2020年3月27日金曜日

【続・信仰書あれこれ(最終回)】一生読むに堪える信仰書

今から50年ほど前のことです。音楽評論家の故・吉田秀和が、ある新譜レコード(リヒテルが演奏したバッハの「平均律クラヴィーア曲集」)を「一生聴くに堪える演奏」と評しました。曲自体とても魅力的なのですが、一つ一つの曲を慈しむかのように奏でる繊細なピアノの響きは、何度聴いても飽きのこない、まさに不朽の調べです。

そんな昔のことを思い出しつつ、自分にとって「一生読むに堪える信仰書」は何だろうと考えたところ、答えは即座に与えられました。竹森満佐一著『ローマ書講解説教 Ⅰ~Ⅲ』(1962~1972年、新教出版社)がそれです。

何種類かある竹森氏の説教集に接したことがないのは、ある意味で不幸ですが、これから繰り返しそれが読めると考えれば、幸福の極みです。少しでも多くの方に、竹森満佐一の不朽の説教集をひもといていただければと思う次第です。

ローマ書講解説教 Ⅲ』のあとがきに、竹森氏は次のように記しています。「この説教は、一死刑囚のために書くことが動機であった。それが、その人の処刑後も続いたのである。今、これを完成して、その人から受けた数多くの手紙を通してその交友のことなどが思い出されて、感慨もひとしおである。東京の一隅の教会での説教が、極限状況に置かれた人々にも等しく福音として受け取られたことは、言いようのない感動を誘うものである。」(413頁)

第一分冊・第二分冊については本シリーズで触れたので、きょうは第三分冊の、「ローマの信徒への手紙15章14~21節」の説教から少しご紹介します。

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「説教」と「お説教」
  • 福音を語るのは、いわゆるお説教をすることではありません。説教とお説教……の区別で最も重要なものは、説教する人自身が、自分のためにも福音を聞いていることです。誰よりもまず自分が福音を聞きながら、その福音を語るのです。そうでないと、説教する人は、居丈高になって話をしているが、聞いているほうから言えば、まことに空しく感じられるのです。それが福音なら、あなたが第一に聞いたらどうか、と言いたくなるのです。神の言の権威と、説教者の権威が混同されては、興ざめどころではなくなりましょう。(334頁)

自分を見失わない伝道者の道
  • 我々は何のために伝道するのでしょう。……伝道は、信者を造り、教会を大きくしていくことであるというのは、決して間違ったことではありません。ただ、そういう言い方には、誤りやすい危険があることも事実であります。……間違いの少ない伝道者の道は、キリスト・イエスに仕えることなのです。ひとりの人に仕えるように、キリストというご主人に、どのようにして仕えるかによって、正しく伝道者になれるかどうかが定まるのであります。
    このことを目標とし、これから外れなければ、伝道者としての道を誤ることはありません。しかし、礼拝とか説教とか言っても、キリスト・イエスに僕として仕える姿勢が正しくできていなければ、その伝道は、結局は失敗に終わります。その説教も、力を失うときがくるものです。(336頁)

伝道の最終目標
  • 伝道は人を神のもとへ連れて行くことでありましょう。しかし、ただ神の話を聞かせるのではありません。話を聞かせるのは、ひとつの方法にすぎないのです。その人に、神を知ってもらうことも大切ですが、少し奇妙な言い方ですが、神にその人を知ってもらうのです。あるいは、その人に、神に知られたことを知らせる、と言ってもいいかもしれません。さらにはっきり言えば、その人を神に献げるのです。(中略)伝道は、人間を立派にするのが目的ではありません。人間を社会の役に立つものにするのが主要なことではありません。そうではなくて、その人を神のものにすることであります。自分が伝道しようとする人が、神のものになり切ったとき、その伝道は成功したとも、完了したともいうことが言えましょう。(336~338頁)

「信仰書あれこれ」は2018年1月にスタートし、2019年3月までに100件の記事を書くことができました。少し休憩したあと、2019年7月からは「続・信仰書あれこれ」と銘打って再開し、本日までで20件の記事を提供しました。

2018年10月末で自分がJELA事務局長を退任するにあたり、記念植樹のつもりで取り組んだ試みです。お読みくださる皆さんの励ましを感じながら、ここまで書き続けることのできた幸いを神様に感謝いたします。皆さん、これからも、主と共なる喜びと希望に満ちた日々をおすごしになりますように!

