2018年7月26日木曜日

【信仰書あれこれ】なぜ神学を研究するのか

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深井智朗著『信仰のメロディー』(2000年、ヨルダン社)をとりあげます。同じ著者・タイトルの冊子を本欄で2月に紹介しましたが、それとは内容がまったく異なります。

本書は二つの部分からなります。一つは、教会関係の機関誌に「信徒のための神学事典」という題で著者が連載したものです。テーマは「アブラハム/聖書/教会/ディックス/悪/信仰/ギャップの神/聖なるもの/神の像/義認/神の国/小羊/マリア/ニーバー/啓示/痛み/キエティスム/旅/冷静/神学/大学/神見/この世/ザビエル/西暦/ツィンツェンドルフ」の26。それぞれを英語かドイツ語にした場合、アルファベット順になっています。

二つ目は、著者が神学校で行った講演です。献身の呼びかけのために「なぜ神学を研究するのか」という話を、いつか神学を研究することになるかもしれない高校生や教会の信徒に向けて語ったものです。講演タイトルは「神学のメロディー」。

以下では、講演の興味深い部分をご紹介します。

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講演全体のキーワードは「驚き」です。著者はこのことについて、まず哲学を材料に論じます。古来から哲学の根本問題は「存在とは何か」を問うことであり、その問いは、「何かがないのではなく、あるということの驚き」に始まるらしいのです。以下、本書に記された例をいくつかあげます。
  • プラトン『テアイテトス』=「その驚きの感情こそが、本当に哲学者のパトスなのである。つまり哲学の始まりはこの驚きの感情より他にはないのである」(本書122頁)
  • アリストテレス『形而上学』=「けだし驚きによってこそ、人間は今日もそうであるが、あの最初の場合にも、あのように哲学しはじめたのである」(122頁)
  • ハイデッガー『形而上学とは何か』=「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、存在者が存在するという驚きの中の驚きを経験するのである」(123頁)
  • ウィットゲンシュタイン『倫理学講話』=「この体験を記述する最善の方法と私が信ずるのは、私がこの経験をするとき私は世界の存在に驚く、ということである。その場合私は、何かが存在するとはなんと不思議なことであろうとか、世界が存在するとはなんと不思議なことだろうといった言い方をしたくなる」(123頁)

20世紀最大の神学者と呼ばれたカール・バルトは、神学することの動機を問われて、次のように答えたそうです。カッコ内はスイスのバーゼル大学での彼の最後の講義を本にした『福音主義神学入門』に記されている言葉。
  • 彼は神学的に考えるとは、「まったく特別な仕方で驚かされることだ」と述べているのです。(本書124頁)
  • もし「この驚かされるということを欠くならば、たとえ最上の神学者の企てであったとしても、その思想は根底において病に侵されている」。そして逆に「どんなに劣悪な神学者であっても、その思想が彼の驚きにもとづいているならば、……その仕事はまったく役に立たないとは言えないはずだ」と言うのです。(125頁)
  • 「人は神学の健全な根幹を構成するこの驚きから解放されて神学者であることはできない」し、また「家庭器具を使う時のようにしばらくしてこの驚きに慣れてしまうこともできないはずである」と言っています。(125頁)

著者は以上のことを述べた後で、ではなぜ神学者は驚くのかに論を進めます。
  • バルトによれば神学はこの驚きを生じさせるリアリティに触れているからだと言うのです。それがバルトの言う啓示ということなのですが、バルトによれば、この啓示に触れ、驚いて神学する者は、たとえば絵画を「鑑賞する」のではなく、「絵画の中に入れられる」のであり、観客席に座って音楽や舞台を「鑑賞する」のではなく、「舞台に引き出される」ように神学すべきだ、と言うのです。(126頁)

驚きの内容に関する哲学と神学の相違と教会の神学
  • 哲学は「何かがないのではなく、ある」ということに驚いているのですが、神学は、「ないものがある」ということに驚いているのです。「私の側に救われるべき理由は何もないこの私が救われてここにある」。この驚きが神学を開始させるのです。そして、この救いのリアリティに触れた者が、それに驚き、そしてこの驚きを歌い出す、そのメロディーが神学ということになるのだと思います。(127~8頁)
  • 学問の深層にあるものは、このような驚きではないでしょうか。そのことを忘れて方法論や研究史上の諸問題に終始するのは、少なくとも教会の神学者のすることではありません。(130頁)

著者によればキリスト者がメロディーを奏でる方法はさまざまです、音楽で、説教で、詩を書くことで、絵を描くことで……しかしどの場合も、自分が救われた者としてここにあるという驚きが欠かせないということなのです。たいへん心に響く講演です。

JELA事務局長
森川 博己

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