2019年7月12日金曜日

【続・信仰書あれこれ】聖書を伝える極意

「信仰書あれこれ」(100件分) につづく「続・信仰書あれこれ」の第1回として『聖書を伝える極意――聖書はこうして語られる』(平野克己監修、キリスト新聞社、2016年) をとりあげます。

季刊誌『ミニストリー』(キリスト新聞社)の「シリーズ・日本の説教者」12回分と、『キリスト新聞』掲載のひとつの記事をまとめたものです。

以下では、雨宮慧氏 の話をとりあげます。NHKの「こころの時代」やキリスト教専門ラジオ放送・FEBCなどメディア出演も多く、カトリック神学界をけん引する神父のひとりです。

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あくまで聖書に固着すること(164~65頁)
  • 「カトリック教会では以前から『こうしなさい』『ああしなさい』という説教が多かったのですが、それが私にはどうしてもだめで……。あるドイツの学者が『福音とは、我々が神のために何をすべきかということについての知らせではなく、神が我々のために何をしたかという知らせだ』と言っていて、確かにそうだと」。
  • 「聖書が最も嫌っているのは偶像です。偶像というのは結局、人間の願望の投影ということになります。そういうものではなく、神のことばを聞きたいというのが私の興味なんです。ですから、この文章はこういう成り立ちと構成になっているという話になるわけです。聞いてくださる方の生活や環境はみんな違うわけですから、私がひとつの体験を押しつけるのではなくて、聖書のことばを聞いてくださった方が何かを考えるというのが筋なんじゃないかと思います」。

ピンチをチャンスととらえ、じっくりと腰を据えて(170~71頁)
  • 今日のカトリック教会が抱える課題は、他のプロテスタント諸教会とほとんど変わらない。献身者が少ない。神学を教えることのできる人材が育っていない。大学を維持するためには定員を増やさざるを得ず、増やせば神学に興味のない学生も入ってくる。おのずと、神学生を育てるという雰囲気は希薄になる。教会の現状も厳しく、地方はもちろん、東京でさえ共同司牧が必要なところが生まれている。「でも、かえってチャンスかもしれません。今まで神父に頼り切っていた信徒たちが、これではだめだと考え、努力を始めています」。
  • 「疲れ果ててしまっている神父が多いような気がします。どうせじたばたしたって、どうにもならないことはどうにもならない。あわてずに腰を据えて神のことばにしっかりと聞く訓練をしたほうが、力が出てくるんじゃないかと思います。行動すれば、確かに手っ取り早い感動は得られますが、長持ちしません」。

聖書が分かるようになるには(173~74頁)
  • 「その世界に入り込むことができれば、意味も理解できる。昔のものといって避けずに読むことが大切」と雨宮は言う。
  • 「……詩編 が今日的意義を持っているとすれば、子どもの時に誰もが知っていた、絶対的な庇護者を求める心を思い出させるということなんじゃないでしょうか」。
  • 「聖書を理解するためには、頭がいいかどうかはあまり関係ないと思うんですよ。別の何かが必要で、それが育ってくると分かったということになる。そうでないと、私も大学の時はそうでしたが、話としては分かるけど、それが何だという感じ。そのズレをどう埋めるか、どう待ち続けるかということなのかなと思います」。


本書には他に、日本基督教団キリスト改革派ホーリネス福音ルーテル聖公会日本キリスト教会単立 といった多彩な教派の代表的教職者が登場します。

JELA理事・森川博己

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【関連リンク】 
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

2019年3月25日月曜日

【信仰書あれこれ】祈りを求めて


イェルク・ツィンク著『祈りを求めて』(三浦安子訳、1994年、ヨルダン社)をとりあげます。『現代への祈り――今日を生きる断想と詩編』(1977年、ヨルダン社)を改定した新版の上巻にあたります。

訳者あとがきによると本書の目的は、「いかにして日々の生活の中で祈りを――それは神の前における自己を、ということなのですが――取り戻すことができるか……祈りを基礎とした生活、祈りの中で静かに、しかも確固として営まれていく日常はどうしたら可能か」(183頁)を追求することです。