JELA理事
森川 博己

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【関連リンク】 
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

2020年3月18日水曜日

【続・信仰書あれこれ】キリスト者の自由

徳善義和著『自由と愛に生きる――「キリスト者の自由」全訳と吟味』(1996年、教文館)をとりあげます。ルターを知るための必読文献のひとつです。

以下で引用するのは、すべて徳善氏の文章です。

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『キリスト者の自由』の存在意義
  • この小著をもって、宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト教的自由」の理解に全く新しいものをもたらした。……その新しい理解によって、キリスト教そのものに革新をもたらしたのである。……その新しさにおいて、真にキリスト教の使信、信仰の核心に迫り、これを提示しえたからである。しかも、これが……神学的な認識や理論としてではなく、まさに、彼の生と死を賭した、彼の存在をあげてのかかわりからほとばしり出るような激しく、迫りくるものを内に秘めているがゆえに、その革新と核心に貫かれる小著が、衝撃的な力を持ちえたのである。(中略)キリスト教的自由、キリスト者の自由のパウロ的理解を回復し、さらに深めたところに、『キリスト者の自由』のもつ、新しさ、革新性があったと言ってよいであろう(9~13頁)

名詞型の思考から動詞型の思考へ
  • 一般にルターは名詞型の思考ではなく、動詞型の思考をすると私には思えるし、そこに中世の信仰、教会、神学からの宗教改革的転回のひとつの手がかりがあると思われる。「神の義」を名詞としてとらえるのではなく、「神は我々を義とする」という形で動詞的に把握されるという具合である。……そうすると、「私こそいのちであり、復活である」<ヨハネ11・25>とは、……「私こそが生かし、復活させる」という動詞型を含んでおり、それだからこそ「私を信じる者はとこしえに生きる」につながることになる。また、「私こそ道であり、真理であり、いのちである」<ヨハネ14・6>も「私こそが導き、その道を歩ませ、真理に触れさせ、真実とし、生かす」ことを含んでいる。(83~84頁)

律法と福音
  • 誤解してはならないことは、ルターはごく形式的に、律法は旧約聖書のもの、福音は新約聖書のものとはしていないということである。旧約聖書にも新約聖書にも、そのいずれにも、律法の働きをする神の言葉と、福音の働きをする神の言葉との二とおりの神の言葉があるのである。何であれ、人間の罪を告発し、人間を絶望に導く働きをするものは律法であって、「古い契約」でしかない。……たとえば、キリストの十字架――これは本来、福音の中心である――が説かれたとしても、それがイエスを十字架につけた人間の罪の告発しか説かないで終わるとすれば、そのとき、そのような十字架の説教は、単に律法の働きしかしていないことになる。(112頁)

「信仰+愛」ではなく「信仰=愛」
  • 中世に支配的であった考え方は、信仰は、せいぜい教会が教えることが正しいとして知的に承認することにすぎなかった。それでは全く何の力もなく、何の実も結ばないので、信仰だけでは不十分だということになる。そこで、信仰に愛が加わらなくてはならない、愛を加えなくてはならない、ということになった。信仰プラス愛として初めて、信仰の具体的な形が現れてくるというのである。そういう考え方、受け取り方にルターは真っ向から反対している。神が働かれる、そこに、無からの創造として、信仰が結果する。神が徹底的に先行するのであって、神の働きは全てである。そのように働かれる神がおられるから、そのような神を「私は信じます」ということになる。働かれる神とその神への信頼が、信仰というひとつの出来事の両面である。そして、この出来事にすでに愛がある。この出来事が神の愛に基礎づけられているからである。だから、信じる人間は愛する人間、愛に生きる人間である。(155頁)

本書冒頭には、ルターが『キリスト者の自由』を教皇レオ十世に贈った際の、次のような贈呈文が付されています。「(初めから十頁ばかりを省略)私はおそらく恥知らずでございます。誰でもが教えを受けるべきあなた、また、あなたの有害なおべっか使いの何人かがあなたを持ち上げて、王も裁判官も皆あなたから判断を仰がねばならないと言っているほどのあなた、これほど偉大な位の高いあなたに教えようとしているのですから。しかしこの点で私は、教皇エウゲニウス宛の文書における聖ベルナールに従います。この書はすべての教皇が暗記すべきであります。(後略)」(本書46頁)

上の文中の「聖ベルナールから教皇エウゲニウスに宛てた文書」というのは、本シリーズでとりあげた『熟慮について』のことだと思われます。併せてお読みいただけると幸いです。

