2020年2月27日木曜日

【続・信仰書あれこれ】内村鑑三の平和論


鵜沼裕子著『近代日本キリスト者との対話――その信の世界を探る』(2017年、聖学院大学出版会)をとりあげます。

本書は、著者の論文や学会での報告などをまとめたものです。植村正久における文学と信仰、新渡戸稲造の植民地政策、賀川豊彦と悪の問題など、興味深いテーマばかりです。

以下では、戦争と平和に関する内村鑑三の考えの変遷に触れた部分をご紹介します。

◇◆◇

義戦論から非戦論へ
  • 戦争をめぐる内村鑑三の態度については、日清戦争における義戦論から日露戦争開戦時の非戦論への変節が、「劇的な転身」として広く知られている。……内村は、自分が「日清戦争義戦論」を猛省した主な理由は、日清戦争の国家目的をめぐる現実認識の誤りに気づいたためであったとしている。……同戦争を、「支那」の圧政から朝鮮を解放するための「欲に依らざる戦争」すなわち正義のための戦いであると主張した。しかしながら、日清講話条約(下関条約) の結果、同戦争が実は朝鮮をめぐる日本と清国との利権争いにすぎなかったことが明らかになったとし、略奪戦争に終わった日清戦争を義戦として支持したことを深く恥じるに至る。(52頁)
  • 日露開戦の是非をめぐる世の議論の高まりの中で、「凡て剣を取る者は剣によって亡ぶべし」<マタイ福音書26・52、内村訳>というイエスの言葉を引きつつ、あらゆる戦争を否定する態度を明確にするに至った<原文には出典が明記されている。以下「出典明記」と略記>。それは、「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である」という「絶対的非戦論」の立場であった<出典明記>。……ところでこの時期の内村は、「剣」による平和の実現には“NO”を突き付けながらも、人間の努力や英知の結果による平和招来の可能性にはまだ希望を抱いていた。(52~53頁)

非戦論の質の変化
  • しかしその後、キリスト再臨の信仰を得たことが、内村の非戦論の質に根本的な変化をもたらした。第一次大戦下における内村は、人間の力による平和実現をすべて断念して、戦争廃止の実現を、神の大能の御手の中、すなわちキリスト再臨の時に委ねるという確信に至ったのである。……ここに至ってキリスト信徒の務めは、平和運動を自己目的としてこれに関わるのではなく、再臨のキリストのために道を備えるべく平和論を唱え続けることに求められることとなる。そして、聖書に約束されたキリスト再臨のとき、すべての被造物は不朽の生命を与えられ、ここに初めて真の正義と平和が臨み、愛が人類の法則となり、創造の目的に適う完全な天地が現成するのである、と説いた。(53~54頁)
  • 人間の努力は、何事であれその実現を目指そうとするなら、すべて無益である。罪人の集合体である世界において、完全な平和の実現を望むなどということは、内村にはいわばザルで水を汲むような行為にすぎなかったからである。しかしそれでもなお人が正義の実現に向けて倦むことなく行為し続けるのは、「バプテスマのヨハネの如くに<再臨の>主のために途を備うる」<出典明記>行為だからなのである。人のあらゆる努力は、努力目標の直接の実現を目指そうとする限り意味を失う。代わってすべての行為の目的は、神と世界の関係をあるべき姿に正すことに置かれることとなり、その努力の根源的な意義と不屈の活力を獲得するのである。(73~74頁)

本書に関連した著者の書籍には、『近代日本のキリスト教思想家たち』(日本基督教団出版局) 、『近代日本キリスト者の信仰と倫理』(聖学院大学出版会) があります。

内村鑑三の著作について本シリーズでは、『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』と『後世への最大遺物』 をとりあげています。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

2020年2月14日金曜日

【続・信仰書あれこれ】聖ベルナルド から教皇への助言


聖ベルナルド著『熟慮について――教皇エウゼニオ三世あての書簡』(1984年、中央出版社) をとりあげます。

12世紀の激動する社会の中で教皇職をいかに遂行すべきか、いかなる心構えで神の前に生きるべきか等々、聖ベルナルドは信仰上の愛弟子であるエウゼニオ三世の求めに応じて、懇切丁寧に数々の助言を与えています。

◇◆◇

自分がみんなの奉仕者であることを忘れないこと
  • 預言者の模範に倣って、権威を行使することよりも、時のしるしを見極め、率先して難事に当たる者となってください。(56頁下段)
  • あなたが受け継ぐべきものは……働きと奉仕のわざであって、決して栄光や富ではないのです。(中略)司教職の称号には支配ではなく奉仕が含まれていることを、夢にも忘れてはならないのです。(57頁下段)

徳に進んでいるか否かの見極め方
  • 昔と比べて、いっそう忍耐強い者になったか、それとも不忍耐になりはしなかったか、いっそう短気になりはしなかったか、それとも柔和になったか、いっそう高慢になりはしなかったか、それとも謙遜になったか、いっそう親切な者になったか、それとも尊大になったか……神への畏れの念を持つようになったか、それとも大胆なふるまいをするようになりはしなかったか、このようなことについて大いに反省してみる必要があると思います。(74頁下段~75頁上段)

順境と逆境のときのふるまい方
  • 逆境にあっても知恵を失うことなく、正しくふるまうことのできる人は偉大な者です。しかし順境にあって有頂天になることなく、常に優しい微笑みをたたえて人に接することのできる人は、さらに偉大な者ということができるでしょう。(76頁下段)