本書のエッセンスのいくつかを以下に引用します。

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祈りは覚悟のある人を求めている
  • 祈りは、可能な限り自分を直そうと覚悟している人、そして、課題が自分の能力を凌駕していると気づくや否や、自分の方を変えていただこうと覚悟している人を求めています。この、あるものを変える力。これが肝心なものですが、この力を私たちは神の霊と名付けます。これは神から来る、創造の力を持つ霊です。(39頁)

成長のしるし
  • ある人は祈りの時、何も頭に浮かんでこないと嘆きます。ずいぶん何度も試みたけれど祈りの相手が感じられない、ただ言葉を唱えているだけだ、と言うのです。事実、彼は祈ろうとするとき、自分の感覚一般は何と貧しく何と未発達なのだろう、と思えてくるのです。しかし、このことはすでに何かが成長しているしるしなのです。というのは、たいていの人間は生涯、自分の内部で起こっていることがいかに貧しく、いかに不毛かということを見もしないからです。(中略)成長とは、最初は私たちの内部で偉大なものが偉大になり、役に立たないものが不要になることであり、私たちが、それを目標とし始めることです。偉大なものに向かって体をのばし些細なものを手放す人間は、成長しているのです。(43~44頁)

キリスト者としての謙虚さの現れ
  • 謙虚な人間は……自分自身を測る尺度を自分では決めず、より大いなる存在から受け取ります。この人がキリスト者である場合は、キリストに接してこの尺度を受け取るわけです。……謙虚な人は、あれこれのタイプの人間になろうと企てたりせず、他の誰かが自己形成したその原型に従って自己形成します。……彼は、別の誰かが自分を知っていてくださることに信頼し、自分の手元にやってくる仕事に励み続けるのです。(48頁)

本当に祈る時に起こること
  • 本当に祈る人は、自分自身に関するあらゆる顧慮から解放されます。祈りは自分の魂をさほど大事ではないものとし、私たちの身の回りにいる人々をずっと大事にします。(中略)本当に祈る人は人間を見出し、自分が気にしている人々の中にキリストを見出します。(84頁)

教会の基礎と祈り
  • 教会の基礎はキリストの声と姿です。その姿はルターが言うように、ある人間が別の人間に対してキリストである時に目に見えるでしょう。教会にとってただ一つ大事なことは、教会が肉のキリストの、この地上での共同体であるということです。そして、祈るとは、この肉のキリストの中で具体的に生きることを意味します。(85頁)

頼みごとの祈りに求められる姿勢
  • 祈りが聞かれるということは、必ずしも私たちの望みが叶うことなのではなくて、私たちが神の存在と神の意志を感知し、私たちが以前より神のそば近くにいるのだと感じられるということなのです。……頼みごとの祈りが意味を持つのは、絶えず自己を統御しながら神の臨在の中へと成長していき、自分自身の意志と神の意志とを結合させるという、一生にわたる大きな努力の内部においてです。……「イエスの名において」頼みごとをするとは、イエスを証人として引き合いに出すことであり、イエスの意志と和合することであり、イエスの業と一体となること、イエスが私たちの立場に立って同じ頼みを口にできるように、私たちがイエスの立場に立つことです。(153~54頁)

人生の終わりの祈り
  • 私はかつて、自分の人生が終わりなく続くと思っていました。しかし、一刻一刻が私の終焉へと私を近づけます。どうか、私に私の死の時の準備をさせてください。(中略)多くの混乱を、私は過去に置き去りにしてきました。多くの争い、愛のない数々の仕打ち、心の冷たさを。どうか私の罪を赦し、すべての人々を赦す時間を、私に与えてください。(159~60頁)

イエルク・ツインク氏は2016年に生涯を閉じました。彼が死の前年に著した本の和訳が最近出版されました。『わたしは よろこんで 歳をとりたい』(眞壁伍郎訳、2018年、こぐま社)です。きれいな写真を多数配した滋味深い作品であり、推薦いたします。