徳善義和氏の編集になるものとして、本シリーズでは『世界の思想家(5)ルター』も紹介しています。こちらも素晴らしい本です。

JELA理事
森川 博己

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2020年2月27日木曜日

【続・信仰書あれこれ】内村鑑三の平和論


鵜沼裕子著『近代日本キリスト者との対話――その信の世界を探る』(2017年、聖学院大学出版会)をとりあげます。

本書は、著者の論文や学会での報告などをまとめたものです。植村正久における文学と信仰、新渡戸稲造の植民地政策、賀川豊彦と悪の問題など、興味深いテーマばかりです。

以下では、戦争と平和に関する内村鑑三の考えの変遷に触れた部分をご紹介します。

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義戦論から非戦論へ
  • 戦争をめぐる内村鑑三の態度については、日清戦争における義戦論から日露戦争開戦時の非戦論への変節が、「劇的な転身」として広く知られている。……内村は、自分が「日清戦争義戦論」を猛省した主な理由は、日清戦争の国家目的をめぐる現実認識の誤りに気づいたためであったとしている。……同戦争を、「支那」の圧政から朝鮮を解放するための「欲に依らざる戦争」すなわち正義のための戦いであると主張した。しかしながら、日清講話条約(下関条約) の結果、同戦争が実は朝鮮をめぐる日本と清国との利権争いにすぎなかったことが明らかになったとし、略奪戦争に終わった日清戦争を義戦として支持したことを深く恥じるに至る。(52頁)
  • 日露開戦の是非をめぐる世の議論の高まりの中で、「凡て剣を取る者は剣によって亡ぶべし」<マタイ福音書26・52、内村訳>というイエスの言葉を引きつつ、あらゆる戦争を否定する態度を明確にするに至った<原文には出典が明記されている。以下「出典明記」と略記>。それは、「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である」という「絶対的非戦論」の立場であった<出典明記>。……ところでこの時期の内村は、「剣」による平和の実現には“NO”を突き付けながらも、人間の努力や英知の結果による平和招来の可能性にはまだ希望を抱いていた。(52~53頁)

非戦論の質の変化
  • しかしその後、キリスト再臨の信仰を得たことが、内村の非戦論の質に根本的な変化をもたらした。第一次大戦下における内村は、人間の力による平和実現をすべて断念して、戦争廃止の実現を、神の大能の御手の中、すなわちキリスト再臨の時に委ねるという確信に至ったのである。……ここに至ってキリスト信徒の務めは、平和運動を自己目的としてこれに関わるのではなく、再臨のキリストのために道を備えるべく平和論を唱え続けることに求められることとなる。そして、聖書に約束されたキリスト再臨のとき、すべての被造物は不朽の生命を与えられ、ここに初めて真の正義と平和が臨み、愛が人類の法則となり、創造の目的に適う完全な天地が現成するのである、と説いた。(53~54頁)
  • 人間の努力は、何事であれその実現を目指そうとするなら、すべて無益である。罪人の集合体である世界において、完全な平和の実現を望むなどということは、内村にはいわばザルで水を汲むような行為にすぎなかったからである。しかしそれでもなお人が正義の実現に向けて倦むことなく行為し続けるのは、「バプテスマのヨハネの如くに<再臨の>主のために途を備うる」<出典明記>行為だからなのである。人のあらゆる努力は、努力目標の直接の実現を目指そうとする限り意味を失う。代わってすべての行為の目的は、神と世界の関係をあるべき姿に正すことに置かれることとなり、その努力の根源的な意義と不屈の活力を獲得するのである。(73~74頁)

本書に関連した著者の書籍には、『近代日本のキリスト教思想家たち』(日本基督教団出版局) 、『近代日本キリスト者の信仰と倫理』(聖学院大学出版会) があります。

内村鑑三の著作について本シリーズでは、『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』と『後世への最大遺物』 をとりあげています。

JELA理事
森川 博己

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2020年2月14日金曜日

【続・信仰書あれこれ】聖ベルナルド から教皇への助言


聖ベルナルド著『熟慮について――教皇エウゼニオ三世あての書簡』(1984年、中央出版社) をとりあげます。

12世紀の激動する社会の中で教皇職をいかに遂行すべきか、いかなる心構えで神の前に生きるべきか等々、聖ベルナルドは信仰上の愛弟子であるエウゼニオ三世の求めに応じて、懇切丁寧に数々の助言を与えています。

