受け、これを恵みとして受けるのでなかったなら、全く空しくなることは、イスラエルの長い歴史が証明しているとおりであります。そして、今日の信仰者の生活の中でも、絶えず経験していることであります。(242~44頁)

<第二分冊> ローマ書4章9~12節
  • 洗礼は何のためにあるのでしょうか。割礼を受けると同じような意味で、洗礼さえ受ければ救いは受けられる、と考えるのは間違いでしょう。洗礼は、ここの言葉で言えば「信仰によって受けた義の証印」<11節>でありましょう。キリストの恵みを受けたことが確認されるのであります。しかし、もしそれが内容を失ったらどうでしょうか。信仰が忘れられて、洗礼を受けているから自分はアブラハムの子である、と考えたらどうでしょうか。そうなれば、洗礼も割礼と同じように我々に益をもたらすことはなく、かえって害を与えることになりましょう。我々を支える信仰が日ごとに新しいものとなる時に、洗礼は、神の確かな契約のしるしとなるのであります。(48頁)

本書は現在、少し値が張るものの、オンデマンド版として入手できます。各説教の冒頭には、とりあげる聖書箇所の言葉がすべて記されていて、電車内で立って読書することの多い私には、とてもありがたい作りです。

JELA理事
森川 博己

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2019年8月1日木曜日

【続・信仰書あれこれ】ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉

土居健郎・森田明=編『ホイヴェルス神父――信仰と思想』(聖母文庫、2003年)をとりあげます。

編者のひとりである土居健郎氏は、「甘えの構造」で有名なクリスチャン精神分析学者です。以前のこのシリーズで、同氏の講演集『甘え・病い・信仰』をとりあげています。


JELA理事・森川博己


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本書は、ヘルマン・ホイヴェルス神父と親交のあった何名かの方たちによる思い出、神父自身の多様で気の利いた言葉の数々、そして、日本に長く滞在された神父の日本人に対する考え方、の三部構成になっています。


以下では、神父自身の興味深い言葉のほんの一部をご紹介します。
  • 19世紀のある思想家は永遠の存在は退屈であると言ったが、それは愛を知らないからである。愛は退屈しない。(70頁)
  • 世の中の宗教は救いの宗教である。しかしなぜ救いの宗教であるかを、キリスト教だけが知っている。Schelerは面白いことを言った。「ギリシャ・東洋の理想は賢人である。神の理想は幼児である」。(72頁)
  • 偶像について――エジプト人が本当に牛などを神と考えたわけではない。彼らは象徴的な意味を解していた。しかし次第に象徴を本物と間違えるようになる。かくして心理学的には手段はいつの間にか目的と同一視されるに至る。(95頁)
  • 神を知ることはある程度哲学でも可能、しかし神に向かって出発するのは恩寵による。知ること、信ずること、従うことの間には〔跳び越えねばならぬ〕堀がある。(98頁)
  • 祈りとは神となつかしく交際することです。(101頁)
  • 祈りの基本は――自分の分かる範囲で、子供の心で神に信頼して、「神よあまりひどいことをしないでください」と祈ること。(101~2頁)
  • 宗教くさいのはよくない。下手な美術家のようなものです。いくらおいしいからといって、アイスやプリンばかりいつも食べているのは健康でないのと同じです。(102~3頁)
  • 信仰は教理のかたまりではない。あふれるようなもの、音楽のようにオールラウンドで心の隅々までうるおしてくるものである。(103頁)
  • 信仰は私たちから創るものではない。神のプレゼントです。だからあまり深く考えなくていい。神がなつかしくなればいい。(103頁)

ドイツでキリスト教生活を過ごした神父は、宣教師としてそれを日本の風土の中でどのように伝えるべきか悩まれたようで、以下にその思いが見て取れます。
  • ……日本人の心に紹介されるべきキリスト像に関して、私どもはもっと懸命に研究する必要があるでしょう。それには、ヨーロッパ的装飾(ヨーロッパの垢といった方が正しいかもしれませんが)を洗い落とさねばならないでしょう。ヨーロッパ的習慣と堅く結びついたキリスト教の姿は、多分しばしば日本人の単純直截な思考法や、美的宗教感情に受け入れがたいものがあるのではないでしょうか。真理でも霊でもない贅肉を捨て、啓示をもっと浄化し、人の心に直接射し込む光として備える必要があると思うのです。(136~7頁)