JELA理事
森川博己

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2019年3月5日火曜日

【信仰書あれこれ】惜しまれる生き方


デイヴィッド・ブルックス著『あなたの人生の意味――先人に学ぶ「惜しまれる生き方」――』(夏目大訳、2017年、早川書房)をとりあげます。

表紙折り返しに以下の記述があります。
  • ニューヨーク・タイムズ≫の名コラムニストが10人の生涯を通して語る、生きるための道しるべ。
  • 人間には2種類の美徳がある。「履歴書向きの美徳」と「追悼文向きの美徳」だ。つまり、履歴書に書ける経歴と、葬儀で偲ばれる個人の人柄。生きる上でどちらも大切だが、私たちはつい、前者ばかりを考えて生きてはいないだろうか?
  • アイゼンハワーからモンテーニュまで、さまざまな人生を歩んだ10人の生涯を通じて、現代人が忘れている内的成熟の価値と「生きる意味」を根源から問い直す。
  • エコノミスト≫などのメディアで大きな反響を呼び、ビル・ゲイツら多くの識者が深く共鳴したベストセラー。

著者はこの本を、「自分の心を救うために書いた」(本書13頁)と言っています。以下に中身の一部をご紹介します。

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人生からの問いかけに応える
  • 「大事なのは、私たちが人生に何を求めるかではない。人生が私たちに何を求めるかだ」。フランクルはそう書いている。「私たちは、人生の意味は何か、と問うことをやめるべきだ。反対に、人生の方が日々、絶えず私たちに問いかけているのだ」。……彼は運命が自分に与えた仕事をした。その任務とはより良く苦しむことだった。……苦しみがどれほどのものになるのか、彼に決めることはできなかった。ガス室で命を落とす可能性もあったし、他の理由で死んで道端に捨てられる可能性もあった。自分がどういう目に逢うのかは選べなかったが、自分の心が苦境にどう反応するかは自分で決めることができた。(51頁)

天職のとらえ方
  • アルベルト・シュヴァイツァーは、1896年夏のある朝、聖書の「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うだろう」という一節に出会う。その瞬間、彼は呼ばれていると分かった。自分は成功していた音楽教師、オルガン奏者としての職をなげうって医療の道に進む、ジャングルの医者になると悟ったのである。天職を持つ人は、費用対効果分析の結果、その仕事に取り組むわけではない。公民権運動や難病の治療に身を捧げるのも、人道組織の運営や、大作小説の執筆に全力を傾けるのも、それで得をするからではない。……損得で仕事をした場合、行く手に困難が立ちはだかれば、その仕事をやめてしまうはずだ。ところが、天職に取り組む人は困難があるほど、その仕事に強く執着する。(55頁)
  • 道徳のために闘う英雄は、自らの名誉のことだけを考える人間とは違う。彼らの行動は自己の否定から始まる。彼らは自分の利益や名誉を否定し、辛く苦しい天職を受け入れ、与えられた仕事を全うする。彼らの行動は単に慈悲心からのものでもないし、自己満足のためのものでもない。他人のために自分を犠牲にしたという善行に酔っているわけではないのだ。それでは、英雄的な行動は長続きしない。良いことをしているという意識があってはいけない。自分は天から贈り物をもらっていて、それをもらったお返しをするために動いている、という意識でなければならない。(62頁)


誰のためにそれをするのか
  • ある人が貧しい人に靴をあげるとする。これは、貧しい人本人のためにすることなのか、それとも神のためにすることなのか。フランシス・パーキンズは、神のためにすべきだと考えた。たとえ物をあげても、もらった側が感謝するとは限らない。もし、相手の感謝を報酬のように感じていれば、感謝されなかっただけでくじけてしまう恐れがあるだろう。だが、その人のためではなく、神のためだと思っていれば、相手の態度によってくじけることはなくなる。(88頁)

自分から機会を求めて
  • ドロシー・デイが普通と違うのは、たまたま苦しい経験をして「しまった」のではなく、自ら求めていったというところだ。ごく普通の楽しみ、幸せを得ようとすればできたかもしれないのにわざわざ避けて、自分で苦しみを求めた。自分を犠牲にしても道徳的に振る舞う機会、苦しみ耐えながら他人に奉仕する機会を探して生きた。(169頁)

本書では他に、ジョージ・マーシャルジョージ・エリオットアウグスチヌスサミュエル・ジョンソンなどの人生が、キリスト信徒としての著者の視点から綴られています。

JELA理事
森川博己

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2019年2月1日金曜日

【信仰書あれこれ】福音をストレートに語る力強さ

竹森満佐一著『講解説教・ガラテヤの信徒への手紙(竹森満佐一選集)』(1991年、新教出版社)をとりあげます。

著者は、日本キリスト教団吉祥寺教会を50年にわたり牧会しつつ、東京神学大学学長やドイツのハイデルベルク大学客員教授などを務められました。その説教がいかに素晴らしかったか、本書を読めばわかります。