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自分がみんなの奉仕者であることを忘れないこと
  • 預言者の模範に倣って、権威を行使することよりも、時のしるしを見極め、率先して難事に当たる者となってください。(56頁下段)
  • あなたが受け継ぐべきものは……働きと奉仕のわざであって、決して栄光や富ではないのです。(中略)司教職の称号には支配ではなく奉仕が含まれていることを、夢にも忘れてはならないのです。(57頁下段)

徳に進んでいるか否かの見極め方
  • 昔と比べて、いっそう忍耐強い者になったか、それとも不忍耐になりはしなかったか、いっそう短気になりはしなかったか、それとも柔和になったか、いっそう高慢になりはしなかったか、それとも謙遜になったか、いっそう親切な者になったか、それとも尊大になったか……神への畏れの念を持つようになったか、それとも大胆なふるまいをするようになりはしなかったか、このようなことについて大いに反省してみる必要があると思います。(74頁下段~75頁上段)

順境と逆境のときのふるまい方
  • 逆境にあっても知恵を失うことなく、正しくふるまうことのできる人は偉大な者です。しかし順境にあって有頂天になることなく、常に優しい微笑みをたたえて人に接することのできる人は、さらに偉大な者ということができるでしょう。(76頁下段)

何かを実行に移す前に考慮すること
  • 真に霊に導かれて生きる人は、……何かを実行に移す前に三つのことを考察します、まず第一に、そのことが許されていることなのか、第二に、ふさわしいことなのか、第三に、有益なことなのか、という点について考察するのです。……許されていることでなければふさわしくありませんし、許されていること、ふさわしいことでなければ有益でもないのであって、そこに例外的なものは何もありません。(102頁下段~103頁上段)

今すべきこと
  • 今あなたにできることは一つだけです。すなわち、いつの日にか「私の民よ、私があなたのためにすべきことで、しなかったことが何かあったろうか」<イザヤ5・4>と断言することができるように、この民のためにあらゆる手段を講じてみるということです。(127頁上段)

人事の要諦
  • これから要職に就くべき人を選ぶにあたって注意すべきことは次の点です。すなわち、自ら要職に就くことを望む者、あるいは喜んで承諾するような者はあまりふさわしくありません。むしろ謙虚な心から反対し、断るような人のほうがかえって適任者とみるべきです。ですからそのような人は、無理にでも説得して務めに就かせたらよいと思います。(132頁上段)

何に対して敏感であるべきか
  • キリストを失うことよりも個人的なものを失うことにいっそう敏感だというのが私たちの悲しい現実です。(中略)霊魂の救いのことを真剣に考えるならば、財産を失うことくらいは全くとるに足りないことです。「なぜ、むしろ、不足を耐え忍ばないのですか」<Ⅰコリント6・7>と聖パウロは言っています。(144頁下段~145頁上段)

聖ベルナルドは本書の執筆開始から1153年の完結まで5年を要しています。彼は1153年に亡くなっており、この本が数ある著作の最後のものになります。

JELA理事
森川 博己

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2020年2月7日金曜日

【続・信仰書あれこれ】牧師と信徒のための説教入門

加藤常昭著『説教――牧師と信徒のために』(1964年、日本基督教団出版局・現代と教会新書) をとりあげます。

著者は20年以上前に牧師を引退して以降も精力的に著訳書を発表する一方、説教塾を主宰することで、後進の指導・育成に携わってきました。説教塾の活動は今や全国的な広がりを見せています。本書は、そんな著者の説教に関する最初の著作ではないかと思われます。

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正しい説教の聞き方
  • まず礼拝によく出席することです。常に説教を聞くことを喜ぶということです。……講壇に立って口を切ろうとするときに、身じろぎもせずに期待にあふれて、自分の言葉を待つ聴衆の視線を痛いほどに感じるとき、牧師は何もかも苦労を忘れてしまうような励ましを受けるのです。(32頁)
  • 熱心な聴衆は無言で説教にこたえます。あるいは問いかけます。……説教とは対話だと思います。説教者の独り言ではありません。説教者が孤立してしまっているような礼拝は礼拝ではありません。……ひたすら問う心、自分の救いを全うするために、教会の使命を生きるために、いつも真剣に問題を追及している心、そうした心に囲まれて、いいかげんな説教などはできるものではありません。(32~33頁)
  • 牧師も聞く者なのです。もちろん聖書にです。聖書の中に神の言葉を聞くのです。説教するというのは、説教者が会衆と共に、ただ彼が少しばかり知識がある者として、またその任務を教会から委ねられた者として、先導役を務めながら、聖書を一緒に読み、そこに神の真理の言葉を聞き取っていくことだということです。……説教者に対する期待だけではなくて、その説教者と共に聖書を読もうとする期待と熱心のあるところに、説教の正しく健康に行われる道があるのです。……説教者の自分自身の思想や体験が語られるのではなくて、聖書の真理を共に聞くのが説教だということです。(33~34頁)

