2018年3月7日水曜日

【信仰書あれこれ】信仰の真の豊かさを味わうために


わくわくする内容ですが、ある人にとって著者の指摘は、いくぶん過激に映るかもしれません。それは、こんな風に始まるからです。

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  多くのクリスチャンは、信仰の与える豊かさを知らずにいます。イエスは天の御国を高価な真珠にたとえられました。すべてを売ってでも手に入れる価値のあるものです。……問題は、この真珠が、その不可思議な喜びを十分に味わえない、豚も同然の私たちの前に放り投げられたことです。私たちはその美しさを享受できず、その価値を理解できていません。……私たちのほとんどは、キリスト教の表面をこする以上のことをしません。そして、福音との表面的な出会いを、全面的な福音を代表しているように思いこんでいます。本書は、そこからさらに深く掘り下げようとしています。キリスト信仰に近づく、素朴な方法に満足できない人々のために著されました。(1011頁)

著者自身、福音との「表面的な出会い」に満足できず長年苦しんでいました。教理を理解はするものの、聖書の出来事を十分に味わってはおらず、信仰の豊かさを知らず、霊的深みに至らなかったというのです。それが、中世に書かれた一冊のキリスト教書と出会い、それにもとづく実践を経て、霊的に整えられるとはどういうことかを悟ります。本書は著者が採用した実践方法を具体的に示すものです。とても有益な例が随所に見られます。

キリスト信仰について深く掘り下げ探求したい人、言い古された浅薄な説明にうんざりしている人、クリスチャンとしての霊性の深まりを得たいと思っている人に勧めます。

ちなみに、霊性について著者は次のように定義します。
  霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いの経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの信仰の内面化に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。(17頁。下線著者)

本書のキーワードは「理解より黙想」です。著者は、聖書を読む際に、読者が物語へ自己を投入する必要を唱えます。イエスの生と死についての福音書の箇所を読む場合も、そこに書かれた内容を、知的に理解しようとするにとどまらず、その場面を何度も黙想し、自らが登場人物の一人となって、その場の空気を味わい、周囲の人間の思いを現実世界のそれと同じように感じ取ろうとし、自分が演じようと定めた登場人物の一人の感情も、まるで今その場にいるかのごとくリアルに表出しようと試みる(黙想する)のです。

本書の手法のポイントとして著者があげるのは次の三点です。
    一つの聖書箇所をイメージする際、一息入れて、その箇所が心に絵を描くまで待つことが不可欠です。そのイメージの世界に入らなければなりません。自らをそのイメージに投射し、その一部になることで、その豊かさ、そこに意味されているものを経験する必要があります。(本書29頁。下線著者)
    福音書にある物語を読む際、その物語の中に入り、この世の救い主を証言する人たちの傍らに立たなければなりません。福音書の物語を、それが今起こっているかのように黙想する必要があります。(同上)
    聖書の概念テーマに関わる際、理解するだけでは不十分です。生活に適用する必要があります。そのことによってそれは抽象的な生命のない観念ではなく、実践された現実となります。キリスト教とは、概念だけに関する物ではなく、霊的リアリティーの変化に関係するものなのです。(本書2930頁。下線著者)


さあ、この本とともに「信仰の旅路」を歩みませんか。


JELA事務局長
森川 博己

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