以下で著者の福音理解の真髄を少しご紹介します。

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救われた者の生活
  • 自由になるように、ということで神の救いにあずかったのでありますが、自由は、自分勝手なことをして、肉の力に支配されることではないのです。それは、実際には、愛によって互いに仕える生活です。……このような生活はもちろん、教会の中においてまず行われるべきものであります。互いに重荷を負う生活であります。それによって、まことの教会生活が充実したものになるのであります。それはただ、主イエス・キリストの十字架のみを誇りとする生活であります。(15頁)

福音を語れるための条件
  • 信仰者にはみな、福音を語る責任があります。それが、伝道するということであります。……この福音によって救われたと確信しているからであります。そうでなければ、福音を福音として語ることはできません。自分が今生かされているのは、この福音によることを信じていることが、絶対に必要なのであります。そうでなければ、福音を福音として語ろうという気になれないのです。(18頁)

自分が救われたときに福音の真理性が理解できる
  • キリストの復活は、神がキリストによって罪と死に勝たれた、ということであります。そのことによって我々は、神がキリストの父であり、また、我々の父であることを信じることができるようになったのです。それは、自然や我々の周囲を見まわして、神は父であるらしいと考えるようになることとは、全く違うのです。そうではなくて、キリストの十字架と復活ということによって、自分が救われることによって、キリストを復活させられた神こそまことの父である、と信じるようになることです。それは、そういう考え方ではなくて、自分の救いという事実によって知るようになった真理なのであります。(20~21頁)

自分が罪人であることは神によらなければ分からない
  • 自分の罪を認めることは、こういう欠点があるとか、弱さがある、ということではありません。……そうではなくて、自分は罪人であることを知ることです。自分は全く神に背いていることを知ることであります。……救われねばならないほどの罪人であることが分からない人には、キリストが何をしても無駄であります。……罪のことも、キリストを通して神から示されなければ、本当には分からない……。(36~37頁)

福音はキリストとの生きた関係もたらす
  • キリストの福音というのは、ただ、キリストによって与えられた福音ということだけではなく、キリストが働く福音である、ということであります。福音はただの教えではありません。福音は紙に書かれたもの、聖書に書いてあるものではありません。……福音を信じて生きるのは、キリストが今一緒にいてくださって、働いておられることを信じることであります。ただの教えや信じることの内容ではなく、これを信じる者は、キリストが共に働いてくださるという、キリストとの生きた関係を持つことなのであります。(52~53頁)

神の恵みは奇跡そのもの
  • 人間には、神の恵みぐらい分からないものはありません。……恐らく一番大事なことは、神の恵みが奇跡であることが分かっていないからであります。……神の恵みが行ったこと、パウロのような律法にしがみついていたパリサイに、十字架の信仰を受け入れさせたということこそ、まさに奇跡的事件ではありませんか。……そのことは、パウロの場合というように、他人事のように言うのは間違いであります。……自分のような者がこうして救われた事実を考えると、それはまさに奇跡ではありませんか。十字架による信仰が生まれるたびに、我々は、そこに、神の奇跡を見る思いがします。それが神の恵みなのです。(93頁)

信仰生活の目的
  • 教会の中では、みんなと楽しくすることだけが大切なのでしょうか。そうではありません。本当は信仰生活は孤独なものであります。最後には、神と自分だけの生活であります。……教会生活のゆえに一層よく祈れるようになるということは、誰でも望むことです。しかしそれは、神と自分だけの生活をさらに確かにすることではないでしょうか。もしそうでなかったら、共に信仰生活をすることには、意味がありません。(105頁)

本書では、ガラテヤ書の前半の半分ぐらいが20回に分けて語られています。途中で著者が召天したため未完なのが残念ですが、いずれの説教も大変充実したものです。

JELA理事
森川博己

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【関連リンク】

2019年1月24日木曜日

【信仰書あれこれ】ルターの言葉


本書は「信仰」「みことば」「経験」「自由」「人の心」の五章からなり、折々のルターの告白の言葉、神学的思索の表現、洞察や体験の言葉、困難を乗り越えて体験した言葉が掲載されています。