説教の課題(以下は、P. T.フォーサイス の所見の抜き書きと著者は断っています)
  • 教会に集まる会衆がたとえ減少しなくても、彼らが説教の言葉に服従せず、説教の短いことのみを願うようになれば、それは教会の堕落である。(43頁)
  • メッセージの源泉は聖書である。聖書は説教者のための説教者である。説教者としての聖書の内容は、単なる神の真理ではない。神の恵みである。救いの力としての神の恵みである。だがその恵みは、イエス・キリストという歴史的な人格であり、歴史的なわざである。……説教の任務とは、この生けるキリストとの現実的・人格的な接触をもたらすことにある。(43~44頁)
  • キリストの力ある現実的な存在の場所が説教である。……正しく説教がなされることによって教会に霊的な現実性が与えられる。教会が霊的な力を持つということは、教会員がより信心深くなるというようなことではない。教会が真実にキリストの現実によって満たされることである。(44頁)

説教に不可欠な日常の牧会
  • 対話的ということは、牧会的ということでもあります。……日常の牧会的な行為、聴衆との間に牧会的な対話が繰り返されることのないところに説教が対話的になる道は開けません。本当を言うと日頃牧会のわざにいそしむ説教者は、それほど意識的に、技術的に工夫することがなくても、聴衆に正しく語りかけるすべを身につけることができます。自分の聴衆にどんな問題があり、その中へ、どんな言葉で、どんなふうに語りかけたらよいかという道を見出していくことができます。(82頁)

本書の後半は、欧州の著名な牧師・神学者六名の説教集です。全員が同じ箇所(ルカによる福音書5章1~11節)から語っており興味をそそられます。

JELA理事
森川 博己

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2020年1月24日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信徒のための神学入門

近藤勝彦著『信徒のための神学入門』(1994年、教文館)をとりあげます。

1987年5月から翌年11月にかけて日本基督教団鳥居坂教会で著者が行った「信徒のための神学講座」における講演14回分を収録したものです。かなりハイレベルな内容ですが、わかりやすく興味深い箇所をいくつかご紹介します。

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主の祈り」に関する注意点
  • 教会の礼拝で用いられる「御名をあがめさせ給え。御国を来たらせ給え。御心の天に成るごとく、地にも成させ給え」(森川注:以上は1880年のプロテスタント訳の冒頭部分。日本のプロテスタント教会の礼拝で幅広く使用されている)と祈るのは注意がいります。「御名」と「御国」と「御心」について祈るのですが、最初の「御名をあがめさせたまえ」という言葉ですと、「自分をして御名をあがめさせ給え」という響きに取れます。しかしそのように理解したら、それは正しくないと思います。そうではなくて主語は「御名」それ自体ですから、「御名」があがめられるようにというのであって、自分とか誰かが問題ではないのです。御名が、あがめられるように、御国が、来るように、御心が、成るように。このことを日ごとに祈れと主は言われたのです。この祈りの中では、御名があがめられ、御国が来、御心が成る、それがおもであって、その関連で後半の日ごとの糧の祈り中で自分の人生を考えているのです。(107頁)

人を知るために必要な使命の理解
  • 一人の牧師を理解するとき、その人の今までの生い立ちを理解し、あるいは、育った成長過程、また、その方の性格、考え方というようなものを理解することで、果たして尽きているかと言いますと、そうではないわけです。その人が何のために召されているか、また、何をもって使命としているか、そこを理解しないと牧師について理解したことにはなりません。これは牧師だけではないでしょう。キリスト者すべてに当てはまるのではないでしょうか。(240頁)