何かを実行に移す前に考慮すること
  • 真に霊に導かれて生きる人は、……何かを実行に移す前に三つのことを考察します、まず第一に、そのことが許されていることなのか、第二に、ふさわしいことなのか、第三に、有益なことなのか、という点について考察するのです。……許されていることでなければふさわしくありませんし、許されていること、ふさわしいことでなければ有益でもないのであって、そこに例外的なものは何もありません。(102頁下段~103頁上段)

今すべきこと
  • 今あなたにできることは一つだけです。すなわち、いつの日にか「私の民よ、私があなたのためにすべきことで、しなかったことが何かあったろうか」<イザヤ5・4>と断言することができるように、この民のためにあらゆる手段を講じてみるということです。(127頁上段)

人事の要諦
  • これから要職に就くべき人を選ぶにあたって注意すべきことは次の点です。すなわち、自ら要職に就くことを望む者、あるいは喜んで承諾するような者はあまりふさわしくありません。むしろ謙虚な心から反対し、断るような人のほうがかえって適任者とみるべきです。ですからそのような人は、無理にでも説得して務めに就かせたらよいと思います。(132頁上段)

何に対して敏感であるべきか
  • キリストを失うことよりも個人的なものを失うことにいっそう敏感だというのが私たちの悲しい現実です。(中略)霊魂の救いのことを真剣に考えるならば、財産を失うことくらいは全くとるに足りないことです。「なぜ、むしろ、不足を耐え忍ばないのですか」<Ⅰコリント6・7>と聖パウロは言っています。(144頁下段~145頁上段)

聖ベルナルドは本書の執筆開始から1153年の完結まで5年を要しています。彼は1153年に亡くなっており、この本が数ある著作の最後のものになります。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

2020年2月7日金曜日

【続・信仰書あれこれ】牧師と信徒のための説教入門

加藤常昭著『説教――牧師と信徒のために』(1964年、日本基督教団出版局・現代と教会新書) をとりあげます。

著者は20年以上前に牧師を引退して以降も精力的に著訳書を発表する一方、説教塾を主宰することで、後進の指導・育成に携わってきました。説教塾の活動は今や全国的な広がりを見せています。本書は、そんな著者の説教に関する最初の著作ではないかと思われます。

◇◆◇

正しい説教の聞き方
  • まず礼拝によく出席することです。常に説教を聞くことを喜ぶということです。……講壇に立って口を切ろうとするときに、身じろぎもせずに期待にあふれて、自分の言葉を待つ聴衆の視線を痛いほどに感じるとき、牧師は何もかも苦労を忘れてしまうような励ましを受けるのです。(32頁)
  • 熱心な聴衆は無言で説教にこたえます。あるいは問いかけます。……説教とは対話だと思います。説教者の独り言ではありません。説教者が孤立してしまっているような礼拝は礼拝ではありません。……ひたすら問う心、自分の救いを全うするために、教会の使命を生きるために、いつも真剣に問題を追及している心、そうした心に囲まれて、いいかげんな説教などはできるものではありません。(32~33頁)
  • 牧師も聞く者なのです。もちろん聖書にです。聖書の中に神の言葉を聞くのです。説教するというのは、説教者が会衆と共に、ただ彼が少しばかり知識がある者として、またその任務を教会から委ねられた者として、先導役を務めながら、聖書を一緒に読み、そこに神の真理の言葉を聞き取っていくことだということです。……説教者に対する期待だけではなくて、その説教者と共に聖書を読もうとする期待と熱心のあるところに、説教の正しく健康に行われる道があるのです。……説教者の自分自身の思想や体験が語られるのではなくて、聖書の真理を共に聞くのが説教だということです。(33~34頁)

説教の課題(以下は、P. T.フォーサイス の所見の抜き書きと著者は断っています)
  • 教会に集まる会衆がたとえ減少しなくても、彼らが説教の言葉に服従せず、説教の短いことのみを願うようになれば、それは教会の堕落である。(43頁)
  • メッセージの源泉は聖書である。聖書は説教者のための説教者である。説教者としての聖書の内容は、単なる神の真理ではない。神の恵みである。救いの力としての神の恵みである。だがその恵みは、イエス・キリストという歴史的な人格であり、歴史的なわざである。……説教の任務とは、この生けるキリストとの現実的・人格的な接触をもたらすことにある。(43~44頁)
  • キリストの力ある現実的な存在の場所が説教である。……正しく説教がなされることによって教会に霊的な現実性が与えられる。教会が霊的な力を持つということは、教会員がより信心深くなるというようなことではない。教会が真実にキリストの現実によって満たされることである。(44頁)

説教に不可欠な日常の牧会
  • 対話的ということは、牧会的ということでもあります。……日常の牧会的な行為、聴衆との間に牧会的な対話が繰り返されることのないところに説教が対話的になる道は開けません。本当を言うと日頃牧会のわざにいそしむ説教者は、それほど意識的に、技術的に工夫することがなくても、聴衆に正しく語りかけるすべを身につけることができます。自分の聴衆にどんな問題があり、その中へ、どんな言葉で、どんなふうに語りかけたらよいかという道を見出していくことができます。(82頁)

本書の後半は、欧州の著名な牧師・神学者六名の説教集です。全員が同じ箇所(ルカによる福音書5章1~11節)から語っており興味をそそられます。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