以下では、「信仰」の章から、いくつかの言葉をご紹介します。冒頭に出典となる文献名、引用文最後の括弧書きは、本書『ルターの言葉』の中での頁数です。

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『すべてのキリスト者が騒乱や謀叛に対し用心するようにとのマルティン・ルターの真実の勧告』1523年より
  • 私は、人々が私の名を語らず、ルター派などと言わずに、自分は一人のキリスト者であると言ってほしい。ルターとは何者なのか。その教えは私のものではないではないか。また、私は、誰のためにも十字架につけられていない。……いったいどうして、憐れな鼻持ちならぬ蛆虫の袋である私が、キリストの子たちを私の卑しい名で呼ばせることなどできるであろうか。……私はけっして人の主人ではなく、またそうなろうとも望まない。私は教会の会衆と共に、唯一の我々の主であるキリストの、唯一で公同の教えを持っているのである。(14~15頁)
『ローマ書序文』1522年より
  • 信仰は私たちの内における神の働きである。この働きが私たちを変え、私たちを神によって新しく生み出し<ヨハネ福音書1:2>、古いアダムを殺し、心、勇気、感覚およびあらゆる能力を持つ、まったく別の人へと私たちを造り変え、聖霊をもたらす。まさに、信仰とは、生きた、勤勉で活動的、強力なものであるから、絶え間なく善いことをしないわけにはいかなくなる。また、信仰は善い行いをなすべきかどうかを問わず、人が問う前にすでに行っており、いつでも行うのである。このように行わない人は、信仰のない人であって、信仰と善い行いを求めてうろうろ歩き、周囲を見回すが、何が信仰で善い行いかも分からず、それでも、信仰と善い行いについて、多くの言葉をぺらぺらとしゃべり散らすのである。(17頁)
  • 信仰とは神の恵みに対する、生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。神の恵みへのそのような信頼と認識が、神に対して、すべての被造物に対して、人を喜ばしく、大胆で、快活にさせる。これは、聖霊が信仰において行うのである。そこで、信仰は、強制されることなく自ら進んで、誰にも善いことをなし、誰にも仕え、あらゆる事に耐え、彼にこのような恵みを示した神に愛と賛美を捧げる。火から炎と光を分けることができないように、信仰から行いを切り離すことは不可能である。(17頁)
『待降節説教集』(年不詳)より
  • あなたの救いは、キリストが信心深い人にとって一人のキリストである、ということにあるのではない。キリストはあなたにとって(たった)一人のキリストであり、この方があなたのキリストであるということに、あなたの救いがあるのだ。この信仰は、あなたにキリストを慕わせて、心やさしい思いを生み出す。そこで、強制されなくとも、愛と善い行いがその後に伴っていく。しかし、そのような結果にならないなら、きっと信仰がそこにないのである。なぜなら、信仰があるところ、そこには聖霊もいて、愛と善とを私たちの内に生じさせるはずだからである。(23頁)
『二種陪餐について』1523年より
  • あなたはルターの弟子ではなく、キリストの弟子でなくてはならない……。あなたが「ルターや、ペトロ、パウロがこう語った」と言うのではなく、あなたは、キリストご自身をあなた自身の良心に感じとり、全世界がこれに敵対しようとも、揺るぎなく、これが神の言葉であると確信していなければならない。あなたがこれを自覚していないなら、あなたはきっと神の言葉をまだ味わったことがなく、また、その耳を人の口やペンに向けていて、心の底からみことばに固着していないのである。(27頁)
『ヨハネ福音書第14、15章による説教』1537~38年より
  • そこで、あなたは理解する。神を信じるということは、つまり、悪魔やこの世の作り出すすべてのもの、貧困、不幸、恥辱、罪などに挫けない寛容な心を持つようになることなのである。(29頁)
上記には比較的分かりやすい言葉を引用しましたが、本書には難解な表現も数多く見られます。じっくりと時間をかけて読まない限り、ルターの表現意図を取り違える可能性があること、ご注意いたします。