本書冒頭の「神父の人と生涯」(8~20頁)で、神父の盟友だったブルーノ・ビッター氏が次のような事実を記しています。
  • ホイヴェルス神父は1890年8月31日ドイツのウェストファーレン生まれ。来日は1923年の関東大震災のちょうど一週間前。
  • 1975年8月31日、85歳の誕生日にホイヴェルス神父本人からビッター氏が聞いた話によると、53年間の日本での宣教活動の間に神父から洗礼を受けた信者は3000人。神父は誇張してものを言わない人だったので、その数はさらに多い可能性がある。
  • 神父は1977年6月9日正午ごろに日本で永眠。6月14日午後1時から四ツ谷の聖イグナチオ教会で行われた葬儀ミサの参列者は2500人以上。参加者の心を大きく揺さぶるミサであった。
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2019年7月12日金曜日

【続・信仰書あれこれ】聖書を伝える極意

「信仰書あれこれ」(100件分) につづく「続・信仰書あれこれ」の第1回として『聖書を伝える極意――聖書はこうして語られる』(平野克己監修、キリスト新聞社、2016年) をとりあげます。

季刊誌『ミニストリー』(キリスト新聞社)の「シリーズ・日本の説教者」12回分と、『キリスト新聞』掲載のひとつの記事をまとめたものです。

以下では、雨宮慧氏 の話をとりあげます。NHKの「こころの時代」やキリスト教専門ラジオ放送・FEBCなどメディア出演も多く、カトリック神学界をけん引する神父のひとりです。

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あくまで聖書に固着すること(164~65頁)
  • 「カトリック教会では以前から『こうしなさい』『ああしなさい』という説教が多かったのですが、それが私にはどうしてもだめで……。あるドイツの学者が『福音とは、我々が神のために何をすべきかということについての知らせではなく、神が我々のために何をしたかという知らせだ』と言っていて、確かにそうだと」。
  • 「聖書が最も嫌っているのは偶像です。偶像というのは結局、人間の願望の投影ということになります。そういうものではなく、神のことばを聞きたいというのが私の興味なんです。ですから、この文章はこういう成り立ちと構成になっているという話になるわけです。聞いてくださる方の生活や環境はみんな違うわけですから、私がひとつの体験を押しつけるのではなくて、聖書のことばを聞いてくださった方が何かを考えるというのが筋なんじゃないかと思います」。

ピンチをチャンスととらえ、じっくりと腰を据えて(170~71頁)
  • 今日のカトリック教会が抱える課題は、他のプロテスタント諸教会とほとんど変わらない。献身者が少ない。神学を教えることのできる人材が育っていない。大学を維持するためには定員を増やさざるを得ず、増やせば神学に興味のない学生も入ってくる。おのずと、神学生を育てるという雰囲気は希薄になる。教会の現状も厳しく、地方はもちろん、東京でさえ共同司牧が必要なところが生まれている。「でも、かえってチャンスかもしれません。今まで神父に頼り切っていた信徒たちが、これではだめだと考え、努力を始めています」。
  • 「疲れ果ててしまっている神父が多いような気がします。どうせじたばたしたって、どうにもならないことはどうにもならない。あわてずに腰を据えて神のことばにしっかりと聞く訓練をしたほうが、力が出てくるんじゃないかと思います。行動すれば、確かに手っ取り早い感動は得られますが、長持ちしません」。

聖書が分かるようになるには(173~74頁)
  • 「その世界に入り込むことができれば、意味も理解できる。昔のものといって避けずに読むことが大切」と雨宮は言う。
  • 「……詩編 が今日的意義を持っているとすれば、子どもの時に誰もが知っていた、絶対的な庇護者を求める心を思い出させるということなんじゃないでしょうか」。
  • 「聖書を理解するためには、頭がいいかどうかはあまり関係ないと思うんですよ。別の何かが必要で、それが育ってくると分かったということになる。そうでないと、私も大学の時はそうでしたが、話としては分かるけど、それが何だという感じ。そのズレをどう埋めるか、どう待ち続けるかということなのかなと思います」。


本書には他に、日本基督教団 ・キリスト改革派 ・ホーリネス ・福音ルーテル ・聖公会 ・日本キリスト教会 ・単立 といった多彩な教派の代表的教職者が登場します。

JELA理事・森川博己

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