2020年1月24日金曜日

【続・信仰書あれこれ】信徒のための神学入門

近藤勝彦著『信徒のための神学入門』(1994年、教文館)をとりあげます。

1987年5月から翌年11月にかけて日本基督教団鳥居坂教会で著者が行った「信徒のための神学講座」における講演14回分を収録したものです。かなりハイレベルな内容ですが、わかりやすく興味深い箇所をいくつかご紹介します。

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主の祈り」に関する注意点
  • 教会の礼拝で用いられる「御名をあがめさせ給え。御国を来たらせ給え。御心の天に成るごとく、地にも成させ給え」(森川注:以上は1880年のプロテスタント訳の冒頭部分。日本のプロテスタント教会の礼拝で幅広く使用されている)と祈るのは注意がいります。「御名」と「御国」と「御心」について祈るのですが、最初の「御名をあがめさせたまえ」という言葉ですと、「自分をして御名をあがめさせ給え」という響きに取れます。しかしそのように理解したら、それは正しくないと思います。そうではなくて主語は「御名」それ自体ですから、「御名」があがめられるようにというのであって、自分とか誰かが問題ではないのです。御名が、あがめられるように、御国が、来るように、御心が、成るように。このことを日ごとに祈れと主は言われたのです。この祈りの中では、御名があがめられ、御国が来、御心が成る、それがおもであって、その関連で後半の日ごとの糧の祈り中で自分の人生を考えているのです。(107頁)

人を知るために必要な使命の理解
  • 一人の牧師を理解するとき、その人の今までの生い立ちを理解し、あるいは、育った成長過程、また、その方の性格、考え方というようなものを理解することで、果たして尽きているかと言いますと、そうではないわけです。その人が何のために召されているか、また、何をもって使命としているか、そこを理解しないと牧師について理解したことにはなりません。これは牧師だけではないでしょう。キリスト者すべてに当てはまるのではないでしょうか。(240頁)

福音的談話の重要性
  • ルター自身の起草になる『シュマルカルデン条項』の中に福音を伝達する制度というのが出てきます。その中でルターは四つ挙げているのですが、第一は説教、第二は洗礼、第三は聖餐によるというのです。そして、第四に「兄弟相互の談話と慰め」というのが出てくるのです。(中略)「福音的談話」が語られる諸集会は、福音伝達の媒介になるわけです。ルターは、ご承知のように万人祭司ということを言っています。……万人祭司の積極的な意味は福音を互いに伝達することです。この万人祭司が非常に具体的に生きるのは、今申しました教会の諸集会における福音の談話なのです。そこで、各人は祭司である。神の赦しと慰めを伝え、互いに執りなすことができるのです。……外に向かってこの福音的な談話を言えば、「伝道」ということになります。教会の中で諸集会における福音的談話を言いますと、それはもちろん礼拝にとって代わるものではありませんが、礼拝に対する準備であり、また礼拝の展開であるということになります。礼拝を支える裾野のような仕方で、諸集会における教会員相互の談話が意味を持ってくるのです。(280~281頁)

近藤勝彦氏には多数の著作・説教集があります。本シリーズでは2018年6月に、最初の説教集である『中断される人生』 を紹介しています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川 博己

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2020年1月17日金曜日

【続・信仰書あれこれ】幸せを届ける涙と微笑み

ジャンヌ・ボッセさんの二つの著書、『しあわせは微笑みが連れてくるの』(2012年、メディアファクトリー。以下、『微笑みが』と略記)と『しあわせは涙のあとに届くもの』(2013年、メディアファクトリー。以下、『涙のあとに』と略記)をとりあげます。

両書とも、聖書勉強会や雑談中に著者が口にした短い言葉を材料に、わかりやすい解説やエピソードを加えて編集されています。

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『微笑みが』発行時に著者は96歳(日本在住65年)。本の反響が大きかったので、翌年『涙のあとに』が発行されました。明るく前向きな言葉が満載の二冊です。

聖書の「マルタとマリア」の話が両書に登場します。著者の説明が興味深いのでご紹介します。
  • フェルメールの絵にも描かれている「マルタとマリア」は、もともと聖書に出てくる話ですが、この中でも忙しさの危険について記されています。自分たちの家を訪れた客であるイエス・キリストのために、食事の支度など何やかや用事に追われ、忙しく立ち働く姉のマルタ。それに対して、妹のマリアは姉の手伝いもせず、イエスのそばに座り込んで彼の話に耳を傾けています。そんな妹に腹を立てた姉マルタがイエスに訴えると「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み心を乱している」と逆に諭されてしまう、というお話です。(『微笑みが』31~32頁)
  • 「マルタの態度は、お客をもてなす者として当たり前で、手伝ってくれない妹に腹を立てる気持ちも理解できることなのに、なぜ彼女のほうが注意されるの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。でも、イエスの真の望みは、ごちそうを用意してもらうことではなく自分の話を聞かせることでした。ですから、準備の忙しさの中で何が大切なのかわからなくなってしまっていた姉のマルタに対して、イエスはそっと諭されたのです。……もてなしてくれているマルタを批判しているのではなく、あくまでも、より大切なことをしている妹のマリアを責めてはいけないと説いているのです。(『微笑みが』32頁)
  • どちらも間違っているわけではないけれど、自分にとって今何が重要なのかをよく見極めなさいという話ですが、これをひとりの人間の中に姉と妹のどちらの部分もあると読み取ることもできます。つまり、人間には、かたくななまでに一生懸命になる部分もあれば、時に応じて大切なことに目を向ける部分もあるということです。(『涙のあとに』74頁)
  • 「放蕩息子」というたとえ話でも、まじめに親元で働き続けてきた兄が、放蕩の果てに故郷に舞い戻り、それでも父親に温かく迎えられる弟に腹を立てるのですが、これもまた同じように、ひとりの人間のさまざまな部分を表していると解釈することもできます。(『涙のあとに』74頁)