JELA理事
森川博己

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2018年12月4日火曜日

【信仰書あれこれ】自伝的説教論


加藤常昭著『自伝的説教論』(2003年、キリスト新聞社)をとりあげます。

本書発行時点で著者は74歳。その人生のほぼ半分、38歳までの歩みを記したものです。

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自分の趣味と牧師の務めとの関係
  • 今でも自分が最も愛しているのは、やはり演劇であると思っている。ただそれだけに芝居を観に行くことを自分に禁じている。往き始めたらとことん観ないと気が済まない性癖が、日常の生活を破壊しかねないと危ぶんでいるからである。(84~85頁)
  • 歌うことと説教することとは同じだと思う。歌もまた人の心に訴え、動かし、説得する。それは単なる技巧ではなく、内面から生まれる力である。(88頁)
  • 詩は本来、そのまま朗唱された。その言葉の響き、抑揚が生かされた曲こそが優れており、それをそのように歌う。言葉、そのリズム、それに自然に結びつく音楽、それを自分の歌として体得すること、その修練は、言葉を語り生かす説教のために、どれだけ役立ったことであろうか。説教の言葉も生きた言葉として語られ、聞かれるべきものなのである。(92頁)

説教についての学び
  • (神学校)最終学年で……説教実習をした。……私は、ローマの信徒への手紙第1章17節について説教させられた。……実際に語った時の原稿が残っている。批評の言葉が加えられている。そのひとつは、ルターとニグレンの引用が重要なところで用いられていることである。なぜ大切なところで、権威あると思われる神学者の引用に逃れて、説教者自身の言葉でメッセージを語ろうとしないのか、という批判である。これは、痛烈な批判である。忘れることができない言葉となった。(156頁)
  • 私は……全文を書いてからメモを作るという説教学の教えを守らなかった。そうすると一度書いた文章を再現することに心を奪われるように思った。そこで、メモを書くだけで、あとは自由に語るようにした。メモには、説教を語る順序、そこで語るべきことの要点、引用する文章、言及する人名、地名を書き留めておく。それ以上の詳細な表現も、いろいろ考えはするが、記録しない。……これは新しい経験であった。言葉に乱れが生じ、くどくなったりする。しかし、言葉が生きてきたことは確かであった。聴き手の反応が分かり始めた。(169頁)

キリスト教とお盆
  • 私の母は、植村正久から洗礼を受けてはいたが、その母に育てられた家には仏壇があった。毎朝、小さな器に米飯を盛って備え、灯明を灯して鉦をチンと鳴らしていた。……子どもたちは、母の行為をからかい、偶像礼拝を捨てきらないと批判した。……私も納得できず、あるとき、母にその真意を問うた。母は、こんなことを言った。……仏壇に位牌がある故人は、仏教信仰を持って死に、仏式で葬られた。死んだ後にも自分が、その信仰に従って供養されることを願いつつ死んだのではないか。それを裏切るわけにはいかない。独身時代に洗礼を受けた時、自分が結婚した後の家庭で、どれだけ自分の信仰を重んじてもらえるか、絶えず問うたそうである。……自分がキリスト者としてそう願うのであれば、他の信仰に生きた人々もまた、同じように重んじてあげたい。お前たちの代になって、仏壇が消えても仕方がないが、暫くは、こうしてあげたいのだと言ったのである。(182~183頁)

伝道を始めた頃から現在まで持ち続けている問い
  • 金沢で伝道を始めてすぐに……私の心の中に生まれた問いがある。今でも残り続けている問いである。それは、ごく素朴な問いであるとともに、教会のありようを問う基本的な問いである。(中略)教会堂に身を運び、日曜日の午前10時から昼までの時間を私たちと共に過ごし得るということ、これは自明のことではない。この場所と時間を確保するために、皆それぞれに戦っている。しかし、それができない人々には神の言葉は届かず、神の恵みは及ばないということであろうか。その上に、石川県下に教会堂もない町村はたくさんある。曜日を問わず、毎日のように集会を開いてもよいのではないか。神の救いは、日曜日午前の教会堂というところに限定されるのであろうか。伝道者である牧師は、主日礼拝に説教していればそれでよいのであろうか。すべての者に聖日厳守を求めるべきであろうか。私が抱き続けている問いは、これである。(191~194頁)

