今から50年ほど前のことです。音楽評論家の故・吉田秀和が、ある新譜レコード(リヒテルが演奏したバッハの「平均律クラヴィーア曲集」)を「一生聴くに堪える演奏」と評しました。曲自体とても魅力的なのですが、一つ一つの曲を慈しむかのように奏でる繊細なピアノの響きは、何度聴いても飽きのこない、まさに不朽の調べです。
そんな昔のことを思い出しつつ、自分にとって「一生読むに堪える信仰書」は何だろうと考えたところ、答えは即座に与えられました。竹森満佐一著『ローマ書講解説教 Ⅰ~Ⅲ』(1962~1972年、新教出版社)がそれです。
何種類かある竹森氏の説教集に接したことがないのは、ある意味で不幸ですが、これから繰り返しそれが読めると考えれば、幸福の極みです。少しでも多くの方に、竹森満佐一の不朽の説教集をひもといていただければと思う次第です。
『ローマ書講解説教 Ⅲ』のあとがきに、竹森氏は次のように記しています。「この説教は、一死刑囚のために書くことが動機であった。それが、その人の処刑後も続いたのである。今、これを完成して、その人から受けた数多くの手紙を通してその交友のことなどが思い出されて、感慨もひとしおである。東京の一隅の教会での説教が、極限状況に置かれた人々にも等しく福音として受け取られたことは、言いようのない感動を誘うものである。」(413頁)
第一分冊・第二分冊については本シリーズで触れたので、きょうは第三分冊の、「ローマの信徒への手紙15章14~21節」の説教から少しご紹介します。
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「説教」と「お説教」
- 福音を語るのは、いわゆるお説教をすることではありません。説教とお説教……の区別で最も重要なものは、説教する人自身が、自分のためにも福音を聞いていることです。誰よりもまず自分が福音を聞きながら、その福音を語るのです。そうでないと、説教する人は、居丈高になって話をしているが、聞いているほうから言えば、まことに空しく感じられるのです。それが福音なら、あなたが第一に聞いたらどうか、と言いたくなるのです。神の言の権威と、説教者の権威が混同されては、興ざめどころではなくなりましょう。(334頁)
自分を見失わない伝道者の道
- 我々は何のために伝道するのでしょう。……伝道は、信者を造り、教会を大きくしていくことであるというのは、決して間違ったことではありません。ただ、そういう言い方には、誤りやすい危険があることも事実であります。……間違いの少ない伝道者の道は、キリスト・イエスに仕えることなのです。ひとりの人に仕えるように、キリストというご主人に、どのようにして仕えるかによって、正しく伝道者になれるかどうかが定まるのであります。
このことを目標とし、これから外れなければ、伝道者としての道を誤ることはありません。しかし、礼拝とか説教とか言っても、キリスト・イエスに僕として仕える姿勢が正しくできていなければ、その伝道は、結局は失敗に終わります。その説教も、力を失うときがくるものです。(336頁)
伝道の最終目標
- 伝道は人を神のもとへ連れて行くことでありましょう。しかし、ただ神の話を聞かせるのではありません。話を聞かせるのは、ひとつの方法にすぎないのです。その人に、神を知ってもらうことも大切ですが、少し奇妙な言い方ですが、神にその人を知ってもらうのです。あるいは、その人に、神に知られたことを知らせる、と言ってもいいかもしれません。さらにはっきり言えば、その人を神に献げるのです。(中略)伝道は、人間を立派にするのが目的ではありません。人間を社会の役に立つものにするのが主要なことではありません。そうではなくて、その人を神のものにすることであります。自分が伝道しようとする人が、神のものになり切ったとき、その伝道は成功したとも、完了したともいうことが言えましょう。(336~338頁)
「信仰書あれこれ」は2018年1月にスタートし、2019年3月までに100件の記事を書くことができました。少し休憩したあと、2019年7月からは「続・信仰書あれこれ」と銘打って再開し、本日までで20件の記事を提供しました。
2018年10月末で自分がJELA事務局長を退任するにあたり、記念植樹のつもりで取り組んだ試みです。お読みくださる皆さんの励ましを感じながら、ここまで書き続けることのできた幸いを神様に感謝いたします。皆さん、これからも、主と共なる喜びと希望に満ちた日々をおすごしになりますように!
JELA理事
森川 博己
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日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト