モンゴメリ著『赤毛のアン』(松本侑子訳、2000年、集英社文庫)を数年前に読んで感動しました。村岡花子の訳が有名ですが、『赤毛のアンの幸せになる言葉~人生が輝く生き方~』(松本侑子著、2014年、主婦と生活社)を事前に読んでいたこともあり、私は松本侑子訳で楽しみました。
以下、『赤毛のアン』の心に響く場面をいくつかご紹介します。
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アンは赤ん坊の時に両親と死に別れた孤児で、兄弟も親戚もいない天涯孤独の身。引き取り先はマシューとマリラという、田舎でひっそりと暮らす熟年の独身兄妹です。仕事の助けになる男の子を希望したのにアンをあてがわれ、マリラは孤児院に返そうとするのですが、マシューの口からは思いがけない言葉が出てきます。とてもキリスト教的です。
・ 「あの子を引き取るのは、やっぱり難しいかのう」
「当たり前ですよ。あの子が私たちの何の役に立つんですか」
「でもなあ、わしらが、あの子の役に立つかもしれないよ」(本書49頁)
アンとの生活が深まるにつれマリラの胸に母親のような愛情が湧いてきますが、それに浸るのではなくアンを厳しくしつけようと懸命です。天衣無縫のアンはそんなことにおかまいなく、思ったままを口にします。その一言が意味深長です。
・ 「いい子でいれば、いつでも幸せなんですよ、アン。そうすれば、お祈りの言葉を唱えるのも難しくありません」
「お祈りの言葉を唱えることと、祈ることは、厳密には違うわ」(112頁)
祈りについて、アンはこんなことも言います。
・ 「私は、アランさんが牧師に決まって嬉しいわ。お説教も面白いし、それに、習慣だからお祈りするんじゃなくて、心からなさるもの」(247頁)
アンの瑞々しい感性は物語の大きな魅力です。
・ 「なんて素敵な日でしょう!」アンは深々と息を吸い込んだ。「今日のような美しい日に生きているなんて、それだけで嬉しいわね。まだ生まれていない人は、今日という日を逃してしまうから気の毒だわ。もちろん、その人たちも、いつかは素晴らしい日にめぐりあうでしょうけど、今日という日は絶対に味わえないもの。それに、こんなにきれいな野山の道を抜けて学校へ行くなんて、なおさら素敵だわ」(150頁)
親友ダイアナの叔母さん宅で四泊した後、家に戻る時のアンの喜びようが次のように描写されます。(下線、森川)
・ 帰り道も、往きと同じくらい楽しかった。― いや、もっと楽しかった。たどり着く先に我が家が待っていると思うと、嬉しくてたまらなかった。(中略)「ああ、生きているってなんて素敵、そして家に帰るってなんて素敵なんでしょう」アンは吐息を漏らした。(中略)「ただいま、マリラ。家に帰るって、とってもいいものね」アンは喜びに満ち満ちて言った。(中略)夕食の後、アンは暖炉の前でマシューとマリラに挟まれて座った。そして、この遠出のことを何から何まで話して聞かせた。「とにかく、素晴らしかったわ」最後に、アンは満足そうに言って締めくくった。「一生忘れられない思い出よ。でも、一番素晴らしかったのは、家に帰ってきたことよ」(342~343ページ)
家に帰ることの素晴らしさを四度も繰り返しています。私はここを読みながら、「家」が「天のみ国」のように思え、神に結ばれている限り、最後には「天のみ国」に帰り、神と共に永遠にやすらぐことができるのだ、という喜びが湧いてきたものです。
JELA事務局長
森川 博己
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