大好きな演劇鑑賞を、本来の務めをおろそかにしないために禁じているという厳しさ。最後の「問い」には、著者の伝道者魂を感じさせます。

JELA理事
森川博己

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【信仰書あれこれ】思い出の植村正久

斎藤勇著『思い出の人々』(1965年、新教出版社)をとりあげます。

著者は英文学研究の第一人者であり、植村正久に薫陶を受けたキリスト信徒です。植村正久は、内村鑑三と同時代に生き、日本のプロテスタント・キリスト教の礎を築いた巨人です。

本書には、内村鑑三、新渡戸稲造高倉徳太郎羽仁もと子など、錚々たる人物との著者の交流が記されていますが、以下では、植村正久に関する部分のみをご紹介します。

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羽仁もと子の植村正久への感謝
  • 植村に対する羽仁夫人の尊敬や追慕の心は、(彼女の)『著作集』第14巻「半生を語る」の中に記されている。「先生は……数年に渡って、毎週一度私たちの家で熱心な集まりをしてくださった。……私たちはそのおかげで、本当に唯み名を崇めるために自分たちはあるのである、唯み国を来たらせるために働くのである、ということが初めて真実、自分のいのちになったのである」。自由学園創立の動機もここにあったであろう。(50~51頁)

植村正久の働きの広さ
  • 植村正久は、富士見町教会の牧師として、東京神学社(東京神学大学の前進)の校長として、また『福音新報』の主筆として、優に三人分の劇務を全うした。しかもそのいずれもが、精力絶倫な偉人でなければ到底なし得ない大きな事業であった。彼はキリストの福音のために事を計れば必ず聡明、実行においては常に不屈不撓、日本におけるキリスト教会の基礎を据えた英傑であった。しかもそれと同時に、細心な注意と真心から出た同情とをもって、一々の魂を数知れぬほど夥しく教え育てた大牧師であった。(203頁)

植村正久と説教
  • 説教がただ文学としての価値を目安として読まれるべきものではないこと、もちろんであります。しかし、偉大な説教には文学としても不朽の価値を有するものが少なくありません。したがって文学的価値が高いということは、その説教者が文化人としても優れた功績をあげた人である、ということになります。そして植村先生は、明治から大正にかけて、我が国における最大文化人の一人であります。(228頁)
  • ある日曜の朝、この富士見町教会で私も伺った説教の初めに、「今朝は他のことを話すつもりで来たのであるが、先ほど礼拝に出て来た人の顔を見て、まったく別の違った話をする気になった」という意味のお断りがあったこともあります。そういう時は、一匹の迷える羊を思う牧者としての熟誠が自ずからほとばしり出た説教となったのであります。(231頁)
  • 1899年の『福音新報』には、説教者の心得とすべき一文が載っております。それは、リチャード・バックスターという英国清教主義牧師のことを書いた短い文章です。「彼の講壇に上るや、前進の能力と同情とを悉く注ぎだし、自らも燃ゆるばかりの熱心になりて、而して後に聴衆をも燃ゆるばかりの熱心とならしめんことを願えるという。彼自ら己が説教の状態とその目的を真率に語って曰く、……I preached as never sure to preach again, And as a dying man to dying men.……もう二度と説教する機会があるまいと思って、死にかけた人が死にかけた人たちに対してするように説教した、……先生もこの覚悟を持って命がけの説教をした方であったと思います。(231~233頁)
  • バックスターに関する文章の続きはこうです――「今日の教会において、甚だ嘆かわしく思わるるは、講壇の調子の衰えたることなり。美わしき説教や面白き説教はこれあらん。されど真に人の心に迫った悔改を促し、そのうなだれたる霊を励まし、憂い悲しめる者に限りなき慰藉を与うる力あるものは稀なり。その原因は要するに説教者自ら熱する所なく、特に主張せんとする思想を懐かず、深く罪悪と戦いてこれを悔改する経験乏しく、基督の恩寵に生活するの味わいを知らざる者多きにありと言わざるべからず。(233頁)

植村正久については十巻近い著作集や全集も出ていますが、手ごろなもののとしては、『日本の説教2 植村正久』(2003年、日本キリスト教団出版局)や斎藤勇編『植村正久文集』(岩波文庫)があります。

JELA理事
森川博己

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