両書とも末尾に、著者の珠玉の言葉を五十音順に並べたコーナーがあります(『微笑みが』146頁以下、『涙のあとに』154頁以下)。その一部をご紹介します。
  • 愛はすべての始まりです/苦しみの先には希望がある/探さなくても幸せはある/心配しても変わらない/そばにいる人が大切な人/楽しい気分で周りを見る/必要なものはすべて与えられる/不思議を見つけて若返る/ふと気づくことは何かの知らせ/休む前に一日を振り返る/よく考えてから口にする/分かり合えば幸せ 分かち合えばもっと幸せ

『微笑みが』発売の数か月後、著者に関する大きな記事が新聞に載りました。『微笑みが』の内容をうまく紹介しています。→ 朝日新聞朝刊2012年11月27日付記事

JELA理事
森川 博己

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2020年1月14日火曜日

【続・信仰書あれこれ】祈るときに起こること


祈りのちから』(クリス・ファブリー著、2017年、いのちのことば社フォレストブックス。原題は”WAR ROOM”) をとりあげます。

本書は次のような内容です。「有能な会社員の夫と一人娘。何不自由なく見えるエリザベスは夫婦の問題を抱えていた。一方、祈りの友として若い人の力になりたいと願う老婦人クララ。二人は出会い、クララは『本当の敵』と立ち向かうには『戦いの部屋』が必要だと説く。家族の愛と絆を取り戻す感動のドラマ」(帯記載の文章から)

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本小説には以下のような、祈りの聖書的なとらえ方を示す言葉が次々に登場します。
  • クララが今までの人生経験の中で悟った真実があった。それはたましいの深い部分で私たちが大きく変わるために、神はあえて私たちを惨めな状態に置かれることがあるということだ。自分の力ではにっちもさっちもいかないような絶望的な状況の中に私たちを置くことによって、私たちがどれほど弱く、神がどれほど力のあるお方かを悟るために。(116~117頁)
  • 祈りの目的は、神さまを説得して私たちの望みをかなえてもらうことではなくて、私たち自身の心が変えられること、神のみこころを私たちの望みとし、神のご栄光が現されることなのよ。(147頁)
  • エリザベスにまず言いたかったのは、自分の計画を携えて神の御前に出ても、結局挫折してしまうということ。私たちはまず、すっかり自分を神に明け渡し、心から従う思いをもって祈らなければならないのだ。両手を空っぽにして毎朝神に向かい、自分の欲しいものを願い求めるのではなく、神ご自身を、そして神が私のために用意なさっているものを与えてくださいと祈ることが大切なのだ。(208頁)
  • 長いあいだイエスさまと一緒に人生を過ごすうちにわかったことがあるの。神さまの目的は、私たちをよい気分にさせたり、幸せにすることではないってこと。そうではなくて、神の御子であるイエスさまのように、私たちが聖くなることなの。イエスさまに従って歩んでいるならば、どんな人でも必ず苦しみや痛みの中を通るのよ。神さまが私たちに背負うように命じているのは、発泡スチロールのようなふわふわした十字架ではなくて、ささくれだった粗削りの重い十字架なの。……でもね。一つ確かなことがあるわ。もし神さまに信頼し続けるならば、神さまは必ず私たちを緑の牧場、いこいの水のほとりへと導いてくださるってこと。……たとえどんなひどい嵐の中にいたとしても、たとえ失望、恐れ、怒りのただ中にあっても、平安と安らぎを手にすることができるの。(251~252頁)
  • よくクリスチャンのあいだで、リバイバルについて話題にされるわよね。この社会や文化が神さまの力によって変えていただく必要があるとか、ハリウッドやいたるところにどれほど罪がはびこっているかとか。……長年生きているうちにわかったことは、そのリバイバルがほかの誰でもない、まず自分自身の中で起こらなくちゃいけないんだってこと。(309頁)
  • クララが、人生に起きる全ての出来事は、私たちがほんとうに神を信頼しているかどうかを試すための試験であると言っていたことがあった。(391頁)
  • 自分の敵のためにまず祈ることは大事なことですね。その人の人生に神が介入してくださるように願い求める……私たちはまずそこから始める。するとその祈りの答えとなるような機会がふと訪れるわけです。(397頁)
  • 神さまが関心を寄せるのは、試合に勝つのは誰かということではなく、主にあって私たちが成長することなの。神さまは、試合に勝とうが負けようが、私たちがご自身に近づくことを願っていらっしゃるんだと思う。(400~401頁)
テニスの決勝戦を争う二人が共にクリスチャンであるとき、どちらも「私に勝たせてください」と祈ったのでは、神さまでなくても困りますよね。「勝たせてください」という自己中心の祈りではなく、「全力を発揮できるように助けてください」と祈るべきなのでしょう。

本書は最初に映画が存在し、それを小説にしたものです。映画はDVDで見ることができます。

JELA理事
森川 博己

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