福音的談話の重要性
  • ルター自身の起草になる『シュマルカルデン条項』の中に福音を伝達する制度というのが出てきます。その中でルターは四つ挙げているのですが、第一は説教、第二は洗礼、第三は聖餐によるというのです。そして、第四に「兄弟相互の談話と慰め」というのが出てくるのです。(中略)「福音的談話」が語られる諸集会は、福音伝達の媒介になるわけです。ルターは、ご承知のように万人祭司ということを言っています。……万人祭司の積極的な意味は福音を互いに伝達することです。この万人祭司が非常に具体的に生きるのは、今申しました教会の諸集会における福音の談話なのです。そこで、各人は祭司である。神の赦しと慰めを伝え、互いに執りなすことができるのです。……外に向かってこの福音的な談話を言えば、「伝道」ということになります。教会の中で諸集会における福音的談話を言いますと、それはもちろん礼拝にとって代わるものではありませんが、礼拝に対する準備であり、また礼拝の展開であるということになります。礼拝を支える裾野のような仕方で、諸集会における教会員相互の談話が意味を持ってくるのです。(280~281頁)

近藤勝彦氏には多数の著作・説教集があります。本シリーズでは2018年6月に、最初の説教集である『中断される人生』 を紹介しています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川 博己

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2020年1月17日金曜日

【続・信仰書あれこれ】幸せを届ける涙と微笑み

ジャンヌ・ボッセさんの二つの著書、『しあわせは微笑みが連れてくるの』(2012年、メディアファクトリー。以下、『微笑みが』と略記)と『しあわせは涙のあとに届くもの』(2013年、メディアファクトリー。以下、『涙のあとに』と略記)をとりあげます。

両書とも、聖書勉強会や雑談中に著者が口にした短い言葉を材料に、わかりやすい解説やエピソードを加えて編集されています。

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『微笑みが』発行時に著者は96歳(日本在住65年)。本の反響が大きかったので、翌年『涙のあとに』が発行されました。明るく前向きな言葉が満載の二冊です。

聖書の「マルタとマリア」の話が両書に登場します。著者の説明が興味深いのでご紹介します。
  • フェルメールの絵にも描かれている「マルタとマリア」は、もともと聖書に出てくる話ですが、この中でも忙しさの危険について記されています。自分たちの家を訪れた客であるイエス・キリストのために、食事の支度など何やかや用事に追われ、忙しく立ち働く姉のマルタ。それに対して、妹のマリアは姉の手伝いもせず、イエスのそばに座り込んで彼の話に耳を傾けています。そんな妹に腹を立てた姉マルタがイエスに訴えると「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み心を乱している」と逆に諭されてしまう、というお話です。(『微笑みが』31~32頁)
  • 「マルタの態度は、お客をもてなす者として当たり前で、手伝ってくれない妹に腹を立てる気持ちも理解できることなのに、なぜ彼女のほうが注意されるの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。でも、イエスの真の望みは、ごちそうを用意してもらうことではなく自分の話を聞かせることでした。ですから、準備の忙しさの中で何が大切なのかわからなくなってしまっていた姉のマルタに対して、イエスはそっと諭されたのです。……もてなしてくれているマルタを批判しているのではなく、あくまでも、より大切なことをしている妹のマリアを責めてはいけないと説いているのです。(『微笑みが』32頁)
  • どちらも間違っているわけではないけれど、自分にとって今何が重要なのかをよく見極めなさいという話ですが、これをひとりの人間の中に姉と妹のどちらの部分もあると読み取ることもできます。つまり、人間には、かたくななまでに一生懸命になる部分もあれば、時に応じて大切なことに目を向ける部分もあるということです。(『涙のあとに』74頁)
  • 「放蕩息子」というたとえ話でも、まじめに親元で働き続けてきた兄が、放蕩の果てに故郷に舞い戻り、それでも父親に温かく迎えられる弟に腹を立てるのですが、これもまた同じように、ひとりの人間のさまざまな部分を表していると解釈することもできます。(『涙のあとに』74頁)

両書とも末尾に、著者の珠玉の言葉を五十音順に並べたコーナーがあります(『微笑みが』146頁以下、『涙のあとに』154頁以下)。その一部をご紹介します。
  • 愛はすべての始まりです/苦しみの先には希望がある/探さなくても幸せはある/心配しても変わらない/そばにいる人が大切な人/楽しい気分で周りを見る/必要なものはすべて与えられる/不思議を見つけて若返る/ふと気づくことは何かの知らせ/休む前に一日を振り返る/よく考えてから口にする/分かり合えば幸せ 分かち合えばもっと幸せ

『微笑みが』発売の数か月後、著者に関する大きな記事が新聞に載りました。『微笑みが』の内容をうまく紹介しています。→ 朝日新聞朝刊2012年11月27日付記事

JELA理事
森川 博己

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